03:壊れた時計は進まない(1)
「役立たずが」
髭面を苦々しく歪めた壮年の男に重たい声で言われ、赤髪の少年はまだ成長途中の肩をびくりとすくめて、色の薄い瞳を、目蓋の下にぎゅっと隠した。
「家庭教師から成績を聞いた。お前は政治には向かん」
少年と同じ燃えるような髪色の男は、万年筆の先で苛立たしげに執務机を突きながら、罵倒を浴びせかけ続ける。
「頭の悪い穀潰しはさっさと家を出て、王都で騎士にでもなってみせろ。ギュスターヴ家の名折れが」
父の隣に立つ母は、少年と同じ色の瞳を心配そうにこちらに向けながらも、父を諫める事はしない。彼女が助け船を出してくれた事は、ただの一度とて無い。頑固な夫に萎縮して、何も口を挟めないのだ。
「そうそう、早く出てけよ、イリオス」
直立する少年の背後に設えられたソファにふんぞり返った、縦にも横にも大きい少年が、けらけらと笑いを浴びせかける。
「お前みたいな無能な恥さらしは要らないんだよ。騎士になって功を挙げて金稼いで、そんでもって早めにおっ死んで、莫大な遺族年金をうちにくれれば、それが最高の孝行だろ」
完全にこちらを見下しきった兄ヒックスの言葉に、少年は歯を食いしばり、ぐっと拳を握り込む。だが、ここで殴りかかっても、相手は『兄を殴ったな!』とそれ以上の拳を浴びせ、父は『お前が悪い』としか言わず、母は怯えた顔をして黙っているだけだろう。
「時間の無駄だ、出ていけ」
父が無慈悲に命令を下す。少年は深々と頭を下げ、両親に背を向けると、へらへらした笑いを投げかける兄の方を一顧だにせず、早足に父の執務室を出ていった。
扉を閉め、しばらく無言で廊下を歩く。だが、目の奥をじわりと熱くするものは遂に水分の形を取って流れ落ち、少年は、柱に背を預けるとうつむいて、しゃくりあげながら、溢れる涙と鼻水を手の甲で拭った。
「イリオス」
優しい声が落ちてきたのは、その時だった。雲間に差した陽光のように、ただ一声で少年の鬱屈した気持ちを振り払ってくれる。ぐしゃぐしゃの顔を上げれば、母に似た面差しを持つ黒髪の青年が、柔和な笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。
「また、父上やヒックスに何か言われたのかい?」
父と同じ鳶色の目を細めて覗き込んでくる、もう一人の兄――長兄ランティスの笑顔の前に、止まりかけた涙腺がまた緩む。言葉に出来なくて嗚咽ばかり洩らす弟の様子を見て、兄も大体の事は察したようだ。「そう泣くな」と、大きな手が、少年の頭をわしゃわしゃと撫で回す。
「お前は聡い子だ。たまたま勉学の範囲に合わないだけで、私の施政の見落としを指摘してくれる鋭さは、父上にも、ヒックスにも、真似出来るものではない」
父お気に入りの嫡男は、将来のギュスターヴ家当主として、領主の仕事の一部を任されている。他の家族にないがしろにされるゆえ、穏やかに接してくれる兄にくっついて彼の職務を眺めていたイリオスが、ふと気づいた仕事の抜け穴を指摘すると、長兄は驚いたように目を見開いて、それから、ふっと口元を緩めた。
『お前は頭の良い子だな、イリオス。勉強とは違う勘の良さは、実務に欠かせないものだ』
背丈だけは同じ年頃の少年達より遙かに高いイリオスと真正面から対等に向き合って、兄は弟をそう評価してくれたのだ。
『今はまだ父上達には内緒で、私を助けてくれないか。いつか一緒に、父上を吃驚させよう』
そう言って、差し出された小指に、イリオスは自分の小指を絡ませて、兄弟二人きりの秘密の約束として交わした。
「兄上」
この情け深い兄の役に立てるなら、父に詰られても、次兄に馬鹿にされても、母に助けてもらえなくても、頼りにされている、という誇りが胸に宿る。イリオスはぐしぐしと顔を拭うと、表情を輝かせた。
「僕も光栄です。兄上のお役に立てるなら、どんな事でもしてみせるつもりです」
その言葉に、満足そうに兄が微笑む。孤独な邸内で、この笑みを自分だけに向けてもらえる事が、本当に嬉しかった。
2
勉学の時間が終われば、イリオスは重苦しい貴族の衣装から軽装に着替え、タオルと懐中時計を突っ込んだ鞄を肩から提げて、邸を飛び出す。向かう先は、近くのミンガス川だ。雄大なソルダ大河から分かたれた流れは、子供が身を浸して遊ぶにはうってつけの場所である。
川岸に降りると、一本生えた木の下に横座りしてぽうっと空を見上げていた少女が、こちらの気配に気づき、金髪を揺らしながら振り向いた。
「イリオス!」
まるで大輪の花が咲き誇るような、心からの笑顔が弾け、耳当たりの良い高い声が少年を呼ぶ。
「遅くなってごめん、エレナ」
「いいえ。私も今来たところよ」
イリオスが済まなそうに顔の前に片手を立てると、エレナと呼ばれた少女は緑の瞳を細めて、ゆるゆると首を横に振った。
エレナの家は、ここ一帯の領主であるギュスターヴ家の傍系にあたり、古くから交流のある縁で、少年少女も幼い頃から共に遊ぶ事が多かった。
彼女は物腰柔らかでおおらかな少女で、些細な喧嘩でむくれる事はあっても、決して本気で怒りを露わにはしない。喜怒哀楽をすぐに表現してしまうイリオスと同い年の十五歳とは、とても思えない。そんな穏やかな異性と距離を近く過ごすうち、惹かれてゆくのは自然の摂理だったが、イリオスはエレナに自分の気持ちを伝えた事は無かった。家族のほとんどに顧みられず、いまだ子供っぽい自分が、彼女に釣り合うのか。共に遊んでくれるのは、家同士の付き合いという義理からではないのか。子供なりのそんな悩みが、一歩を踏み出す事を、少年に躊躇させていたのだ。
だから少年は今日も、荷物を木の下に放り出して、服を脱ぎ水着一丁になると、目一杯の笑顔で少女を促すのである。
「泳ごう!」
その誘いに、少女も破顔し、ワンピースを脱ぎ捨てて水着姿を見せる。乙女への階段を昇る肢体は細く、胸は豊かで腰はくびれ、淡い恋心以外の複雑な感情をイリオスに抱かせる。不自然に思われない速度で彼女の身体から目を逸らすと、二人して歓声をあげ、ミンガスの流れに身を躍らせた。
夏に向かいゆく川の水は冷たすぎず、温くもなく、泳ぐには最適だ。家庭教師による勉学は苦手だが、身体を動かす事に関して兄達の追随を許さない運動神経を持つイリオスは、まさに水を得た魚のごとき泳ぎを見せ、水中に潜って川魚を捕まえては、浅瀬で水草に足を洗われるエレナに向けかざしてみせて、拍手を送られる。
南中の日差しはまぶしく照りつけるが、丁度良い水温が暑さをかき消してくれる。エレナに手を差し出せば、彼女はおずおずとその手を握り返し、二人手を取り合ったまま、水の流れに身を任せ、深すぎない場所を揺蕩った。
川遊びに満足して水から上がった後は、お互い木の反対側に隠れ、水着を脱いで身体を拭き、服を着る。濡れきった水着を木の枝にかけて乾かす間、岸辺の草の上に寝転んで、青空を歩む雲を見上げていた。
「今日も、小父様に叱られたの?」
ぽつり、無言の時間を破るエレナの問いに、イリオスはぐっと息を呑む。
「『穀潰しはさっさと家を出て、王都で騎士にでもなってみせろ』ってさ」
父の失望しきった顔。次兄の嘲笑。眉を垂れるだけで何もしてくれない母の困り顔。それらが脳裏を巡るが、頭を振って追い払い、事実だけを告げる。すると。
「素敵じゃない」
予想外の反応が、傍らから耳に滑り込んできた。
「何で」
ぷくりと頬を膨らませて横を向けば、緑の輝きが、真摯にこちらを見つめていた。
「御伽話に出てくる、悪者をやっつける騎士様。イリオスがそうなるなんて、素敵だわ」
「ちっとも素敵じゃあない」
シュレンダイン大陸に伝わる物語で、騎士はいつも脇役だ。主役は勇者。伝説の聖剣『フォルティス』を青く輝かせ、魔物を屠り、赤い魔剣『オディウム』を振るう魔王を打ち倒す。騎士はその脇に立ち、勇者を狙う敵を斬り伏せてゆくばかり。決して話の主役にはなれない。
「勇者になれたら良かったのに」
視線を逸らして目蓋をきつくつむり、思わず本音を洩れ零せば、「いいのよ」と、不意に細い指がこちらの手に絡まってきた。
「主役じゃなくても、誰かを助ける騎士様になったら、それで貴方は貴方の物語の主人公だわ」
はっとして目を見開き、横を向く。乾ききっていない金髪はきらきらと光を放ち、つぶらな瞳が親しげに細められている。
「私はそんな貴方を、近くで見ていたい。一緒に王都へ行って、素敵な主人公の貴方を、見届けたいわ」
途端に頬が熱くなる。心臓がばくばく言い始める。自惚れて良いのだろうか。彼女の想いと自分の想いは同じ道を歩めると、信じて良いのだろうか。
募る嬉しさは、しかし、気恥ずかしさに打ち消される。
「ぼ、僕はもう帰るよ。エレナも気をつけて!」
手を振りほどいて跳ねるように起き上がり、枝にかけた生乾きの水着を回収して、慌ただしく荷物袋に詰め込むと、赤くなった顔を隠すかのようにその場を走り去る。
だから、イリオスは気づかない。
エレナが、「意気地無し」と零しつつ、心底残念そうな表情をして起き上がった事を。
そして、傍に落ちていた輝きに気づいてしまった、それで、幸せな時間の終焉へと歩み出してしまった事を。




