7.黄昏
完全に陽が沈み空も鮮やかさを失った頃、オリエーラはぼうっと眺めていた景色から目を離した。
(良い匂いがする。夕食の匂い)
風に乗ってどこかの家の晩ごはんの匂いがする。この家庭の匂いを嗅ぐ度、オリエーラはずっと羨ましい気持ちを感じていた。
アンダリュサイト家は貴族でこそないが国でも指折りの有望な商家であるため、使用人を雇い生活の全般を任せている。夕飯は料理長をはじめとした使用人らが作っており、贅を凝らした品々がコースで出てくるのがお決まりだった。
オリエーラは恵まれている。一般的な庶民とは違う生活をさせて貰っていること、それが大多数の人々にとって得難い理想像であり仕合わせなのだと十分に理解はしていた。だが、人とは無いものを欲しがるものなのだろう。
オリエーラは贅沢よりも、あたたかな愛情が欲しかった。
感傷に浸ってしまったところで気持ちを切り替えてベランダを後にし、室内へ戻ると部屋中が食欲を刺激する匂いに満たされていた。驚いたオリエーラは固まった。
(これは、さっきの、夕飯の匂い…)
まさかと思い台所へ向かう。狭いアゲートの一室は10歩も歩かないうちに端へ辿り着く。
台所と居間を隔てるために申し訳程度にかかっている麻の暖簾を押しやり様子を伺うと、ブワッと香辛料の匂いが鼻を通り抜けた。
「毛布、ありがとうございました…」
「ん。飯の臭いが移るから隣の部屋に置いといてくれ」
アゲートはオリエーラを一瞥するとそう良い、手際よくフライパンの中身を振った。
その姿にまたオリエーラは固まってしまったが、慌てて毛布を寝室に持って行った。
(夕食…作ってくれるの?)
寝室に一歩踏み入ったオリエーラは、毛布を、皺になってしまうことも構えずに掻き抱いた。
(どうして。私は、迷惑をかけているのに)
毛布に顔を埋める。強く柑橘の匂いがして、無性に泣きたくなった。
目を瞑って力を入れていないと、涙が溢れてしまう。
(出会ったばかりのあなたが、欲しいものをくれるの)
どうにか涙を堪えて毛布を畳み、寝室の扉を閉めた。
出来上がった料理が皿に盛られていたのでオリエーラは配膳を手伝い、アゲートと2人で食事をとる。
センダルクでは高級品とされている魚料理がメインだった。
「いただきます」
焼き魚は箸を入れるとホロホロと身が崩れる。香辛料が振られた魚は臭みがなく、鼻に抜けるスパイスの香りと魚の風味が相まってとても美味しい。
皿に盛られた米は粘りがなく、一粒ひとつぶがさらさらとしている。まとまりがない分食べにくいが、フォークを掴み必死に味わった。
「この野菜は生で食べるんですか?」
「米とこっちの煮魚巻いて食べると美味い」
煮魚は初めて食べる。恐る恐る魚の身をとり、緑色の葉に米と一緒に乗せて口に入れると、優しい塩気と甘みが感じられた。
こんなにあたたかくて美味しい食事は初めてだ。
気づけばオリエーラの瞳からは大粒の涙が溢れていた。
「…っ!…、ぅっ、」
涙を堪えようと歯を食いしばるが、雫は後から後から流れてきて止まってくれない。口に入れたままのご飯が噛めず、情けない顔をしているだろう。
アゲートはオリエーラが静かに泣いている間、慰めることもなく黙々とご飯を口に運んでいた。しかしオリエーラの方をチラリとも見ず放っておいてくれているその態度が、「好きに泣いていい」と言ってくれているようで、その優しさにまた涙した。