73.夜風-1
その日の夜は、フェリクスが事前に宿を手配してくれていた。泉がある山の麓に建てられた、こぢんまりとした洋館だった。要人の遠方への出張などの時のために、こういった宿泊所を城でいくつか保有しているらしい。
夕刻に到着した時には、フェリクスは乗物酔いがひどく、早々に自分の部屋に籠ってしまった。あまりにも辛そうだったので何度か部屋に様子を見に行ったものの、みっともない姿を見せたくない、と頑なに突っぱねられてしまった。
「どうか僕のことはお気になさらず。ビア様はみんなと夕食を摂ってくつろいでください」
ドア越しにそう言われてしまっては仕方がない。ビアは引け目を感じつつもリビングルームに戻る。
この館は管理人こそいるものの、あくまで宿泊所ということで食事の提供はなかった。夕食は騎士二人組が付近の街で調達し、ビアはありがたくそれをいただく。食後、少し歓談の時間があったものの、皆、そこそこ疲れが出てきていたこと、また明日は朝から山道を登ることもあり、早めに解散となった。
ビアは軽く湯浴みを済ませると、割り当てられた二階の部屋でのんびりとくつろいでいた。城の自室以外の場所で夜を過ごすのはいつぶりだろうか。ベッドに腰をかけ、ぐるりと辺りを見回す。見慣れない部屋は眺めも匂いも新鮮で少し落ち着かない。明日も朝早いというのにこう目が冴えてしまってはどうしたものかと考えていたら、ふと、窓の向こうのベランダに目がついた。少し夜風にあたろうかしら。そう考え、ショールを手に取りガラス戸を開ける。
外へ出て一番に、冷たい風が頬を撫でた。昼間の街道はなかなか暑かったようだが、山麓の夜は少し肌寒いくらいだ。ビアはショールを羽織り直すと、ベランダの手すりにそっともたれかかった。両肘をついて外を眺めれば、一面の高原が眼下に広がる。夜に染まった芝生が、夜風に吹かれて一斉に頭を靡かせた。
風と、それに揺られる草木の音。ホウホウと響くミミズクの鳴き声――――人里を離れた自然の世界。その空気に一抹の心細さと、妙なやすらぎを覚える。
ひとり静かに非日常を噛み締めていた時、ふと、下からじゃりじゃりと土を踏む足音が聞こえてきた。見下ろせば、男が一人、紙袋を携えて外へ出てきている。
この洋館はせり出した小丘の上に建っており、ちょうどビアのいるベランダ側はそのせり出し側に面している。崖というほどでもないが高さはそれなりにあるので、丘の先には転落防止用の柵が打ち並べられていた。それをちょうど良いと考えたのだろう。男は丸太の柵にどっかりと背中を預けると、くつろぐように天を仰いだ。おもむろに紙袋を開くと、鼻歌混じりにガラス瓶を取り出す。
その姿を見てビアはベランダからさっと身を引くと、足早に自室を抜けて一階へと降りていった。
「明日は重要な任務だというのに、随分余裕ですね」
満天というほどではないが、いくばくかの星を背景にして瓶ビールを嗜む男に、ちくりと意地悪を言ってみる。真っ赤な瞳をかっぴらいて固まるテオドアを見て、ビアの口からクスリと笑いが溢れた。久方ぶりのハムスター硬直だ。
「その凍りつくのって癖なんですか?」
そう尋ねてみれば、今度は目をぐるぐる泳がせる。なかなか返事は返ってこず、いかにも途方に暮れた顔をされてしまって少し傷ついた。オルトロス討伐以来、ろくに会話がなかったから仕方ないのかもしれないが……
「これは大変失礼しました、オクトーバー様。どうかこのことはご内密にしていただけませんでしょうか」
ビアの予想に反して、テオドアはまだ慇懃な態度を崩さないつもりらしい。せっかくふたりで話せるチャンスだというのに、あっちは少し酒も入っているのに……以前みたいな自然体で接してくれないことに、いささか鼻白んでしまう。
「……そのオクトーバー様っていうの、やめてください。前みたいにビアがいいです」
「……わたくしのような下賤の者が、救国の乙女にそのような口の聞き方をするのは赦されておりません。……以前は知らなかったとはいえ、無礼な態度を重ねたこと、どうかお許しいただき」
「やめてください」
頑なに譲らないテオドアに苛立ち、少し声が荒くなる。でも嫌だ。他の人間がどうであろうと、テオドアにだけは一線を引かれたくなかった。
「……わたくしのような者とは距離を置く方が貴女の為です。半端者と関われば、貴女の威光に傷がつく。痛くもない腹を探られたり、陥れられたりするかもしれませんよ?」
ビアの制止をものともせず、ビアを拒むかのように、テオドアの口調は冷ややかだ。突き放したような物言いに心がすくむ。背筋に嫌な汗が伝った。
「やめてください!!」
自分を奮い立たせるように語気を強めた。いよいよ目頭が熱くなってきた。喉がジンジンする。
「……なんで……っ、そんなこと言うんですか……」
もう顔を上げていられなかった。
しばし沈黙が流れる。重苦しい空気が二人を包む。追い打ちをかけるように、雲がなけなしの月明かりを覆い隠した。
(――ああ、もうだめなのかもしれない)
フェリクスを傷つけてまで彼を呼ぶ選択をしたというのに。やっと本音で話せるまたとないチャンスだと思ったのに。
テオドアはあの日、正体を明かした時と変わらない。
外へ出る引き戸を開け、テオドアの姿を捉えた時の胸の期待は、今やしおしおとしぼんでくたびれてしまった。心が折れ、どろりとした諦念に脳が支配されてはじめた時
わざとらしいほど大きいため息が聞こえた。
「……もー、俺がすっごい酷い男みたいじゃん」
テオドアは急にガシガシと乱雑に頭を掻くと、ふたつめのため息と共に、愚痴のような言葉を漏らす。そのトーンは、先ほどとは打って変わった、ビアのよく知るものだった。
「俺だってこんな畏まった話し方したくないっつーの。でもお上はビアが思ってる以上に面倒臭いんからね。……ついでにフェリクスも」
観念したようにかつての調子で喋り出すテオドアに、ビアの伏せかけていた瞼が開く。
「……ビア、怒ってる?」
今更、困ったように顔を覗きこんでくる。眉を八の字にさせながら首を傾げる様子は、なんだか子犬を彷彿させて、無性に悔しくて腹が立った。いったい誰のせいで俯いていると思っているのか。
「ノ゛イマンふぐだいちょうがひどいこと言うからぁぁ」
鼻声で嫌味を言ってやれば、あわあわと腕を揺らせて「え!?俺のせい!?」などとのたまっている。また脳内で、今度は子犬がおろおろする姿が後ろに浮かぶ。ああもう本当にずるい。許さざるをえないことが許せない。
取り繕うように取り出された二本目の瓶ビールを受け取ると、ビアはぐいっと煽った。
「………美味しい。」
それでおおかた機嫌が治ってしまったのだから我ながら単純である。ビアの豪快な飲みっぷりを見てテオドアがくつくつと笑った。
「思いのほか一気に飲んだな」
「……これで私もノイマン副隊長と同罪になってしまいました」
「あははっ!ほんとだな!…………ああ、そうだ」
「?」
「テオドアでいいよ。俺だけノイマン副隊長ってのはさすがに気が引ける」
「そうですか?私はこれが呼び慣れてるのですが……」
「んーまあでもしつこいかもだけど、やっぱり立場ってもんもあるしな」
そう言われても、年上の男をいきなり呼び捨てにするなんて今度はこちらが気が引けるものである。
「…………じゃあ、テオでもいいですか?」
少し悩んで、フェリクスの呼び方に倣うことにした。呼びやすいし、なんだかわんちゃんみたいでしっくりくると思ったのは内緒だ。
「おう、ビア」
テオドアは気前よく返事をすると、いつもの快活な笑顔を浮かべた。久々に見たその表情に、ビアの身体の芯が温かくなる。
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