12.銀波(1)
トレルの街は美しい景観を持つと同時に賑やかで、すれ違う人々も笑顔で活気に溢れていた。しかし夜になると騒がしさは鳴りを潜め、辺りは夕闇を照らすオレンジ色のオイルランプの灯と穏やかに通りすぎるまばらな人影だけとなる。
「は〜、食ったな」
潮を含んだ夜風に当たりながら海沿いの道を歩く。
「はい!とても美味しかったですね」
「あんた、毎度旨そうに食うよなあ」
「食べ方は分かりませんが、トレルのご飯は大好きです」
食事処で、オリエーラは出てくる料理を無言で口に入れては目を輝かせて食べていた。
「ふーん。……俺は何か浮気された気分だけど」
「え?」
小声だったため聴き間違いだろうかと思ったがオリエーラは歩いていた足を止め、アゲートを見上げた。アゲートも数歩先に進んで止まる。
「うわき…?」
「……俺が作るより旨かっただろ」
アゲートは眉間に皺を刻んで恨めしそうにオリエーラを見る。
オリエーラは”浮気”とは何を指すことかわからず数秒ほど呆けていたが、アゲートの言うことを理解した途端に笑ってしまった。
「ふふ、っあはは!」
堪えきれず声を出して笑ってしまう。
アゲートに失礼だと顔を伏せるが頬が緩み口から笑い声が飛び出た。
(……アゲートさん、可愛い)
オリエーラは笑みを浮かべたまま顔を上げ、アゲートに歩み寄った。
「そうですね。お店のご飯もとても美味しかったです」
「…ふーん」
でも、とオリエーラは続ける。
「アゲートさんが私のために作ってくださる料理の方が、私は好きですよ」
「はいはい。あんがとな」
「もしアゲートさんがお店を開いたら、今日のお店よりそちらを選びます」
呆れたような声音と、拗ねた顔をしてアゲートが適当な返事をする。
「アゲートさんの料理の方が、美味しいですよ」
「ふ〜ん?」
アゲートが満更でもない顔をした。オリエーラの言葉はアゲートの気持ちを満せたようだ。
「……じゃあまた作ってやるよ」
「はい。是非、お願いします!…今からでも食べられますよ?」
「嘘つけ。腹いっぱい食ってただろうが」
「別腹というものです」
「は、何だそれ」
今度はアゲートが可笑しそうに笑った。
(アゲートさんが笑ってくれると嬉しい)
急に胸がいっぱいになる。ポカポカする心臓のあたりを抑えて、オリエーラは内心首を傾げた。
「………。なあ」
「はい」
アゲートに呼ばれてそちらを向く。
「俺の名前、アゲート・トワレ」
「そうなんですか。いい名前ですね」
今更ながらフルネームを知らなかったことに思い至り、そして教えてくれたことを嬉しく思う。
「あんたは?」
「……?オリエーラ・アンダリュサイトです」
「オリエーラが名前だろ?」
「はい」
アゲートは何が言いたいのだろう。オリエーラは要領を得ない顔でアゲートの言葉を待つ。
「俺達、逆」
「逆とは…、アゲートが苗字?」
「ん。だから……。あー、」
アゲートが言葉に迷って頭を掻いた。しかし何か決心したようにオリエーラを見つめる。
「トワレでいい」
「え……」
オリエーラは困惑した。異性を名前で呼んだことなどないためだ。しかし同時に喜びが胸に広がった。
実をいうと、オリエーラの国では名前を呼ぶことも呼ばせることも少々特別なことだった。オリエーラもアゲートに呼ばれる以前は家族以外に名前を呼ばれたことはなく、そして逆も然りであった。
アゲートに初めて自分の名前を呼ばれた時にあったのは驚きと、覚えていてくれたのだという感動、そして嬉しさ。名前を呼ばれても不快でなかったのはオリエーラの中でアゲートが「良い人」だからだと思っていたが、それ以上に好感を持っているのしれないと気づく。
(だって、今、私はアゲートさんの名前を呼びたいし、……呼ばれたい)
まだ出会ってから片手で数えられるほどの日にちしか経っていない。アゲートとオリエーラは数日前まで会ったこともない他人だったのだ。なのに一緒にいると心地良い。
(それは、アゲートさんが私のことを大事にしてくださるから)
感謝してもしきれないくらい、アゲートには色々な面で世話になっている。
(……センダルクに帰る時が来たら、アゲートさんにはもう会えないかもしれない。でも…。今だけなら、許されるかな)
「トワレ、さん…?」
「敬称も要らねえけど」
伺うように名前を口にする。美しい響きだ。
しかしいっぱいいっぱいなオリエーラに、アゲートは更に要求した。
それは流石に、親しすぎるのではないだろうか。
「…………………」
「まぁ、無理しなくて良いから」
アゲートは背を向けて止まっていた歩を進め出した。
オリエーラは焦った。このまま機会を失うのは惜しいが、羞恥心が勝ちそうだ。
オリエーラが悩む間にもアゲートは先へ進んでしまう。
「ーーー」
ふと、嘗て優しく呼んでくれた人の声を思い出す。
ーー待って欲しい。まだ。
(呼べてないのに!)
「〜〜!ッ、トワレ!」




