5.澪
「それで、これからの話だ。あんたを早めに家に返してやりたいが、国を跨ぐのには少しばかり手続きがいる。まあ、2週間ってとこだな…。カザンに来る際の入国手続き書は持ってるか?」
「いえ、持っていません。あの日、私は燃料車で使用人に乗せてもらってセンダルク国のクィルという街に向かう予定でした。なのでセンダルクを離れる予定はなかったのですが、こうしてここにいるため恐らく入国手続き書は作成されています。…ですが、使用人が持っているものと思われます」
「は〜、厄介な…。一から出国の手続きをするとなると、準備期間は倍だと思ってくれ」
「重ね重ね、ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「あんたに非はないだろ?それに一昨日の夜の状態じゃ、仕方ねぇよ」
そう言った後、アゲートは「一応家に連絡しとくか?」と申し出てくれたが、少し考えて断った。
「いえ、連絡すべきなのは承知しておりますが…。少し、その、状況が複雑かもしれないので、今は…」
「訳ありか?」
その問いに頷く。申し訳なさで頭が項垂れたまま上げられない。
「わかった。無理強いはしねえが、早いとこどうにかしろよ。行く宛はあんの」
「いえ…。ないので、どうしようかと…」
「はあ〜……。一緒に来るか?」
「え」
「なに。嫌なら良いけど」
オリエーラは驚いて勢いよく顔を上げる。
「ご、ご迷惑では…?」
「今更何されようが変わんねぇよ」
アゲートはそう言って仕方なさそうに薄く微笑んだ。
このように柔らかい笑顔をオリエーラは初めて見た。胸に暖かなものが広がる。
「よろしくお願いします」
オリエーラは心からの感謝の気持ちを込めて頭を下げた。
「わあ……!」
アゲートに世話になると決めてから、2人は病院近くの乗車口から乗り合いの燃料車に乗ってトレルの街中を走っていた。客はオリエーラとアゲートの他に4人いる。
オリエーラが住んでいたセンダルクの首都とは違い雑多な雰囲気ではあるが、家々の壁は多くが白で統一されており美しい。海にある珊瑚というものを砕き、粉末にして家の壁に塗っているのだそうだ。日差しと潮風が強いトレルの、建築物を長持ちさせるための知恵なのだという。
珊瑚というものはそんなにたくさんあるのか、とアゲートに問えば「有限だな。珊瑚も、燃料も、全部」と返ってきた。
半刻ほど車に揺られていたら、建物が開け、対岸の見えない湖が見えた。
「わあ、大きな湖ですね…!」
オリエーラがそう言うと、アゲートは何故か笑い出した。
「見たことないんじゃそう見えるよな。これは、海だ」
「海……!これが…」
海は広く大きく、終わりが見えない。蒼い水面には白波がたち、陽光を受けてキラキラと輝いている。遠くの上方に何艘もの船が浮かんでいるのが見てとれた。
「とても、綺麗…」
湖は、穏やかで見ていると心を落ち着かせてくれるが、海は眺めると心臓のあたりがソワソワし、心が湧き立つような気分になる。
それからオリエーラは車が目的地に到着するまでずっと海を眺めていた。
「着いたぞ」
燃料車が止まり、アゲートに促されて車から降りる。
そこから海沿いの路を少しばかり歩き、寂れた雰囲気のある3階建ての建物の前に出た。アゲートはその建物の階段を登っていくのでオリエーラも続く。
「これ、俺の家」
そう言って同じ階に3つほど扉のあるうちの一つの前に立ち、扉を開ける。
「……。」
これが、家。家というか、部屋の間違いではないのか。
「あ、あの、このお部屋がアゲートさんの、お家ですか…?」
「狭くて悪かったな。あんたん家みたいに金持ちじゃないんで」
「ち、小さい…」
「何。文句?」
「いえ…。こう言った家は、初めて見たもので」
「あっそ。連れてくるんじゃなかったな」
そう言いながらもアゲートは室内へと入って行く。
オリエーラも慌てて追いかけた。
「ここはアパート。他人と共有している建物だ。そのうちの一室がこの俺の部屋。洗面台と便所はこれ。水の使い過ぎには注意しろ。すぐ止まる。風呂と炊事場と、水が止まったときのための臨時の便所は住んでるやつ全員共用で一階にある。ここは居間、そっちは寝床にしてる。窓開けたらベランダ。洗った衣服を干すとこだが潮がつくから偶にしか使わない」
説明されるがイマイチピンとこない。
「まあ、そのうち覚えてくれ」
微妙な表情が顔に出ていたようだ。ここに住むのか。果たして慣れることができるのだろうか。
しかしアゲートに助けられなければオリエーラは今頃道の上で冷たくなっていたかもしれない。生きていたとしても今夜は野宿だっただろう。恩人の家だ。失礼がないように…という気持ちはある。
「じゃあ俺、仕事に戻るな。悪いが今日はここで大人しくしててくれ」
「わかりました」
「もし腹が減ったらこのパンを食え。水はこれ。あと便所の使い方だけ教える。来い」
そう言って必要最低限の生活の仕方をオリエーラに教えた後、アゲートは上着を着直して出て行った。