3話:Aquarium
それからしばらく、彼と無言で異空間を歩き続けた。とは言っても場所は私の家だからただ家に居るのと何ら変わりないが。普通二人っきりで無言になると気まずくなるはずなのに、彼にはそれを一切感じないのが不思議だ。犬と一緒に散歩しているのと変わらないのかもしれないと思い、思わず頬が緩んでしまう。
今、私たちが歩いているのは一階奥の渡り廊下。その廊下を進んでいくと、いくつか部屋がある。私自身もあまり通ったことのない場所だ。来客が来たときに父や母がここに通していたのを覚えている。
それ以外の部屋は、私も入ったことがないので、何があるのかは分からない。
「あ、ちょっと待ってね」
突然彼がそう言うと、握っていた手が離れる。右前方からガチャッと扉を開ける音が聞こえた。扉にぶつからないように彼に導かれながら部屋に入る。
中は程よく冷房が効いていて涼しかった。床はさっきと違って柔らかく、絨毯が敷かれている。時折何かにぶつからないように手を引かれながら進み、ある場所で止まる。
「そのまま、体を右に」
言われたとおりに右を向くが、特にこれといって何かがあるように感じるわけでもない。反応に困っていると、少し上から彼の優しい声が聞こえてくる。
「ここは、ただの空間じゃない。あらゆる真実と情報が流れ込む終着点なんだ」
「真実?」
「そう、まだ君たち人類が解き明かしていない謎の答えが流れ込んでくる。ここはそういう場所なんだ。たった今、君の目の前にも、その答えのうちの一つがある」
彼の右手が私の肩にそっと添えられる。
「バミューダトライアングルって知ってるかな?」
「……名前だけなら」
「バミューダトライアングルは別名魔の海域って言ってね。ここは海難事故が相次ぐ場所で、何千もの船が行方知らずになった。少し前に、この海難事故はほとんどが故意に創作されたデマだったってことで噂は落ち着いた」
彼の話に静かに耳を傾ける。彼は一呼吸置くように軽く喉を鳴らし、再び話し始める。
「人は本能的に理解できないものを忌み嫌い既存の枠組みにはめ込もうとする。バミューダトライアングルはまさにそれだ。人類が知ることを諦めた答えが、目の前に広がっている。君にはそれを見てもらいたい」
「でも、私は——」
「人間は、他の生物と違って五感と五感を繋ぐ互換性が発達している。聴覚を視覚のように、嗅覚を視覚のように例えることができる」
それはたしかにその通りだ。きっと私は、普通の人以上にそれを毎日意識している。そうしなければ生活できないからだ。
「僕が君の目になる。君はただ、想像するだけでいい」
私が頷くと、彼はゆっくりと目の前にあるであろう景色を説明し始めた。
「まずは、水槽を想像してみて。とても大きな水槽。8メートルはあるかな」
彼に言われたとおりに想像してみる。過去に行ったことのある水族館の水槽が、頭の中に浮かび上がった。日本でも有名な水族館でとても大きな水槽だったのを覚えている。大きなジンベエザメが泳いでいた。
「水槽の中は、さっき言ったバミューダトライアングルの深海が広がっている。まだ誰も見つけたことのない領域だ。水深931メートル」
深海、ということは暗いのだろうか。ジンベエザメが不安そうな顔をし始めた。
「水中の上側には夥しい数のクラゲがイワシ雲みたいに漂っている。このクラゲは蛍光する特性があるから、ここは昼間みたいに明るい」
光るクラゲ。たしかにそれなら明るそうだ。大きさは掌サイズほどだろうか。できれば刺してこないクラゲであってほしい。
「でも、それだけ明るいなら誰かが見つけているんじゃないですか?」
ただでさえ暗い深海で蛍光しているなら、目立ってしまってもおかしくない。
「このクラゲは見る角度によって色が違うんだ。下から見たら濃い青色に見えるけど、上から見たら透明なんだ。光も上にいかないように皮膚で吸収しているから、上から見ても誰も気づかない」
保護色のようなものだろうか。それなら気づかれにくそうだ。
「このクラゲはなんて名前なんですか?」
「名前はないよ。まだ誰も見つけていないからね。僕は宇宙クラゲって呼んでるけど。UFOみたいな形だから」
「安直ですね」
「見たまんまだからね。光もアブダクションみたいだし」
それを想像すると、たしかに宇宙クラゲだな、と納得してしまう。
「他に生き物はいるんですか?」
「もちろん。まずはオウムガイ。カタツムリの殻にイカをぶち込んだ形状をしていて、大昔から生きてる生物だ。ただ、普通は水圧に耐えられないから、ここのオウムガイは耐えられるように進化した。今は殻がほとんど無くて、額の上に薄く殻がある程度。ここまでくるとイカだね。頭のないイカ」
そのオウムガイを想像すると、少し笑えた。薄い殻の帽子を被ったイカが、足をクネクネ動かしながら泳いでいる。
「あとは深海魚がたくさんいるね。みんなこの環境に適応するために進化しているんだ。ここの魚は水圧に潰されないように体が平べったい」
「ヒラメやカレイのような感じですか?」
「そうだね。それをもう少し細く、長くした感じかな」
海を泳ぐ深海魚たちが、水圧でゆっくりと押しつぶされていく。結果的に紙切れほど薄くなってしまった。
「あとは、モササウルス。恐竜の生き残りだね。大きさは15メートルくらい」
「恐竜がいるんですか?」
「元々モササウルスは海に棲んでいた恐竜で、火山が噴火した時に深海に逃げたんだ。そのままずっとここにいる」
「見た目はどんな感じなんですか?」
「そうだね……見た目は大きなワニかな」
泳いでいたジンベエザメが、ワニに変身する。一気に可愛げがなくなった。
「前と後ろに大きなヒレが二つ」
鋭利な爪が生えた足が、ヒレに変形していく。
「昔は肺呼吸だったけど、今は深海で生活しているからエラが顔についている」
凶暴そうな顔の横に穴が開き、エラになる。カッコ良さがあった顔が少し不細工になったが、そんなことはお構いなしといった感じで優雅に深海を泳いでいる。
「海難事故が起こるのはモササウルスが原因なんですか?」
「いや、彼は違うよ。この深海の主が、海難事故の元凶だよ」
「どんな生物なんですか?」
気になってそう聞いてみるが、すぐには返答が返ってこない。どう説明したらいいのか困っているようだ。少し待っていると彼が口を開く。
「主は、いつも地面の底に引っ付いている。とても大きい。モササウルスの数倍はあるかな」
それだけ大きければ、ここの主と言われても不思議ではない。他の魚と同じで薄っぺらいのか。それとも甲殻類の何かか。
想像しかけの主は、造りかけの粘土のようにぐちゃぐちゃで全体像がうまく掴めない。
「見た目は山だね。山。火山を想像すると分かりやすいかな」
「火山、ですか」
生き物じゃないのか? と疑問に思ったが、造りかけの粘土だったものが、見る見るうちに、火山に姿を変えていく。
「多分、貝とかフジツボの一種じゃないかな」
なるほど、それなら形には納得できる。深海の主が魚ではなく、貝の一種なのが少し驚きだった。
「主は週に一回だけ食事をする。火口みたいな大きな口から獲物を無差別に吸い込むんだ。その吸引力が異常でね、竜巻みたいな威力だよ。海に一瞬だけ大きな穴が開くんだ。そこをたまたま通りかかった船が巻き込まれて行方不明になる。船も人も魚もみーんな主の腹の中だ」
その光景を想像すると、背筋が凍った。主の口から発される竜巻のような吸い込み。それを察知した魚が逃げていく。もがき苦しみながら吸収されていく人間や船の残骸はひどくちっぽけで、そのまま主の口に入っていく。
口を開いたが最後、誰もどうすることもできない。だからこそ〝主〟なのだと、想像上の生物に敬服した。
「どうかな、目の前に広がる光景は」
少し心配そうな彼の声が隣から聞こえる。
「大丈夫ですよ。ちゃんと見ることが出来ましたから」
先ほどまで何もなかったはずの空間は、珍妙な生物たちが棲む深海の世界へと変貌していた。海の空を照らす宇宙クラゲ。紙のように平べったい深海魚たち。優雅に泳ぐモササウルス。そして中央に悠然と佇む主。
その光景は、人生で一度も見たことがない、まるで絵本の中に入り込んだような、そんな世界が広がっていた。
「この空間は、人類が解き明かしていない謎の答えが流れ込んでくるって言ってましたよね」
さきほど彼が言っていたことを思い出す。
「そうだよ、誰にも知られていないから、この空間に流れ着く」
「じゃあもし、この深海が見つかってしまったら、どうなるんですか?」
「この空間からは消えちゃうだろうね。知られていないものが流れ着く場所だから、知られてしまえばそれは謎じゃなくなる」
この深海の景色も、いずれはこの空間から見ることができなくなる可能性があるということ。それがすぐなのか遠い先のことなのかは分からないが、知られてしまえばここにいる生物たちの生態系が人の手によって崩れてしまうかもしれない。誰にも知られていない、手が付けられていないからこそ、この深海は美しく、幻想的なのだろう。
私はゆっくりと前進する。恐る恐る手を伸ばすと、ガラスが手に触れた。そのまま手を広げ、吸盤のようにガラスに密着させる。ひんやりと冷たい温度が掌を浸食する。さらに意識を集中させると、気泡がブクブクと音を立てながら上っていく音が微かに聞こえ、水中の空気の揺れを感じ取ることができた。
「今、モササウルスが目の前にいるよ。君のことを見ている」
傍に来た彼がそう言うと、モササウルスがのそっと目の前に現れた。
ワニのような顔をしているが、やはり頬にあるエラのせいでいまいち怖くない。
口を半開きにしながら、覗き込むように私のことを見ていた。
『やあ』
幻聴だ。そんなことは自分でも理解していたが、今は、彼が私に向けて発した言葉だと思うことにした。
『こんにちは』
私が心の中でそう呟くと、モササウルスは満足したように踵を返してどこかへ行ってしまう。その光景も、掌から伝わるほんの少しの振動で感じ取ることができた……気がした。
この掌から感じ取った情報こそが、彼らがガラスの向こうで確かに存在している証なのだ。
「一つ、聞いてもいいですか?」
ガラスから手を離し、彼の方へ体を向ける。
「何かな」
彼は相も変わらず柔らかい声を発する。
「私の眼は、どうですか?」
そう質問するも、返事は返ってこない。
質問の意味が伝わらなかったのかもしれない。
「この眼を、私は一度も見たことがありません。だから……他人からどう見えているのか知りたいんです」
そう言って私は自分の眼を触る。
無機質な感触。人体の一部というには、あまりにも硬すぎた。
「教えてください」
訴えかけるように強く問うと、彼が口を開く。
「とても……綺麗な眼をしている。正直、こうして近づくまで造り物だって分からなかったよ。本物みたいだ」
「……本当ですか?」
「うん、とても綺麗な碧眼だ」
瞳の色まで当時のままだったとは。そこまで考えて造られていたとは思っていなかっただけに、驚きが強かった。両親の注文か、技師の配慮か。
「ちゃんと眼の色まで同じだとは思いませんでした」
もう一度眼を触る。今まで周りの視線を気にしながら過ごしていただけに、彼の嘘偽りのない感想に少し安心した。
「アジアにしては珍しいね。生まれつきなのかい?」
日本人は黒か茶色が多いだけに、私の眼の色が気になったようだ。
「遺伝ですね。祖母がフランス人なので」
なるほどね、と彼は納得したように呟いた。
「そろそろ、次の所へ行こっか」
彼の手が触れ、私の小さな手がそっと包み込まれる。
「はい」
彼の手と声が導くままに、足を動かした。




