第三章:少年の言葉
「……じゃあ、あなたは、本当に“地上”から来たの?」
空の端、小さな岩場に、ふたり並んで腰かけていた。朝の霧がまだ晴れきらず、空気は湿って冷たい。リヴィは制服の袖を指先でつまみながら、ノアの横顔を見つめた。
「うん。歩いてここまで来た。風の流れに逆らって、ね。正直、途中で何度も転がり落ちるかと思ったよ」
ノアはそう言って、肩をすくめた。
「……でも、地上は……滅んだって、先生は……」
「滅んだなんて、とんでもない」
彼は笑って首をかしげる。まるで、そんなことありえないとでも言うように。
「ちゃんと人もいるし、街もある。昔とは少し違うけどね。誰もが、生きようとしてるよ」
リヴィの胸の奥で、何かがひとつ、静かに崩れる音がした。
「じゃあ……どうして……そんな大事なこと、私たちは知らないの?」
ノアは答えを探すように、わずかに黙った。その沈黙のなかで、霧が少しずつ揺れる。
「君たちが、知らされてないだけじゃないかな。“空の民”には、地上のことって『禁忌』なんでしょ?」
リヴィは、息を呑んだ。喉の奥がきゅうと締めつけられる。
「禁忌……? でも、もし本当に人がいるなら……繋がるべきじゃない? 助け合ったり……」
「普通はそう思う。でも、“空の楽園”を守るために、“地上の呪い”ってものを仕立てたんだろうね。嘘を真実にして、信じ込ませる方が、支配には都合がいいから」
「……嘘、でしょ……?」
声が震える。自分の口から出た言葉が、まるで別人のもののように響いた。
「君は、信じない?」
「……わからない。でも……もし、それが本当だったら……私がずっと信じてきたものって……全部、嘘だったってことになる」
その瞬間、制服の胸に縫い付けられた「風の紋章」が、重く感じられた。誇りの印が、急に何かを縛る鎖に変わった気がした。
そして──
「そこにいるのは誰だ!」
背後から、鋭い声が空気を裂いた。リヴィが振り向くと、霧を割って滑空機が近づいてくるのが見えた。翼の上には、制服姿の影がふたつ。
「……やばい」
ノアが即座に立ち上がり、リヴィの手を取ろうとした。
「まって……どうしよう、私……見つかったら……」
「資格、剥奪される?」
リヴィはうなずくことしかできなかった。
風の資格。それを失えば、すべてを失う。学び舎も、家族も、居場所も。
「……じゃあ、逃げよう」
ノアの声は、静かで確かだった。
「まだ霧がある。気づかれないうちに、崖の裏へ回ろう。俺の後ろに」
「でも……あなたまで巻き込んだら……!」
「俺は、空の人間じゃないから」
ノアの微笑みは、冗談のようでいて、どこか覚悟に満ちていた。
ふたり、霧の中へと足音を消す。岩陰に身を潜めると、リヴィの鼓動が、自分の耳の奥で爆音のように鳴った。
──空の人たちは、知らないんだな。
ノアの言葉が、風の音に混ざってリヴィの耳に残る。
そして彼女は、まだ知らない。
この瞬間を境に、自分がもう「空の人間」ではいられないことを。