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One day swallow

作者: あかさ

 秋の陽がいまだ頭上にもない時間。隣の彼女の藍色にも見える黒髪を照らす陽光が、撫ぜるように肌を滑った気がした。頭上を越えるころには汗ばむ程度にはなりそうだ。

「いやですね。この季節は」

 応えを求めるつもりのない独り言のつもりだったが、独り言というのは一人の時にこそ使うべきものだと次の瞬間には思い知った。

「そうかい。いい季節ではないか。私は好きだよ。陽も草も動物も、愛に溢れている」

 隣を歩く彼女は、その愛の詰まった胸に、さらに素敵なものを吸い込むように深く呼吸をする。

「その通り。だから駄目なんです。僕には素敵すぎます。僕は暑いのも寒いのも嫌いです。だからつい、そう出来心って奴です。思ってしまうんですよ。僕の惰弱さが、一年中この天気なら、この季節ならっていうに風に」

 瞬間、陽光が目に入り思わず目をつぶる。

「思うだけならいいんじゃないか。実際、祐樹くんにそんなことができることは未来永劫訪れるとは思えない」

「違うんです。その惰弱さこそが依存を生む。僕は依存心が嫌いなんです。自分がそれを持っているとは思いたくないし抗えるものなら抗いたい」

「しかし、それでこの季節を恨むのは筋違いではないか?」

 手に持ったビニール袋が指先の血流を遮ってきたので空いた片方の手に持ち帰る。

「これまたその通り。しかしですね。結局それもまた僕の精神の惰弱さからです。僕の優先順位では僕の都合で季節を嫌うということよりも、依存心の方がまだ許容できるものというだけです。だからどっちかをしなければならないのなら、僕は季節を恨みます」

「随分勝手な都合だな」

「人は元来勝手なものですよ。ただ、勝手気ままに過ごすにも罪悪感が付きまとうからより辛い」

「考えすぎだな。もしくは考えることがおかしいのか」

「おや。それはどういうことですか?」

「別に単純だよ。どんなに深く考えたとしてもそれがずれていたら困る。それが横にずれていたのか、浅いところを深く考えたのか。考えるところは依存心が生むところの悪影響ではないか。恐らく祐樹君は依存心が生む悪影響が嫌いなのであって、依存心に対しての悪感情はないのだと思うよ」

「なるほど。それは確かに」

「ああ。だから、季節に依存することの悪影響というのが証明できない以上、今この季節を嫌いになる理由としてはなりえないのではないか」

「…これは恐れ入った。あなたには季節の弁護人の称号を授けよう。これ以上反論しても言い掛かり以上のものを提示できる自信がない」

「いやいや。別に弁護したいわけではない。仮に、祐樹君がこの季節になってしまうと寝てしまうというのなら、私が代わりにこの季節を憎む。ただ、私の好きな季節を祐樹君が嫌いだというのはどうも許せない」

「なるほど。あなたはあなたの弁護をしただけか」

「そんなところだ」

「それで、話は変わりますが」

「なんだ?」

「少し荷物を持ってくれませぬか?」

 片手に持った荷物を彼女に差し出す。

「私は進言いたしましたよ。お米とお醤油は一つの袋には重すぎると」

「お言葉、確かに記憶にごぜえます。しっかしお嬢さん。意地を張りたくなるのも漢の性というモノでごぜえます。危険と言われれば前に進み、安全と言われればあえて反対に行きたくなるのが漢という生き物でごぜえます」

「そう、おっしゃるのであれば、男に二言はねえとはっきりとおっしゃってその足を前に進ませるのが漢ではありませぬか、お前さん」

「いえ、いえ、家には婆様がまっておられる。老いも若いも女を待たせるというのは漢のすることではありません。お嬢さん、ここはあっしのためでなくどうか手前さんの婆様が為に、一つお願いを聞いてはくださらねえか」

「そこまで、おっしゃるなら仕方がありませぬ。しかし、私の非力で頼りない腕ではその袋を持った途端ポキリと折れてしまいそうで」

「ご安心なされよ。お嬢さん。なれば中の米はあっしが担ぎましょう。残った醤油だけならば、袋に入ったままでもごぜえますし、きっと容易に持てるに違いありません」

「では、やさしくこの腕にかけてもらってよろしいか」

「ははあ、御意に」

 そう言って僕は、米を抜いたビニール袋をポキリと折れないように静かに彼女の腕に預けた。

「うむ、家にはお婆様が待っておられる。急ぎ、家路に向かいましょう」

「御意」

 僕らは家へと急ごうと一歩前に足を出した時、視界の隅を何かが通り過ぎた。

「あれ、今のは何だろう」

「鳥、どうやらツバメの様だな」

「ツバメですか?そりゃあ大変だ。今随分と低かったですよね」

「ああ。でもそれが何か?」

「ツバメが低く飛ぶと雨が降る。聞いたことはないですか?

「あるがそれは迷信では?」

 彼女は半笑いで言う。 

「いやいや、意外とそれが馬鹿にできなくてですね。これも知っていますか。ツバメは益鳥なんです。彼らは人間にとって害になる虫を食べる。雨が降る前はその虫も低く飛ぶから、ツバメも低く飛ぶんです」

「ほう、意外としっかりとした理由があるんだな。私が知っているツバメの話は商売繁盛とかそんなのだ」

「ああ、ツバメは人の近くに巣を作るから、人が良く来る場所、商売としてはこれ以上にない縁起物ですね」

「なるほど、こうしてみると、たかがツバメ一匹に随分と意味を込めたものだ。昔の人は」

「確かに、そういやもう一つありますよ。若い燕」

「若い燕?」

「ええ、主に不倫関係にある、年下の男のことをいうそうですよ」

「ほお、なぜ若い燕というのか興味があるな」

「さあ。年下の男が女性に送った手紙の一節だそうで、詳しいことは知りません」

「気になるな」

「そうですか」

「そうだな。不倫でなければ若い燕とは呼べないのかとかな?」

「はて?なんのことでしょう」

「辞書で調べてみて、類語としてひもと出たら若い燕と言ってあげたい相手がいるんだ」

「ろくでもない男ですね、どちらにしても」

「ああ、祐樹君が毎朝洗面所であっている男なんだがな」

「ははは、あの家に若い男が僕以外にいたとは」

「私としてはそんなに悪いイメージのある言葉には聞こえないのだがな」

「そうですか?」

「そうだとも。若く鋭く飛ぶツバメというのは想像するだけで美しいし、仮にもっと幼く、口を開けて餌を待っているだけの姿というのも、筆舌し難い母性を感じさせるではないか」

「確かにそれなら合点がいきますね」

「ああ、だから若い燕君。私の周りに虫を飛ばせないように、これから先も私の益鳥になってくれたまえ」

 そういう彼女の耳は陽光の明るさのせいか、やけに赤く見えた。

「御意に」

 僕の口からはさっきのせいかすんなりと返事がでた。


 ◆◆◆


 電車のドアが開くと懐かしい空気が二人を包んだ。

「いやー懐かしい」

「どうしたの?」

「ここはね、私の高校の時の最寄駅なんだよ」

「あら、そうなの。時間あるから少し寄る?」

「いや、いいよ。早めにいって話したいこともある」

 男の顔が変わると同時に古い電車のドアも空気の抜けた音を大きめにたてながら締まる。

「あらあら、おっかないわね」

「そんなことないさ。極めて冷静だよ。私は」

「ふふふ、そういう顔には見えないわ」

 そう言って笑った女の左の薬指には指輪が嵌められており、隣の仏頂面を浮かべた男の指にも同様に指輪が嵌められていた。

「でも、高校生の頃の貴方は見たことないから、少し興味あるわ」

「そうかい?なんてことないさ、ただただ間抜けな高校生だったよ」

「間抜け?」

「ああ、さっきの駅と関係するんだけど、丁度今だったかな。季節的には。私は今の駅で降りて、まあ当然遅刻ギリギリで急いでいたんだけど、その時制服のボタンが一個ずつずれていたのさ。今では何故気づかなかったのか不思議だけどまあ急いでいたからね。父より歳をとった体育の先生が当時私は怖くて怖くて、慌ててボタンを治そうと立ち止まった。そしたら肩にポタっとさ。そう、鳥の糞。おっと30年以上前のことだからね。鳥の正体はツバメさ。全く、いやな思い出だよ。あとにも先にも鳥に糞を落とされたのはその一回さ」

「ふふ、確かに間抜けね」

「いや、これだけならただの不注意さ。いや、やっぱり間抜けかな。まあ、当然だけど学校に着いてから必至に落としたけれど、家に帰ってから親に伝えてね。親に愚痴ったのさ。『何で、ツバメは駅長なのに糞なんか落とすのだろう』ってね。そう少年だった私はツバメは益鳥のエキを電車の止まる駅だと勘違いしていたのさ。音では一緒だからね。それに当時私はツバメが駅にしか巣を作らないと勘違いしていたから。そうしたら親が呆れて本当の意味を教えてくれたのさ。でも、私にも恥ずかしいという気持ちはあったらしく、それはインスタント料理を手作りと勘違いするような恥ずかしさだけど、当時の私が墓穴掘るには充分な恥じだったようでね。黙っていたボタンがずれていたという事実を話してしまって、叱られてしまったよ」

「確かにとんだおまぬけさんね」

「お恥ずかしい限りで」

「いえいえ、聞けて嬉しかったわ。ツバメといえば、幸福な王子のお話は知っている?」

「ああ、家にあったから読んだ気がする」

「自己犠牲のお話なのだけれど」

「おや、少しまて。そんなお話だったかな?もう少し心温まるお話だった気がするけど」

「自己犠牲というのは見ていれば綺麗だし、終わりに報われれば暖まる話になるのよ」

「なるほど、確かにそうかもしれない」

「それで、私は高校生のころ文芸部に入っていて、丁度その話を読んだの。王子は幸せだったと思う?」

「もちろん、最後まで人を救うことに拘れたし、誰からも褒められないと思っていただろうに、最後は神様に救われたし、いうことないんじゃないか」

「そうかしらね。私の中に答えがあるわけではないのだけど、でもそんな生き方が幸せなんてなんか悲しいわ」

「ははは」

「なによ」

「いや、可愛らしい答えが出たもんだと思ってね」

「そうかしら」

「ああ、彼は仮にも王子だったわけさ。人々の幸せを願わずにはいられない。塀の外を知らなかったころの王子とは違う知ってしまったからには血が騒がずにはいられなかったわけだ。鉛の心臓だったわけだけど」

「あら、ならあなたは王子みたいに生きたいの?」

「まさか、私は王子じゃない。精々、王子にルビーをもらった母親のような平民さ。守るものは目の届く範囲じゃなくて、手の届く範囲だけ。まだツバメの方に共感できる。恋人の葦のまわりをひたすら飛んでいたツバメの方が私にはお似合いさ」

「あら、覚えがある光景ね。20年以上前だけど」

「そんなことないさ。葦さん」

「そう、ツバメさん。まだまだこれから私の周りを飛び回って頂戴ね」

「君は高嶺の葦だからね。飛び回る方も大変さ」

「ツバメは低いより高いところを飛んでいた方がいいじゃない。雨ばかり降っても腐っちゃうし、私は好きじゃないもの」

「いやはや、厳しい。おや雨が降ってきた」

  電車の窓に雨粒が流れるようにぶつかる。

「あなたが高く飛んでいないからじゃない?」

 笑顔でいう妻に男は困ったように笑って言った。

「ツバメだってたまには葦に泊まって休みたいのさ」

  男はそっと妻の手をとった。


 ◆◆◆


  男は一人座していた。誰もいないバス停に一人座していた。

  男は目の前を降る雨を眺めていた。最初は一粒一粒を見逃すまいと、凝らしていた目もこうなってしまってからは、バス停の屋根を伝う雨水を眺める程度しかできなくなっていた。     

 ツバメが低くなったときに帰るべきだった。

 男は老いていた。

 立ち上がるとき、足よりその手に持つ杖に力を入れるようになったのはいつからだったか。

 しかし、それと同時に知っていることもある。ツバメが低く飛んだら雨が降るというのはその最たる例だった。

 普段は散歩なんてしないのに、今日ばかりはしたくなって家を出た。

  ツバメを見るのはいつもこの季節だ。渡り鳥であるツバメは日本で巣を作り、寒くなる前に向こうに飛んで行く。男は『向こう』というのがどこかということを知っているかと自問した。

 昔読んだ本に幸福な王子というものがあった。そこで確かツバメはエジプトに行くと言っていた気がした。

 エジプト、そうかもしれない。

 男の脳裏に、ナイル河をちょろちょろと飛び回ったツバメが、砂漠に戻り大きなピラミッドやスフィンクスに行儀良く停まっている姿が浮かんだ。

 男は一つエジプトに思いを馳せる事にした。訪れたことは終ぞないが、しかしそのあまりにも名高く、広く知られている風景は、目の前の光景よりは面白いに違いない。

 男の頭に最初に浮かんだのは人だった。ターバンを巻いた髭の濃い男たちがコブの盛り上がったラクダに乗ってその米よりも細かいであろう砂の上を、えっちらおっちらと歩く。

  目的地はどこだろう。

  きっと男たちは荷物を持っている。なら商店にでも行ってそれを売るのか、それとも交換するのか。そう思い見守っていると、男たちは町に背を向けている事に気づいた。

  おや、と男は思った。しかし、ラクダは止まらず歩き一晩開けてまた歩き、もう一晩歩いてようやく止まった。

  目の前にあったのはスフィンクスだった。思っていたより大きい。巨大だ。

  男たちはスフィンクスの目の前にたつと、そこに積んでいた複雑な模様をした絨毯を広げ、荷物をそこに落とした。

  なるほどこれは供物だ。男たちは黙ってひざまづき何かを一心不乱に祈った。

  そこで男は戻った。

  なぜなら男たちがどのように祈っているのかが想像できなかったからだ。手を合わせているのか、拍手しているのか、指を絡めているのか。無知な男には判別することは叶わなかった。

  しかし男はスフィンクスの巨大さと偉大さに心奪われていた。

  スフィンクスは人の顔とライオンの胴体を持つ怪物であったはず。そして、謎かけをするのだ。

 ひとつの声をもち、朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足。

 答えは人間。赤ん坊の頃は四つん這いで、成長すると二本足でたち、歳を取ると杖が足されて三本足。

 そこで男は自嘲の笑みを浮かべた。さしずめ男は夜という事になる。

 数えきれない手の皺に、頭を撫でた手の寂しさに、男はまごう事なき夜である事を感じた。

 男は真面目に生きて来た。

 若い頃に結婚し、子供ができ、孫ができ、その孫を叱りつけるときにも威厳を発揮できる人間になっていると自負していた。

  鷲のように猛々しくも、烏のようにずるがしくもなく、ただ誠実に、ときに逃げ、ときに親切にし、ツバメのように生きて来た。

 しかしと、男は思う。それで自分に何が残るのか。

 死ぬそのときに、自分は満足して死ねるのか。幸福な王子のツバメのように、愛するものの為に生きていけば幸せなのか。

 そこまで考えて男は手に力を入れ立ち上がった。

 きっと、夜は寒い。男の思う砂漠の夜なら尚更だ。

 一人で夜は明かせない。

 誰かとでなくては明かせない。誰かはきっとすぐそばにいる。

 止んだ雨のなかを男は歩んだ。


 ◆◆◆


 僕の家は変わっている。

 僕の家にお母さんは居ない。お父さんもいない。でも、死んじゃったわけじゃない。都会で仕事をしている。家にいるのはおじいちゃんとおばあちゃん、そしてお姉ちゃん。お姉ちゃんはもう働いていて、僕が10歳だから、結構年上だ。

 そしてもう一人祐樹君。

 僕の家で一番変わっている。

 祐樹君はお姉ちゃんが拾ってきた。いや、多分拾ってきたのではなく連れてきただけだと思うんだけど、祐樹君を僕が初めて見たときなんか服がボロボロだったし、体にゴミもついてたし、僕は見たことないけど、テレビで見る捨て犬みたいな感じだった。

  おじいちゃんも最初は威嚇していたけど今はもうしてない。もともと怖くないから意味はないんだけどね。

  お父さんは今も警戒してる。でも、お父さんは間抜けで、服のボタンをよくかけ間違えておばあちゃんに怒られてるからなんか怖くない。お母さんは元からなんかズレてるから気にしてない。

  おばあちゃんはよくわからない。お父さんにはよく怒ってるけど、お姉ちゃんと僕には怒らない。その事を祐樹くんに言ったら『怒らない人の方が怖いんだよ』て言っていた。言葉の意味はよくわからないけど、僕はおばあちゃんが怒るところを想像すると鼻の奥がツンとするから怒らせないようにしている。

  僕は祐樹くんは好きだ。いつも遊んでくれるし、面白い話を聞かせてくれる。最近、困ったことがあれば、祐樹くんに相談するようにしている。お姉ちゃんは寂しそうにしているけど、僕が祐樹君を人占めしているから不機嫌なんだ。

 僕は背が小さい。ご飯もちゃんと食べてるんだけど大きくならない。お姉ちゃんは大きいのになんで大きくならないのか不思議でしょうがない。この身長のせいで女子によくからかわれているから、早く大きくなりたい。

 そして、今も女子にからかわれていた。雨が降っているせいで、学校から帰れなかった。朝、おばあちゃんが傘もっていきなって言っていたのに、急いでいたから持ってこないで来てしまった。

 鼻の奥がツンとしたくないから、濡れて帰りたくない。僕は雨が止むのを教室で待ってたら、女子がちょっかい出して来た。「チビ」って言われるのは慣れてるけど悲しくなる。何とか荷物は持っているから大丈夫だけど取られたら隠されちゃう。なんか怖くて、帰るふりして玄関で雨が止むのをまつことにした。

  目の前をポタポタと落ちる雨を眺めていたけど何も変わらないし、すぐ飽きた。僕はまだ子どもだしこんなもの面白くもなんともない。

 ずっと立っていたから疲れちゃったので下駄箱の前に座り込んだ。座り込んだらお尻がじわっと濡れたから誰かが濡れたまま上がって来たのだなと思った。

  何処かから聞こえてくる雨のぴちゃんという音の間隔が変わったと時、そろそろ帰らないとお婆ちゃんに鼻がツンとされるので濡れてもいいから帰ろうと立ち上がる。

「やっぱり忘れてた」

 昇降口から入ってきた人影が僕に話しかけてきた。

「祐樹君、どうして来たの?」

「傘置きに君の傘を見つけたから」

 やっぱりヒーローだ。祐樹君はかっこいい。

「ありがとう。帰ろう」

「ああ、お婆様が待っていらっしゃる」

 僕は祐樹君の傘を持っていない手を掴んだ。他の人に見られたらまたからかわれてしまうと思うけど、そんなことより今はこうしたかった。


 ◆◆◆


 僕が迎えに行くと弟君は陽だまりのように笑った。あの家の人特有で特徴的で特別な笑い方だ。ただ傘を持ってきただけなのになぜそんなヒーローが来たみたいな笑顔が出来るんだ。

「祐樹君はいつもいいところで来てくれるね」

 僕より体温の高い手の平を握るとそんな言葉をが耳に届いた。

「そんなことないよ」

 本心だった。僕以外の全員が迎えに行こうとしていたし、僕だけが特別なわけではなかった。この子の祖母も祖父も迎えに行きたがったし、両親は心配していて、姉はもう準備していた。

「いいや、そんなことあるよ」

「そうかな」

「だって僕は祐樹君に来てほしかったんだもん」

 本当によくないこの子は。人たらしとでもいうのだろうか。

「君はいい子だね」

 僕がそういうと弟君は照れたように笑ったあと少しその顔を曇らせた。

「また、何かされたのかい」

 弟君はたびたびからかわれていた。確かに彼は歳の割りに小柄で、小学生が目をつけるにはちょうど良かった。

「ランドセルを隠されそうになった」

「おやおや、困ったね」

 僕の口はそう言葉を紡いだが、本心では全く思ってなかった。彼はからかわれはすれど嫌われるような人間ではないと思ったからだ。

「自分から話したらどうだろう」

「何で」

「きっと寂しいんだよ。君が話しかけてくれないから」

「そうかな」

「ああ、きっとそうだよ」

「でも、そうしたら今度は男子にからかわれるかも」

「その時はまた一緒に考えよう」

「うん、ありがとう祐樹君」

 そうして弟君は迎えに行った時と同じように笑った。

「どういたしまして」

「やっぱり、祐樹くんはすごいや」

 また、僕をヒーローのように見て来る。

「僕はヒーローなんかじゃないよ」

「すごい、何で分かったの」

「君は正直者だからね。普通だよ僕は。力もないし勇気もない。さっきだって校門からなかなか昇降口まで行けなかった」

「どうして?」

「僕は大人だから」

「そんなもの?」

「ああ」

「僕は裕樹君のこと大人なんて思ったことないけどな」

「そいつはひどいな」

 自分が大人らしいと思ったことはないが、少々衝撃を受けたのは確かだった。

「だって僕はおばあちゃんも大人じゃないと思うもん」

「それは珍しいね。ならそうだなじゃあどんな人が大人だと思うんだい?」

 興味深いと思った。僕にはない、僕が今ここにいる理由なんてものがこの幼い口から出てくるような気がしたのだ。

「あれ。あの人とか」

 そういって弟君は僕とつないだ手をほどき、イヌの散歩をしていた主婦と思しき人を指さした。

「あの人かい」

「うん」

 弟君は差した指を下げ、また僕と手をつなぐ。

「でもおばあちゃんより、年下だと思うけど?」

「だって、おばあちゃんは僕のおばあちゃんだもん」

 爛漫な顔が僕を見つめる。僕は、なぜ太陽が僕の顔より低い位置にあるのだろうと不思議に思う。

「だからね、祐樹君も、僕の祐樹君なんだよ」

 もう一度繰り返すように言う。

 人の考えではない。自分の価値観のみを信じている。世間を知らないというのか。現実を知らないというのか。でも僕はこれが尊いと思った。

 これは何と呼ぶのだろう。自己中心的と呼ぶにしては美しすぎる気がする。独りよがりと呼ぶにしては光りすぎている気がする。

 なら愛とかかなと考える。愛の所在について僕は一切わからないがこれが愛なのすれば、僕の心にすとんと来る。

 だからそう、強いて言えば僕はこれを愛と呼びたい。

 弟君のあたたかな体温を感じながらそう思った。


 ◆◆◆


 家の中には、出汁の匂いが充満していた。

 今日はおじいさまの誕生日である。おじいさまは誕生日のご馳走として、お婆さん特性のお稲荷さんをご所望なさったから、恐らくその出汁だと思われる。私と祐樹君で買いに行った、米と醤油もお稲荷さんに使われるのだろう。今日は私の親も帰ってきたのでお婆さんの気合の入り方といったらない。

 外から子供特有の高い笑い声が聞こえる。私の弟の声だ。こんな声を出しているということは恐らく祐樹君と楽しく帰ってきたのだろう。私の弟ながら妬ましい。

 味噌汁に入れるためのさやえんどうの筋を取る仕事をお婆さんから賜っていた私は、それらを放り出し、随分と古ぼけた戸を開けて彼らを迎えた。

「お帰り」

「お姉ちゃん、ただいま」

「ただいま戻りました」

 弟は私の隣をするりと通り抜け家の中に入る。お婆さんとお爺さんだけなら怒られなかったかもしれないが、今日はあいにくと両親が帰ってきている。そんなに早く家の中に入っても早く説教されるだけだろうに。

「きっと叱られますね」

 祐樹君がいつも通りの弱そうな声を出す。彼もどうやら私と同じ意見だったようで、おかしそうに笑う。

「だな」

「あの…」

 彼は私に声を掛けたが、どうも口が重たいらしく、声を上げたはいいが彼自身何を話そうか決めあぐねているようで開けた口を閉じた。

「どうした?」

「いや、あの。はあ」

 彼は少し強めにため息を吐いた。でも、それは普段彼がつくため息よりも幾分強く、私の心は不安で揺れた。

「出ていこうと思います」

 いつか聞くことになるであろう言葉は、私が思っているよりも早く、そして風情がなかった。


「どうしてか聞いていいかな」

 明るい声を出したはずなのに、耳に届いた私の声は情けない程に震えていた。私の声が、心が、気持ちが、彼に行ってほしくないと、言葉にせずとも伝わってしまいそうで恥ずかしかった。

「今日、ツバメをみて、どこかへ飛んでいきたいと思いました。今日、あなたが、私にツバメになってほしいと言いました。今日、弟君に愛を教わりました。きっと、僕の知らないところでも、それぞれの人が、過去に、未来に、現在に思いを馳せた日だったと思います。そんな日が僕が出ていくにふさわしい日なんです」

「そんなの、そんなの、毎日じゃないか。みんないろんなことを考えているし、過去に、未来に、現在に。みんな誰かしら何かしら思いを馳せてる。なんで、今日なんだ。こんなにも普通の日なのに」

「普通って、おじい様の誕生日じゃないですか」

 祐樹君は少し笑いながら私の言葉に返す。私が欲しい言葉はそうじゃないのに。祐樹君もそのことに気付いているはずなのに。

「ある日だったんですよ」

 彼が私に近づきながら言う。歩みは止まらない。

「きっと僕みたいな平凡な人間変えるのに、大きな日である必要はないんです。日常のある日。例えば、いつもは見ないツバメを見たある日。きっと僕にはそれで十分なんです」

「私には十分じゃない。祐樹君にとってはある日なのかもしれないけど、私にとっては違う」

 私が駄々をこねた子供のような理屈を述べると、祐樹君はやれやれと言いたげに眉を八の字に寄せた。私が一番好きな彼の表情。

「愛とは自分勝手なものらしいんです。自己中心的なものらしいのです」

「そんなの愛じゃない」

「そうかもしれません。でも…」

 近づいた彼の体は、私を包んだ。雨の湿気と、少しの汗。今日の彼の匂い。

「私はそれを愛と呼びたいのです」

 彼の体温が私に混じる。彼の少し低めの身長のせいか、うなじにかかる息がこそばゆい。

 姉として毅然な態度で彼に言う。

「弟が悲しむ」

「はい。でも、彼の周りは今に人でいっぱいになります」

 叱るように彼に言う。

「お爺さんの将棋の相手はどうするの?」

「もう少し強くなるよう言っておいてください。定石というのも時には必要ですよ」

 咎めるように彼に言う。

「お婆さんに頼まれた庭の手入れは放棄するつもり?」

「あれは僕が暇そうにしてたからくれた仕事ですよ」

 心配するように彼に言う。

「お父さんとお母さんはまだ君を認めてない」

「あなたの親です。大丈夫」

 私は愛するように言葉を紡いだ。

「君がいないと、私が寂しい」

「そればかりは申し訳ございません」

 耳元で彼の声がしたけれど、顔は見なくてもわかった。いつもの私の好きな顔だ。

「今は秋です」

 彼の腕に力が入る。

「あなたの言う通り、僕はツバメになりましょう。これから冬の間、僕はここを出ます。でも、冬が終わったら。またここに戻ってきます。どうかそれまで待っていていただけませんか」

「本当に、本当に帰ってくるの」

「はい絶対です。だって…」

 彼は腕をほどき、私を正面から見る。相変わらずの整っていない髪の毛が、今日はなぜかふわふわとして、撫でまわしたくなった。

「僕は、あなたの益鳥です。虫の湧く季節に帰ってこないわけがないでしょう?」

 それなら、安心だと私は彼の頬にキスをした。







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