1話:To stray into
車内は静かで、快適な温度が保たれていた。座席のシートからはアルデビドなどの有機化合物が混ざった独特な匂いがする。人によっては悪臭と感じるかもしれないが、私にとっては非常に心地よい匂いだ。まるで自分がこのタクシーと一体化しているような、そんな気分になる。行きと帰りを合わせれば、一日の十二分の一はこの車内で過ごしていることになる。それだけの時間を過ごせば、この匂いに慣れるのも必然なのかもしれない。
私に気を遣ってくれているのか、車のスピードはいつもひどくゆっくりだ。タイヤが回る音も一定のリズムが刻まれ、ブレーキを掛けるときもゆっくりと減速していく。おかげで急に揺れたりすることがないので私自身は非常に助かっていた。
十八回目の停止で車のエンジン音が止まり、鍵の抜き取る音とドアを開け閉めする音が聞こえる。私はいつもその音を聞いて、自分の家に着いたのだと認識する。
今度はドアが開く音が右側から聞こえた。
開けた瞬間、外の空気が体を包み込む。
「着いたよ、お嬢ちゃん」
少し年齢を感じる低い男性の声が私を呼ぶ。声の主は運転手の前田さんだ。年齢は知らないが、声から推測するに五十代前半から後半ぐらいだろうか。彼は私の親が雇ったタクシードライバーだ。
かれこれ二年ほど学校の送り迎えをしてくれている。
隣に置いてある杖を手探りで探し、手に取る。三年間共に生活してきたこの杖は、私にとって親友のような存在であり、生命線でもあった。杖で床を軽く叩きながら足場を確認し、慎重に車を降りる。持ち手についている紐を右手首に通し、離さないようにしっかりと握る。
後ろからドアを閉める音が聞こえ、体がビクッと反応する。いい加減慣れないといけないと思っていても、こればかりはどうしても反応してしまう。
「よし、鞄は持ったよ」
「はい」
隣りに前田さんが並んだのを感じ取り、杖で地面を叩きながら歩く。前田さんも歩幅を私に合わせながらついて来る。コン、コン、とアスファルトの硬い質感が杖を通して手から伝わってくる。十歩ほど歩くと杖が金属に当たり、軽い音がした。門に着いた合図だ。左ポケットから門の鍵を取り出し、前田さんに導かれながら錠前を開ける。それから鞄を左肩にかけてもらい、扉を開ける。金属が軋む嫌な音が耳を刺激した。
「それじゃあ、私はこれで」
「はい、いつもありがとうございます」
相手がいるであろう方向を向き、軽くお辞儀をする。足音が徐々に遠ざかっていき、車が走り去っていく音を確認すると、扉をゆっくりと閉めた。
扉が閉まる音と鍵が自動でかかる音が同時に聞こえ、再び歩き始める。アスファルトとは違い、敷地内の地面は石造りになっているため、等間隔に小さな窪みがあり、杖が窪みに当たる度に軽く浮き沈みを繰り返す。
あと三歩進めば、点字ブロックがある。そう思いながら三歩進むと、杖が突起に当たる。点字ブロックは滑りにくい材質で造られているため杖がグッと止まった。そのまま二歩進み点と線でできた地面に足を置く。三本の太い突起状の線を足の裏で感じながら、ブロックに沿って歩いていく。この点字ブロックは、三年前に両親が業者に依頼して造らせたものだ。この点字ブロックの線の方向に沿っていけば、迷わずに玄関までたどり着くことができる。
こういうところだけは、気が利いている。
そのまま線状のブロックをひたすら進んでいくと、ブロックが点状のものに変わったのが、杖から伝わる振動で分かった。
点字ブロックの種類は主に二つ。一つは先ほど私が歩いてきた線状誘導ブロック。そして今杖に当たっているのが点状警告ブロックだ。このブロックは進路が交差している場所や行き止りなどの箇所に敷かれるていることが多い。この場合、すぐそこに玄関を上る階段があるということを示している。
点状ブロックまで足を運び、杖を前方に伸ばす。すると杖が硬いものに当たる。そのまま杖を下げていくと、一定のリズムで杖が元気に飛び跳ねる。一段目の場所を杖で確認しながら、右足を置く。一段目に右足が乗ったことを確認し、左足も乗せる。杖で次の段差を確認しながら、私は階段を上った。初めは階段を上るのも一苦労で、何度か転びそうになったこともあったが、今ではもう慣れたものだ。階段の段数は全部で十四段。ちゃんと数えながら上っていけば、転ぶ心配もない。
11、12、13、14……。
心の中で数を数えながら、無事に階段を上り終える。そのまま二歩進み、玄関マットを踏む。右手を伸ばすとひんやりと冷たいドアノブが手に触れる。手探りで鍵穴を確認し、ポケットから取り出した鍵を挿入する。ガチャリ、と軽快な音が鳴り、鍵を引き抜くとジジッ、と不思議な音を鳴らす。ドアを開けて、両手で支えながら中に入る。ドアを閉めるときは、音を立てないように慎重に閉めた。
私は普段家に帰っても「ただいま」と言わない。面倒くさいとか反抗期だからというわけではなく、ただ単純に「おかえり」という返事が返ってこないから、言わない。両親は家にいることが多いが、仕事の話や自室でデスクワークをしていることがほとんどだ。そんな二人の邪魔をしないように、私はいつも静かに帰宅する。
玄関は無駄に広く、座れるようにベンチが設けられている。そこに一旦鞄を置き、靴を脱いで並べる。家族の靴は基本的に棚に収納されているが、私はいつも玄関に置いている。杖はもう必要ないため、持ち手の部分にあるボタンを押して短く畳み、鞄の中に入れる。そのまま鞄を持ち、リビングに繋がる扉を開けた。
最初の違和感は、扉を開けてすぐに感じた。
いつもと何かが違う、そんな気がした。リビングに入った途端、空気が異様に重くなった。気のせいかもしれないと一瞬思ったが、やっぱり違う。
うまく言い表せない予感めいたものが体全体を支配する。
少しして、部屋のにおいがいつもと違うことに気づいた。普段リビングにはルームフレグランスのきつい香りが充満しているが、心なしかそのにおいが弱い気がする。香水のきつい香りに混じって漂うこのにおい。どこかで嗅いだことのあるにおいだったが、なぜか思い出すことができなかった。あまりいい匂いとは言えない独特なにおいだが、不思議と懐かしい感じがした。
そう思っていると、後ろの扉が悲し気な音を出しながらゆっくりと動き、閉じた音がリビングに反響する。
その音が背中を押すように、私の足がゆっくりと動いた。
この時間帯なら両親や妹が家にいるはずだが、リビングは私の足音意外何も聞こえず、テレビの音もしない。もしかしたらどこかへ出かけているのかもしれない。家族が何も言わずに私を置いて外食へ行くことはたまにある。
次の違和感は、足元からやってきた。数歩進むと、足に何かが触れる。液体だということはすぐに分かった。足を軽く床から持ち上げると、靴下から液体が滲んで浸食していくのを感じる。どうやら床に水か何かが垂れているようだ。家族の誰かがお茶でもこぼしたのだろう。進むたびに何度か足に液体が触れ、その度に少しムッとする。こぼしたなら掃除の一つでもしておけばいいのに。
そんな不満が漏れるも、濡れないように慎重に歩く。
手探りでテーブルを探し、濡れていないことを確認して、鞄を置く。
次の違和感は、唐突に左前方からやってきた。ガタッという音が不意に聞こえ、体が反応する。何かしらの家具が床に擦れるような音だった。
「君は……」
同じ場所から、声が聞こえた。ギリギリ聞き取れるぐらいの音量で、若い男性の声だというのが辛うじて分かる。だが、聞き覚えのない声だったので、咄嗟に警戒してしまう。
「誰ですか」
声のした方へ向きながら、私は尋ねる。
「そうか、君は……」
私の問いかけに答えることなく、男はまた小さな声で呟いた。
「これはちょっと、想定外だな」
今度ははっきりと聞き取ることができた。清涼感のある若い男性の声。年齢は二十代前半、もう少し若いかもしれない。
足音がこちらに近づいてくる。少し怖くなって後ずさろうとするが、背中が壁にぶつかってしまう。
足音がすぐそばで止まり、人の気配を鮮明に感じ取ることができた。
「怖がらないで、大丈夫」
男が優しい声で語りかけてくる。声が少し下から聞こえてくることから、背の低い私に合わせて屈んでいるのが分かった。
「あなたは、誰ですか?」
「僕は……ミシェル。君は?」
「黒江。金光黒江……」
「そう、クロエか。可愛らしい名前だね」
ミシェルと名乗った男は、そう言って私の手を握った。
「いきなりでびっくりしたよね。説明してあげたいんだけど、歩きながら話そう」
訳が分からないまま歩くよう促され、歩みを進める。私の手を包む左手は、ひどく温かかった。




