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新説 六界探訪譚  作者: 楕草晴子
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2.第一界―6

 すっかり忘れていた自分にびっくりだ。早く帰らないと。

 走り出すとおつりの小銭だけがポケットでじゃらじゃら音を立てる。

 両手が空いて腕を振りやすいのことを残念がる気力がようやく湧いた。

 コウダはあの小脇に抱えた額縁をどうするつもりなんだろう。

 飾っといても邪魔なだけの気がするけどなぁ。

 花びらがどうなるか見ておけって言ってたけど、だったらあの額縁も消えてなくなっちゃうんじゃないの?

 急いでいるのに考え事が頭を離れず、コウダを追う前に走っていた続きの道を走りながら周りも見回す。

 見慣れた建物しか出てこないし、時間もいつもと変わらないくらいしかかかっていない。

 家の前まで来た。

 やっぱりいつも通りだ。

 明かりがついていないことに一旦ほっとし、すぐに不安がぶり返した。

 わざわざあかりを消してだまし討ちするなんて面倒な真似する親父じゃない。

 いるなら正面切って待っている。

 が。

 玄関の鍵を開け、スムーズに開かなくなっている引き戸をガラっガラっと上手く引くと、念を入れてただいまをいつもより大きめの声で言ってみる。

 しんと静まり返った。大丈夫だ。

 そのまま靴下を脱ぎながら上がり、玄関の電気をつけ、部屋の電気もつける。

 中も別に普段と変わりない。

 今度こそ胸をなでおろし、風呂場に向かう。

 よかった。

 そして親父もまだ帰ってきていなさそう。本当に本当によかった。

 もし今ここで親父が仁王立ちで噴火していたとしても、あの目の前で繰り広げられたイチャイチャ動画を思い出して変顔してしまったかもしれない。

 そうなったら普通に絞られるよりもっと悲惨だった。変顔した理由はどうやったって説明できないから。

 小銭が入ったままのジーンズを脱いで適当にたたんでおいて、洗面台の鏡を見た。

 多少ケチャップで汚れている。

 特にあいつがつかんだ両肩が。

 そして首に引っ付いた花びら。

 指でとって、洗面台の横に引っ付けた。

 舞っているのを見るときれいな花びらも、汗がついて生あったかくなった単体にはあの優雅さのかけらもない。

 改めて見るとジーンズにも赤いのがついている。これは要洗濯だ。

 小銭を取り出してTシャツともども風呂場に持ち込む。蛇口をひねるとまだ冷たい。

 服を石鹸で洗っている間にぬるくなって来るのを感じ取る。

 赤黒く濁る水を見ると、明日の夕飯になる予定だったオムライスが脳裏に浮かんでため息が出た。

 シャワーに切り替えてそのままぬるいお湯で全身を流す。もう今日は風呂に入るのはやめてシャワーだけでいいや。

 烏の行水を終え、洗った服を絞るのもそこそこに洗濯機に放り込む。

 適当に体をふいていると、服を着る間もなく玄関が開く音がする。親父だ。

「ただいま」

 じゃいいや。そのまま出ちゃえ。

 いろんなところが涼しい。

 親父は玄関で適当に足を振って靴を脱いでいた。

「お帰り」

 さっきコウダと一緒にいたときに見たあのニコニコ顔とは似ても似つかない。

 酒で真っ赤になった顔。暑いのに上着に羽織っている会社の作業着はいつも通り小汚い。

 ワイシャツの一番上のボタンは苦しくて外したのだろう。

 浅黒い縦長の顔に鷲鼻。小さくて丸い二重の目がぽちっとついている。

 怒るとこの目が5割増しでかくなって、白目が本当に血走る。白目の血管が切れやすいたちで、翌日くらいまで白目の一部が赤い。

 カッと見開いて初めて、あの目が実は釣り目だということに気づく。

 さらに眉間にしわが寄る。あと、口も思い切り開けると結構でかい。

 本当に般若の面のような形になる。

 それを思い浮かべた後、この親父の今の顔を見て、次いでさっき見てきたあれと頭の中で比較してみる。

 落差が分かりやすい。というかどうやって筋肉を動かしたらこの顔がああなるのだろう。

 あの釣り目が恵比寿担任と見違えるほど垂れ下がって、口も横に長く口角が上がって。

「風呂湧いてるか」

 親父は俺のあからさまな姿を見て風呂上りと判断したらしい。

「シャワーで済ませた」

 ため息をついてがっかりし、そのままのろのろと荷物を置きに向かう。

 すれ違いざま、

「なあ、お前の靴の汚ったねぇの、あれ、なんだ」

「え」

「なんかついてたぞ」

 玄関で改めて見ると、泥とケチャップが混ざったものが靴の周りに引っ付いてぐちょぐちょだ。

 あんなに歩いたのに落ちてなかったか。

 玄関もちょっと汚れている。

 シャワー浴びてすっきりしたのに。

 やっぱり、現実だったんだ、あれ。

 靴洗いと玄関の掃除という仕事が増えてしまった。

 ケチャップは買ったけどもうない。

 明日の夕食はオムライス改めチャーハンっていうか、ピラフもどき。

 …くそったれ。

 よかったのは親父の帰宅が俺の後だったことだけだ。

 親父はどうしても風呂に入りたかったらしく、沸かしながら何かしている。

 今日あったあれやこれやを話す気にはなれない。話したところでコウダの言った通り、早々に話をたたまれた挙句鼻で笑って、夜更かししないで寝ろよとか言われるのがオチだ。

 玄関を軽く掃除した後、靴を水の入ったバケツに放り込む。

 面倒だ。風呂場は親父がいるし、もう洗うのは明日にしよう。明日はもう一足のほうを履いていこう。

 洗面所においてあった寝間着のジャージと、ついでに花びら。

 少し乾いてきたのか、薄くなっているようだ。コウダは脅してきたが、押し花みたいになるだけだろう。

 親父が花びら捨ててるかと思ったけど、よかった疲れてくれてて。

 風呂場の模様ガラス越しに親父の姿がぼんやり見える。

「おやすみ」

「ん、お休み」

風呂場の中からエコーがかかった声が返ってきた。

二階に上がろう。

上を見ると、あの坂道で見た二人の姿が思い出された。

いわゆる仲良し離婚。別れた事情もいろんなとこから聞こえてしまって知っている。

それにしてもあの時の顔といったら。

欲しいものを全部いっぺんにもらったみたいに嬉しそうにする母さんと、その顔を前から覆いかぶせていく親父の顔、その後は、

「おい、真宏」

びくっと体が震える。

親父が何か言い忘れたらしい。

エコー無しの声がする。風呂場の戸を開けて叫んできたのだろう。

「なに」

 叫び返すと、親父から声だけ聞こえてきた。

「風呂あがったら一応パンツぐらい履いとけ」

 取ってつけたような小言だ。

 さっきまでさほど気にも留めていなかったが思い出して一応親として、というところだろう。

 だが屋内をフリチンで歩く俺と、パンツ一丁にパーカーを羽織っただけで勝手口から出てポストの郵便物を取りに行ける親父を比較すると、屋内で止まっている俺のほうがましな気がする。

 母さん、なんでこんなお手本としてちょっとアレな親父を俺とともに放流したのですか。

 階段の下に向かって、わかったとだけ返事をして上に上がった。

 今は自分の部屋になっている仏間の入り口の襖を開けると、じいちゃんの位牌が廊下から入ってきた光に反射する。

 寝間着にしているジャージを着たらどっと疲れが湧いてきた。

 身長が伸びて最近買い替えたにもかかわらず、買って1週間そこそこで元の煎餅布団と同じ感触になった軽くて安い布団。

 それでも押し入れから出すのが今日は重く感じる。

 タオルを腹にかけて煎餅布団に横になると、あっという間に体に根っこが生えたように起きる気がなくなる。

 そういえば、花びら置いたはずだけど、どこ行ったっけ。

 瞼は体以上に重く眼玉に覆いかぶさる。

 まあいいか。

 何とか最後の力を振り絞って蛍光灯から延びる紐を引っ張って電気を消したら、速やかに意識が遠ざかっていった。

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