家族の肖像。
軽んじた声の向こうで、幸福は静かにすり抜けていく。
神崎五郎は、どこにでもいる平凡な会社員だった。
朝早く家を出て、満員電車に揺られ、残業をこなし、週末は家族サービスに努める。
そんな日常を黙々と積み重ね、三人の子供を育て上げた。長男の太郎、次男の次郎、長女の花子。
彼らはすくすくと成長し、やがてそれぞれが成人し、巣立っていった。五郎が脳梗塞で倒れたのは、その頃のことである。
幸い命に別状はなかったものの、右半身に軽い麻痺が残り、かつての鋭い理解力はどこかへ消えてしまった。
人と会話を交わすことはできる。だが、テレビのニュースを見て口にした言葉は、的外れなことばかり。
家族は最初こそ優しかったが、年月が経つにつれ、五郎の話を遮り、相手にしなくなっていった。
「母さん、実はマンションを買おうと思うんだ。どう思う?」
ある日、長男の太郎が実家に立ち寄ったときのことだ。母親に相談を持ちかける声に、五郎は思わず口を挟んだ。
「それならば、太郎、父さんの…」
「父さんは黙ってて」
太郎はそう制し、再び母親との会話に戻った。五郎の言葉など、最初から存在しなかったかのように。
別の日、恋人と同棲している娘の花子が、結婚式の相談にやってきた。思った以上に費用がかさむらしい。
五郎は娘の話をじっと聞き終え、相手の男性も好感が持てると思ったので、静かに尋ねた。
「花子。いくらくらいたりないんだ?」
だが、花子にさえも「会話の邪魔」と遮られた。
父親の声は、まるで騒音のように扱われた。車をねだる次男の次郎にさえ、五郎は邪険にされた。
そのとき、五郎は静かに悟ったのだ。このように扱われるのならば、もはや何も言う必要はない。
自分の力を必要としてくれる人に、すべてを託そうと。
五郎は、長年コツコツと株で築いた数億の資産を、家族ではなく、真に必要とする者たちに寄付する旨を、遺言として書き残した。
そして今、旅立つところである――
皮肉なことに、父親の言葉を軽んじ、心の声を封じ込めた家族は、気づくこともなく、大きな幸福を取り逃がした。
五郎が残した静かな決意は、彼らの日常の喧騒の中で、永遠に届くことはなかったのだ。
読んで頂き有り難う御座います。




