『風の縁、重力の名』
“空に住む私たちは、地上を知らない。”
それは当たり前のことだった。
けれど、当たり前が正しいとは限らない。
触れたことのない真実、見たことのない希望、そして踏み越えてはならない「境界線」。
これは、少女がその一歩を踏み出す物語。
空の縁に立つあなたへ、この風を届けたい。
朝の光は青白く、空の大陸〈セレス〉の端を霧と共に撫でていた。
リヴィはその霧の向こうに立っていた。靴の先が今にも空へ滑り出しそうなほど、大陸の縁に近づいて。
毎朝ここへ来るのが習慣だった。母には「風の紋章の訓練」と言ってある。嘘じゃない、たしかに風を感じ、紋章を起動させる練習はしている。でも、本当の理由は──
“下”を見たかった。
見えない地上。神に呪われた場所。けれどリヴィの胸の奥に、小さく震える違和感があった。
なぜ誰も見たことがないのに、そこを憎むのか。
「……また来たのか」
声がした。振り返るよりも先に、霧が渦を巻いた。そして“現れた”。
いや、“這い上がってきた”のだ。空の裂け目から。
少年だった。前に会ったときと同じ、素足、奇妙な服装、そして胸元に埋め込まれた──光る石。
「……あんた、ほんとに地上から?」
「何度も聞くなよ、リヴィ」
「信じられないもん。そんなところ、誰も行ったことないのに」
「君たちが行かないだけだ。地上は、ある。人もいる。空に届く技術も」
リヴィは無言で少年を見た。彼の背には小さな機械の翼があった。羽ばたかずとも、彼は浮いていた。風の紋章なんかじゃない──重力を拒む何か。
「その石……何なの?」
少年は手で胸元を押さえた。
「“ゼロの核”……重力を無に還すもの。僕たちは、神を信じなかった」
「……罰は?」
「ないよ。罰なんて、誰かが作った幻だ」
リヴィの胸に、何かが音を立てた。
「……見せてよ。地上を。私、見たい。空の外を、自分の目で」
少年の目が細くなり、口元がわずかに笑う。
「じゃあ、行こうか。この大陸の“外”へ」
リヴィは躊躇した。
もしこれが誰かに見つかれば、“風の資格”を剥奪される。生きていけない。家も、名前も、何もかも失う。
でも──
「行く」
その言葉は、風よりも早く空へ放たれた。
**
二人は空の縁を飛んだ。風の紋章ではなく、重力の無い“歩行”で。
リヴィの足が雲を蹴る。信じられないことが目の前にあるのに、恐怖よりも高揚が勝った。
「ほら、見えてきたよ」
少年が指をさした。
遠く、霞の中に、もうひとつの“空”が見えた。いや、空ではない──大地だった。森、塔、川、光。そのすべてが、彼女の常識を壊す。
「地上……本当に、あったんだ……」
「君の歴史は、これから変わる。空と地上がもう一度繋がる日が、近づいてるんだ」
リヴィは目を見開いたまま、その風景を心に焼き付けた。
禁忌なんてどうでもよかった。
この空の終わりが、新しい“始まり”になるなら──
彼女は、飛ぶ。
物語は、ここから始まる。
ここまで読んでくれて、ありがとう。
リヴィが見た“地上”は、彼女にとって希望であり、禁忌でもありました。
この世界にはまだ多くの謎が隠れています。
少年の正体、ゼロの核の意味、そして空と地上を分けた神話の真実……
空の終わりで、君は何を見る?
また、次の風の中で。