79.神獣ローアルデ
目覚めた時、ビアは神樹のすぐそばで横たわっていた。
「あれ……私……?」
ぼんやりしたまま身体を起こす。あたりを見回すと、そこは先ほどまでいたはずの神樹の泉だった。ただ不思議なことに、ビアはなぜか今日着ていたはずの軽装ではなく、召喚時のディアンドル衣装を身につけている。また、先ほどまで一緒だったはずのテオドアやフェリクスたちの姿が見当たらない。あたりには他に誰もおらず、微風に頭を揺らす神樹の下でビアひとり、凪いだ泉に護られるようにしてぽつんと座っているだけだ。
(ん、あれ?)
そう、ビアは神樹のすぐ根元にいた。泉の中央の小島にある神樹だ。つまりは四方八方、水水水。深水がどれくらいあるか分からない泉に阻まれ、どこに行こうともどこへも行けぬ状態だと気づいた時、それまでぼんやりしていた頭が一気に覚醒した。顔からさあっと血の気が引く。
「……って、テオ!!フェリクス様!!ジミルさんにクォーツさーーーん!!みんなどこに行ったんですかーーー!?」
置いてかないでくださーい、という涙混じりの懇願があたりにこだまする。人っこひとりいないこの場所ではビアの叫びも虚しく、何度も響き渡るSOSもそのうち木々のざわめきや風の音にかき消されてしまった。
待てど暮らせど返事が来ない状況に、ますます顔が青ざめる。
「どっどどどどどどどどうしようぅ……この泉、どれくらい深いのかな?向こう岸までの距離はどれくらい?二十五メートルくらいなら泳いで渡れるかなあ?でも着衣水泳なんてしたことないし、かといって素っ裸はもしテオとか戻ってきた時に恥ずかしいし……でっでもでも!このまま飢えと渇きで死んじゃうくらいならいっそ乳のひとつやふたつ!!………あ、渇きって言えば、この泉の水って飲めるのかしら?もし飲めるなら少し安心かな……あ、でも飲みすぎてトイレ行きたくなったら………ああやだ、言ってるそばからなんだか行きたくなってきたかも……」
普段ビアはさほどひとりごとを言わないのだが、今日はいやにするすると口から出てくる。こんな状況下で不安と心細さに押しつぶされないために、声を出すことで正気を保とうとしていた。しかし口に出したら出したで、出てくるのはますます不安を煽る言葉ばかり。いよいよ追い詰められ、かくなる上はやはり全裸水泳かと泣く泣く胸のボタンをひとつずつ外し始めた時、聞き慣れぬ男の声が耳に届いた。
「っっだぁーーー!!落ち着け!!黙れ!!口を閉じろ!!……ったく、今回の巫女は姦しくて仕方がないわっ!!」
振り返れば、そこには声の主が泉の上に浮かびながらじっとこちらを見据えていた。ビアがはっと息を呑む。しばしの間呼吸を忘れ、その姿に見入っていた。
声の主――それは、あの教会で見た、混じり気のない純白の神々しい一角獣だった。
「まったくもって!!兎にも角にも!!お前は!!ほんっとうに!!落ち着きがない!!有り体に言えばドジで間抜けでおっちょこちょい!!こーんなしょうもないぼんくらが救国の乙女とは、どうするんだお前は!!ええ!?……まず召喚された時点で救国の書を初っ端から失くし?あーもうこの時点で前代未聞じゃ!!で?書の紛失もあれだが、そもそも書の内容がろくに頭に入ってないってのもどういうことだ?お前自身目を通した上で署名していように、なーんで何にも覚えとらんのだか!!今までの奴らも大なり小なり差はあったが皆ざっくりは覚えていたぞ?エルゼリリスなどはすべて暗記していた」
ビアが声も出ないほど驚いたのをいいことに、一角獣はずけずけ文句を並べ立てた。
「で、百歩譲って職種を忘れていたのは分かったが、その後!!力の発現に何ヶ月かけとるんじゃ!?書が無いなら無いなりにもっとなんとかならんかったのか!?というかなんで書と呼応してないんじゃ!?意識が足りんのだ、救国の乙女としての意識が!!」
神秘的な見た目とは裏腹に、ずいぶん俗っぽい喋り方をする。なんというか……屁理屈の多い面倒な老人、といった感じだ。
「んで、エルゼリリスの加護を借りてやぁ〜っとここまで辿り着いたと思えば今度はなんだ?我が使徒を連れてき束の間、飛び込んできたのはとんだじゃじゃ馬男ではないか!!ほんっっっとうに最後までいいとこなしじゃなあ、この巫女の面汚しがっ!!」
いったいいつまで続くのだろうかこの文句は。正直、だいぶ鼻白んでしまったビアだが、とはいえ相手は国を司る神獣である。本心などおくびにも出さないでふんふんと静かに真面目に聞いたフリを続ければ、一角獣の説教は十五分ほどかかってやっと幕を下ろした。
「えーまあそういうわけだ。とはいえ貴様が腐っても救国の乙女であることは間違いない。どうせまぐれだろうが、貴様が己の力に目覚めた時、あれはエルゼリリスをも凌駕する絶大な力であった。それ故かは分からんが、あの気難しいエルゼリリスが貴様を気に入ったようだからな……まっったくもって不本意だが、貴様に洗礼の儀を行おう」
そこまで言うと老害一角獣は一つ大きな咳払いをして、真面目な顔でこちらを向き直った。
「――我、癒恵を司る神獣、ローアルデが問おう。汝、心して応えよ」
低く威厳のある声が脳に響く。翡翠色の瞳が試すようにこちらを睨め付け、目を逸らすことができなかった。
――――汝、何を望む?
突然の問いかけに、ビアは頭が追いつかずきょとんとする。一拍遅れで自分が試されているのだと気づき、慌てて口を開いた。
「……ま、護る力ですっ!!」
我ながらたどたどしく拙い答えだと思った。神獣の目つきが一層険しくなる。
――――何を護る?
「えっと……た、大切な人……」
――――人?国ではなく?
「……国、なのかは正直まだわかりません。そんな大きなものを護るなんて、大それてて実感が湧かないから……」
――――では、汝の大切な者だけを護りたいと?それは単なる力の濫用ではないのか?
「大切な人だけを護りたいわけじゃないです。大切な人を護る為に、私は世界を少しでも平和に近づけたい。瘴気を取り払って、人々が魔物の被害で苦しまない世界、隣人を疑わないで済むような世界を目指したいのです。…………そう考えれば、私が護りたいのは国でもあるのかもしれません」
――――詭弁だな。汝の答えは結局、私情の延長線上にしか国をとらえていない。救国の乙女の名に相応しくない
「………その通り、かもしれません。正直、まだ自分でも救国の乙女という立場に理解が追いついていませんから。……ですが、私情ありきだとしても、この気持ちに嘘はございません」
最初は言い淀んでいた回答も、最後にはすらすらと口から溢れてきた。もっとも、それは相手にとって納得のいくものにはなり得なかったが。だがこれが今の自分が出せる最上の答えだ。ビアは唇をギュッと噛むと、目の前の一角獣をキッと睨み返した。
しばしの間、神獣との睨み合いが続く。宝石の瞳はすべてを見通すかのように鋭く、つややかな毛並みは過ちを許さんとばかりに潔白だ。ビアがごくりと唾を飲む。必死に睨み続けなければ気圧されてしまいそうだった。
いくばくの時が過ぎただろうか。本当はものの数分も経っていなかったのかもしれない。だがビアには悠久にも感じるような長い時だった。やがて神獣は根負けしたとばかりに瞳を伏せる。大きく息を吸うとわざとらしいほどの大きなため息をついた。
「……情けない。ああ、まったくもって情けない。謀にまんまと陥れられ、己が過失で力を失い、エルゼリリスの加護がなければ自ら道を切り拓くこともできない未熟な娘。その上で己が為に力を欲する傲慢な娘!!……ああ嘆かわしい。大聖女エルゼリリスには、気が遠くなるほどに程遠い………エルゼリリスはこんな愚鈍を後釜に据えたいというのか?まったく理解に苦しむわ…………しかしあやつが信じたいというなら、これもまた運命の悪戯というなら、あるいは……」
宝石の眼が再びキッと見開かれる。翠玉の瞳は一層輝きを増していた。神獣が一歩前へと足を踏み出す。途端、足元から眩しい光が噴き上げ、辺り一帯が真っ白に染まる。ビアがあまりの眩しさに目を細める。
「この国に呼応し招かれた者、ビア=オクトーバーよ。神獣ローアルデの名のもとに、そなたに救国の乙女の力を授けよう。受け取れ、そなたの力の源を」
神獣ローアルデが右前脚を大きく振り上げる。そこに突然、緑の背表紙をした洋書が現れた。ビアはおずおずとそれを手に取る。
「くれぐれも道を踏み外すな。お前はもう、立派な救国の乙女なのだから」
ローアルデの声が一層厳しくなってビアの頭にこだまする。まるで戒めのように、胸にちりちりと熱い痛みが走った。
「精々励め、大聖女に近づけるよう――――」
ローアルデが不意に瞳を閉じた。
それをきっかけに、急に世界が光を失う。あたりは真っ暗になりなにも見えなくなった。ビアの足元が突然ぐにゃりとぬかるみむ。あっと思った時にはもう遅く、自分の意識もぐにゃぐにゃとぬかるみの中に浸かっていった。
ここまでお読みいただき大変ありがとうございます。評価やリアクション、コメントなど大変励みになっております。




