「試し試され恋に落ちる」
他愛も無い三人の会話が続いた。
自身の従者であるセロが世話になったと社交辞令を述べるベアトリス。礼を言われ無難に対応する宗次郎。
それを胡散臭げに横目で見ながらフォークで掛け蕎麦をスパゲティのように巻き付けて食している。食べ慣れなていない異国の料理に舌鼓を打ちながらセロは自分の主人を監視していた。
自らの主人を疑うなど忠義を尽くす騎士にあるまじき話であるが、こればっかりは見逃せない。
ベアトリスとセロの付き合いは長く、セロの主人になって久しい間柄。年齢的に考えても彼女以外に付き従う存在はないだろうとすら感じており、常に頭の中心はベアトリス一色に染まっている。
そんな彼が彼女の異変に気付かない筈がない。
おかしい。
何かがおかしい。
ぼんやりとして未だに掴めないが明らかにベアトリスは宗次郎に何かをする気だ。
もし、それが彼を害するものだったらセロは騎士として恩人を守らなければならない。
例えそれが全てを捧げる主人であっても間違った行為を諌めるのは仕える騎士としても当然だ。
いざとなれば両方をたてて自分が死んで詫びれば事済む話しだから。
そんなセロの心配とは反対に第三者から見て若干事務的であるがベアトリスと宗次郎の対話はお互い好意的だ。敵意とは殺気とかそうした血生臭さを感じさせない平和的な光景。
このまま何事も無く過ぎていくかのように思えたがセロはベアトリスの突発的行動を見逃さなかった。
会話が途切れた一瞬。
ベアトリスが宗次郎にだけ気付く位の微かな敵意を送る。腰元を見れば彼女御自慢のレイピアの柄に手が触れていた。
セロは反射的に止めさせようと動き出そうとするもそれ以上の行動に移すせない。
いや動けなかったのだ。
特別何かをされた訳でもないが、刹那を生きる戦場を切り抜いてきた二人の猛者が呼吸を忘れ、息を呑む。
先程確かにベアトリスは剣を抜こうとしていたし、セロは宗次郎を庇おうと立ち上がって壁になろうとした。
その結果にあるものは恩人を庇い主人に斬られる従者の図だった筈なのに何も起きてはいない。
ベアトリスが何故宗次郎に剣を向けようとしたのかセロには全く分からないが、冗談ではなく彼女は間違いなく本気だった。手を途中で引っ込める意味はない。
なら、宗次郎がベアトリスに何かをしたのか、とセロが宗次郎の方を見れば微動だにせず涼しい顔をして先程に店員に頼んでいた"蕎麦湯"を丼茶碗に注ぎ込み啜っている。
ベアトリスの方も先程までに起こった何かを無かった事にしたらしく、宗次郎が食していた"掛け蕎麦"を無駄が無いが素晴らしき料理だと褒め称えていた。
その表情は平常時に戻っているがセロは気付いた。額に一筋の冷や汗をかいているのを。
それからほどなくして、宗次郎との繋がりを絶やすのを防ぐ為。日本の事は何も分からないから色々と教えて欲しいと次に会う約束を取り付けてから宗次郎を"囲炉裏"の外へ送り出した。
段々と遠ざかっていくその背を見届けるとセロは店内に戻る。何時の間にかベアトリスは部屋に戻っていた。
セロは日本の貨幣を持ち合わせていなかった事を支払い前に気付き、食事を済ませて大部屋に戻ろうとしていた仲間を引きとめ勘定を払わせてから一緒に大部屋へと戻った。
■
その日の晩の事。
セロは今日の出払っていた用事の内容を聞こうとベアトリスが一人で使っている隣の部屋に来ていた。
故郷の作法に習い、軽く四回襖を叩き、相手の意志を確認する。
「ベアトリス様。入りますぞ」
襖の向こうはしんとして静かなままで待てど返事は何時までも来ず、セロは勝手に沈黙も肯定とみなし襖を横にずらして堂々と中へ押し入る。
中には部屋の中央で正座をし瞑想する主人の姿があった。金色の髪と翡翠の瞳が浮いてしまうけれど浴衣を見事に着こなしている。
異邦人であるセロには服装の名称は判別不可能だけれど、その格好も悪くないとだけ思った。
そのままその場に腰を下ろすと二人の沈黙だけが時間と共に過ぎていく。
無意味な時間だが時折、ベアトリスとセロの間にはそうした時間が流れる時があった。そうした時に必ずベアトリスから口を開く。今日も同じ様に彼女から唐突に口を開いた。
「……ふるえた」
ただ一言だけ。その言葉の意味をセロは理解している。
故に次の言葉が出てくるのを待つ。じっと彼女を見詰めて。
「ふるえたんだよ。爺」
「そうでしょうな」
分かっている、とばかりに優しく言葉を肯定してあげる。
ベアトリスはそんなセロの対応に甘えをみせる。決して外の世界ではみせない親愛なる者だけにしか見せる隙だ。
「爺に暇を出している間にこの国の英雄に会って来た」
英雄。
その言葉が指す人物をセロは知らないが言葉の通りの大きく得体の知れない人物であろう事は想像がついた。また、その英雄と呼ばれる人物に会う目的もすんなりと理解する。
元々、ベアトリス率いるソマリア王宮騎士団は与えられた王族の命に従い、海を渡り各地を回り、とある目的を達成する為の人員を捜索している。
その対象となる人達は俗に言う選ばれし者と呼ばれる存在であった。
十二の災厄にして神様が与えたもうた人類への試練の一つ。迷宮の形をした化け物の口内と呼ばれる不可侵域と呼ばれる剣と魔法の世界イアンスパーダにおいて危険度世界最高ランクに位置する危険地帯。
そんな未だ現在誰にも踏破されていない迷宮を攻略するためには世界に名を残せるほどの実力の伴った英雄が必要不可欠であり、ベアトリス率いる幾度の戦場を駆け抜けてきた多くいる精強な騎士達ですら片手で数え切れる位の人員しか残らない。
それ故に攻略対する戦力の不足を補う為、海を越えて各地に広まっている情報を頼りに当てになるであろう英雄達を虱潰しに捜索している。今日の訪問もその一環であった。
「前評判ではこの国一の武人であり戦場では悪魔の如き強さを誇る男だと聞いていて、隻腕だったのが残念だが、確かに風格も在り、強靭な肉体を誇る英雄の名に恥じない男だった。しかし―――」
言葉を切り、ベアトリスは俯いたまま言う。その表情は窺い知れない。
「また駄目だったのですな?」
ベアトリスは静かに首を縦に振った。
思わず溜息が零れる。
セロの知る限り有力される人物達にベアトリスが直接会いに行ったのはもう数十回に及ぶ。その内、片手で数え切れる程度にセロも同行しているがどいつも碌な奴がいなかった覚えがある。
腰元に帯びた名のある大小の剣にものを言わせ、大言夢想を嘯く小物ばかりだった。
中にはきらりと光るを輝きを持つ人材もいるにはいたが、ベアトリスや騎士団の仲間達に妥協は許さない。
中途半端な奴らを迷宮へ連れて行っても生半可な実力では良くて無駄死にが精一杯であるからだ。逆に此方がそいつ等に足を引っ張られる可能性も大いにある。
自分達が見込んで連れて来た人員が犬死されては国王の信用もがた落ちだ。利点など皆無に等しく、損失ばかり目立ってしまう最悪な事態になるだろう。
だからこそ欲しいのは圧倒的な存在。
それこそ英雄と呼ばれているような偉業を成し遂げた規格外の者達。
(まったく、此の国の何処にそんな奴等が居ると言うのだろうか……)
不意にセロの頭に今日であった青年の姿が過ぎる。
自国で英雄に近い評価を受けるベアトリスよりも強い輝きを放ち、セロがこれまで感じたどんな兵達よりも優れた人間だと思わされた異国の青年、藤宗次郎。
(ソウジロウがワシ達に着いて来てくれるのなら万々歳なのだがな)
セロの逸れていく思考を続けているとベアトリスの様子が変わり始める。
「もうそんな事どうでもいい」
震えた声がベアトリスの唇から零れる。
それは普段の毅然とした態度からは結び付かない弱弱しい声だ。
漸くベアトリスはセロが部屋に来てからも終始俯いていた顔を上げ、喜悦に満ちた表情をセロに向ける。
「最初は興味本心だったんだ。爺に暇を与えてみれば何処からか人を連れて此処に戻って来たのを見て興味が湧いた。害を与える行動などする意味も無かった。だけど適当な理由をつけて近付いてみれば直ぐに分かった」
歳相応の無邪気な笑みを浮かべ段々と笑みが深くなっていく。
「試しに敵意をぶつけてみた。私も鬱憤が溜まっていたんだろうな。最悪何も見せないで終わるのなら殺ってしまっても構わないとすら思っていたんだ。そしたらだ」
右手で首筋を横になぞる素振りを見せて
「剣に手を掛けた一刹那に。気が付けば首が落ちていた」
「…ほう、それはまた奇妙な」
可笑しな事を言う。
セロも一瞬意味が分からなかったが、錆び付いている記憶から思い当たる節を思い出す。上等な殺気は相手に死を幻視させる、と戦地で昔の上官が自慢げに語っていた。故に真の戦士は手すら使わず動かずとも視線で射抜き敵を殺せる。
戦場に生きている戦士としてはそんな馬鹿げた話があるものかと内心せせら笑っていたが、どうやら嘘ではなかったらしい。
「呆然となった意識を直ぐに取り戻したら、地面に落ちた筈の首がある事に強烈な違和感が襲ってな。無くなった筈の首に安堵しながら彼に焦りを見せぬ様に取り繕ってしまった。あぁ本当に無様な姿を見せてしまった。それが堪らなく恥ずかしいのだ……」
まるで恥らう乙女の様に俯く主人にセロは怪訝な顔を向ける。こんな表情をする彼女をセロは出会ってから一度も目にした事が無い。
想像してなかった嫌な予感がした。
「決めたぞ。爺」
「……何でしょうかな?」
段々と決意の色が現れ始めているベアトリスに嫌な予感が強まっていく。
「ソウジロウで決まりだ」
元々、密かに宗次郎を迷宮探索の一員に加えようと画策していたセロは自分の掌の上でベアトリスが踊る様に進ませるのでにんまりとして、異論は無い事を口にしようとした時。道化の如く哀れに踊っていたのは自分だと知る。
「ソウジロウを私のフィアンセとする!」
力強く宣言された言葉に老騎士は唖然とした。言葉の意味も直ぐには呑み込めずにいた。
フィアンセとは将来に男女が夫婦になるのを誓い合うという事。
発された主人の言葉を解すると、どうしてこうなった、とセロは頭を抱えるしかなかった。