13.銀波(2)
「ットワレ!」
「ん。なに?」
勇気を振り絞ったオリエーラに呼ばれたアゲートが優しい顔で振り向いた。
思ったより勢いよく声が出たが、今はそんなことには構っていられなかった。
「私のことも、”オリア“と呼んでください!」
「え」
焦ったオリエーラはとんでもないことを口走ったが、してやったり。オリエーラばかりが振り回されているのでは癪である。思惑通り今度はアゲートが目を丸くする番だ。
……悪戯を仕掛けたオリエーラの方が顔が赤くなっているのには、どうか目を瞑って欲しい。愛称を強請ることが、こんなに勇気が必要だとは思わなかったのだ。
「今日、名前を呼んでくださって、ありがとうございました。それに、ト、トワレ…が名前を教えてくださって、、嬉しかったんです……だから」
「ふーん」
アゲートは表情の読めない顔でオリエーラを見る。
「気が向いたらな」
そう言ってアゲートはまたしても歩き出した。
それにオリエーラは顔色を悪くし、反省した。
アゲートの態度は妥当だ。踏み込んでくれたのが嬉しくてオリエーラは舞い上がってしまったが、愛称を使うのは出会って数日の人間の距離ではない。おそらく国は違えどトレルも同じだろう。
しかし間違ったらまたやり直せば良いと、オリエーラは気持ちを切り替え早足でアゲートに追いついた。アゲートの名前を教えてもらっただけでも二人の仲は進歩したのだ。世話になる間剣呑な雰囲気でいるより余程良いだろう。
「先程は失礼しました。トワレ」
「いや……」
一歩分前を歩くアゲートの様子がおかしいが、暗くてよく見えない。
「トワレ、私は何かしてしまいましたか?」
「違う。俺の問題だからあんたは気にしなくていい」
「良かった。私、トワレのはっきりとものを言ってくれるところ、とても好きです」
アゲートは違うことは違うと言ってくれるし、自分が悪いと思ったら謝ってくれる。勿論赤の他人の世話を焼いてくれるところも、良い人だ。
「あんた、元々はそんな性格だったのか」
「はい。私も久々に思い出しました」
「久々?」
「……大好きな母がいたのですが、7歳の頃に他界してしまって。それから忘れていたようです。トワレが優しくしてくださるので思い出せました。それにしてもトレルの海風は気持ちいいですね。波の音も、ずっと聴いていたいです」
母の話をされても困るだろう。オリエーラは話題を逸らした。
アゲートは海の方を見やり、次いでオリエーラを見る。
「明日は何をしますか?…あ、トワレはお仕事でしょうか」
「そうだな。付いていてやれなくて悪い」
「いえ、大丈夫ですよ。外に出てもいいですか?」
「あんまり遠くには行くなよ。帰れなくなっても困るだろ」
「子供じゃありませんよ」
「そうか?」
アゲートが意地悪な顔をして笑う。揶揄われているのだが、嫌な気分ではなかった。
それからも他愛もない話をしながら歩いた。
「そろそろ着きますか?」
「もう少しだな」
「今日は本当に楽しかったです。ありがとうございました」
間隔を空けて石畳を照らすオイルランプの丁度真ん中の道は、暗くて星しか見えない。
オリエーラが波の音に耳を傾けながらセンダルクよりも美しい星空を眺めていた時だった。
アゲートの声が空気を震わせる。
「オリア」
「え………」
「俺も今日楽しかった。あんたがいてくれて良かったと思ったよ。ありがとう」
オリエーラは呆然としてアゲートを見た。驚きで思考が停止する。
「じゃ、帰るか」
アゲートはまたしても先に進んでしまう。家の場所をまだ覚えられていないのだ。置いていかないで欲しい。しかし足が動かない。
「帰るぞ?」
不審に思ったアゲートが引き返してきてくれたが、依然オリエーラの足は地面に縫い付けられたように動く気配がなく、体は石のように固まったままだった。
「悪いけど、触るな」
そう言ってアゲートはオリエーラの手を取り、歩き出した。
固まっていたオリエーラはアゲートに手を取られたところから溶けたように体が動き、1人で歩いていた時よりも不思議と足取りが軽くなる。
「……そんなに驚かれると、困る」
「……母さんに呼んでもらった、大切な名前なんです」
「ん」
オリエーラは話し始めた。
「もう二度と会えないことが、…オリアって、呼んでもらえないことがずっと、そう。悲しくて。でも他の人に呼ばれるのも何か、嫌で」
「ん」
「でも、アゲートさんには、呼んでもらいたくて。私」
壊れたロボットのようにしか話すことができない。本日二度目だが、本心を伝える術を長らく忘れていたからだろうか。
「こんなに嬉しいとは、思っていませんでした…」
「ふーん。嬉しいと思ってくれるんだ」
「はい」
オリエーラの脳みそは、やっと通常運転に戻り出した。
「トワレ」
「なに?」
このやりとりも2回目だと頭の片隅で思いながら言葉を紡ぐ。
「ありがとう」
オリエーラはアゲートに手を引かれたまま、彼の顔を見て笑った。
「あんた、今回は泣かないのな」
アゲートも片眉を上げて笑う。
「ふふ、私はそんなに泣き虫じゃないですよ」
「説得力ないけど」
オリエーラはぶれてきた視界を誤魔化すように目を閉じる。これでは本当に泣き虫ではないか。視界を閉ざすとアゲートに繋がれている暖かい手の温度を強く感じる。
アゲートの家はもう目の前だった。流石に外観は覚えている。
家に入ってしまうと外であった出来事が終わってしまうようで寂しさを覚えたが、アゲートの家の中が暖かいことをオリエーラは知っていた。
ーーーアゲートへの気持ちに名前をつけることは、まだできないが。
手を離されるまで、いつも暖かさをくれる人の後ろ姿をぼうっと眺め続けていた。




