第二章:大陸の縁で
空の朝は静かだ。風の音だけが、島を包む。
リヴィは制服の上から薄手の外套を羽織り、誰にも見つからぬように学舎裏の小道を歩いていた。目的地は決まっている──立入禁止区域〈大陸の縁〉。
空の果て。雲が裂けるように流れ、遥か下に何もない深い蒼が広がる場所。
「……ほんとに、誰もいないんだ」
柵を越えて、その縁に立った瞬間、足元の浮石が不安定に鳴いた。風の資格者である自分が、こんなところに来るなんて、バレたら即刻除籍。けれど、それでも知りたかった。空の外には、何があるのか。
その時だった。
ごく微かに──風と逆行する“何か”が這い上がってくる気配があった。
リヴィが息を呑むと、雲を割るように、ひとりの少年が現れた。
灰の髪に、土の色の外套。背に負った長い棒に吊るされた小さなランプが、朝の霧の中できらりと揺れた。
「……あ」
彼は、空に“立って”いた。
重力に従っているはずの身体が、逆に空を踏みしめている。しかも、軽やかに。
「……誰?」
思わず出た言葉に、少年は少し驚いた顔をして、でもすぐに微笑んだ。
「よかった、生きてる人がいた」
「……え?」
「空の上、誰も住んでないのかと思った。こんにちは。君、空の人?」
リヴィは一歩下がった。心臓が痛いほど脈打つ。
「なに……? あなた、どうやってここまで……。空は、歩けないでしょ……」
「普通はね」
少年は、腰のポーチから石のようなものを見せた。青灰色に光る結晶──見たこともない。
「これがあれば、地上の重力をちょっと無視できる。名前はまだないけど、俺らは“ゼロの核”って呼んでる」
「じ、地上……?」
「うん。そこから、歩いて来た」
言われた言葉を、リヴィの脳が処理するのに少し時間がかかった。
「嘘……そんなの、聞いたことない……。地上は……呪われてるって」
「へえ、呪い、か……。そっちじゃ、そう教えられてんのか」
少年──ノアは、ちょっと寂しそうに笑った。
「でも、ちゃんと人は生きてるよ。畑もあるし、焚き火もある。星もちゃんと見える。……空の人たちは、知らないんだな」
リヴィは何も返せなかった。揺れる。頭の中が、世界が、全部。
しばらく風の音だけが、二人のあいだを吹き抜けていた。
「……名前、教えてくれる?」
ようやく、リヴィが口を開く。
「ノア。ノア・エルンスト。君は?」
「リヴィ……アストレア」
「リヴィか。いい名前だね」
ノアの声は、まるで友達に話しかけるように、自然で穏やかだった。
リヴィの中で、何かが少しだけ崩れた気がした。