70.教会
天に向かってそびえる教会は、その高さを活かしてふんだんに嵌め込まれたステンドグラスから光を採りいれ、街の中央に座しながら俗世から隔絶されたような神秘的な場所だった。
天井まで十二分に保たれた空間のおかげで、小さな足音すら館内いっぱいに響く。閉館時間が近いからか人はおらず、今はフェリクスとビアの二人きりだ。だから余計に響きわたる足音が大きく聞こえた。
「この時間だとずいぶん静かだ。いつもはもうちょっと賑わっているんですけどね」
「そうなんですね。でも、これはこれで落ち着いて見学できます。……教会ってあまり馴染みがなくて、ゆっくり見てみたいなって思ってたので」
「それはよかった。僕もこの時間に来たのは初めてだから少し新鮮です。夕方のステンドグラスは、朝とはまた違う魅力がある」
フェリクスの言う通り、西陽に照らされるステンドグラスは眩しく煌めいてとても美しい。その色と柄は磨き上げられた床や聖像、ずらりと並ぶチャペルチェアにゆらゆらと映し出され、仄暗い館内にまるで水彩絵の具を載せたような淡い彩りを添えていた。その光はビアやフェリクスのことも例外なく染め上げる。青や赤の光が投影されたフェリクスの横顔は、まるで絵画のようだ。
「……ビア様?」
「……っ!?あ、す、すみません。ええと、あそこにある像が神様なのでしょうか?」
不意に名前を呼ばれはっとする。いけないいけない、あまりの美しさについつい見惚れていた。ビアは誤魔化すように思いついたことをフェリクスに質問してみた。祭壇の中央に飾られた、少女を模した像についてであった。
「ああ、あれは聖女エルゼリリス像です」
「……あれが」
聖女エルゼリリス、その単語にビアは一気に目が覚めた。稀代の聖女。歴代随一の救国の乙女。そしてビアと同じ、召喚された異世界転移者――――
(そう、私と同じ。)
一歩、また一歩と像へと歩み寄る。祭壇を登り、像の目の前に立つと、ビアはそこに佇む銅の少女の顔をじっと見つめた。
ビアよりも少し幼い少女に見えた。地につかんばかりの長い髪が印象的だ。やや下ぶくれ気味の愛らしい頬、ぽってりした唇。まぶたの先には長いまつ毛がびっしりと並び、その全てが彼女のあどけなさを引き立たせていた。ビアの頭に純真無垢と言う単語が思い浮かぶ。両手を合わせ静々と祈る彼女の姿は、まさに聖女と呼ばれるに相応しかった。
(私と同じ、ね……)
神々しい佇まいを見ると、とてもそうは思えなかった。ビアは内心少しだけ怯む。はたしてこの神聖なる巫女はこの教会で、いったい何を祈ったのだろうか。伏せられた瞼の裏で、いったい何を思い描いていたのか。
(この世界の平和とか、なのかしら……)
その時、なぜかふとテオドアのことが頭をよぎった。
もしこの世界が平和だったら。瘴気が無くなり、人々が魔物の被害に脅かされることがなくなれば、テオドアはこの国で幸せに生きることができたのだろうか。己の出自を忍ぶことなく、己に流れる血に苦しむことなく、何に臆することもなく堂々と暮らすことができたのだろうか。
(もし、そうだったら……あるいは)
もし自分に、それを実現しうる力があるのなら――
正直、世界の平和と言われてもあまりに話が壮大すぎてビアにはいまいちピンとこない。でも、それがテオドアの幸せにつながるのであれば、心の底から願ってやまない。
ああ、どうか。ほんの少しでいい。私にもその力を――
ビアが無意識に聖女像の頬に触れた時だった。
まばゆい金色の光が聖女像から溢れ出した。足元には緑の魔法陣が光り、そこから吹きあがる春風を思わせる優しいそよめきがビアを包む。いつかレモネードを作った時と同じことがまた起こっている。
「ビア様!?」
突然の出来事にフェリクスが慌てて駆け寄ろうとする。しかし穏やかなはずの風は、なぜか彼の指先が触れた途端、その手を拒むかのように外へ弾いた。まるで外界からビアと聖女像だけを切り離すかのように。
「フェリクス様!?……っ!!??」
その様子に戸惑ったのも一瞬。次の瞬間、ビアは激しい頭痛と眩暈に襲われた。とても周囲など気にしている余裕はない。思わず目を閉じると、突然、見慣れぬ景色が脳裏に浮かび上がる。
森の中にポツンとある、静謐な泉だった。さわさわと揺れる草木のそよめきと鈴の音のような小鳥達の囀り、湧き水の小さなせせらぎの音――心地よい空気に身体がふっと軽くなるのが分かった。
中央は小島になっており、そこに特徴的な大樹が一本そびえていた。その木は枝葉を傘のように四方に下ろしており、それはまるで泉を護っているかのようだ。
不意に、泉のほとりに人影が見えた。白馬を連れた少女だ。馬の神々しいほどの純白さが目を引いた。なぜか額には細く尖った角が生えている。
少女はしばしの間、その場で戯れていた。野芝の上に座って泉の水を救ってみたり、白馬の美しい角や立て髪を撫でてみたり。しかし、おもむろに腰を上げたかと思うと、突如、泉の方へと一歩足を踏み出した。
(危ない!!)
このままでは泉に落ちてしまう。ビアが咄嗟に手を伸ばした時、しかしその予想は鮮やかに裏切られた。
少女の身体は、泉の水面の上にふわりと浮いていた。
長い髪をゆらめかせ、ふわりふわりと、まるで妖精か何かのように水面に佇む少女。彼女は別段それを不思議にも思わないらしく、そのまま一歩、また一歩と前へ進む。
一緒にいた白馬もそれは同じだった。少女に一歩後ろから見守るようにぴったりとついていく。彼らは水の上を優雅に歩みながら、中央の大樹の元へ進んでいった。
少女が大樹の幹にそっと手を触れる。すると不思議なことに、大樹は少女が触れたところからぽうっとまばゆい光を放ち出す。
金色の光が、大樹全体に行き渡った時、突如少女は急ビアの方へ振り向いた。
ビアの目がまんまるく見開く。驚きで声が出なくなる。
少女の顔は、忘れるはずもない。つい先程までじっくりと見ていた聖女像のそれそのものだった。
(エルゼ、リリス……)
その名が頭に浮かぶやいなや、また急にひどい頭痛にうなされた。視界が白む。意識が遠のいていく。
白濁の世界で最後に見た彼女は、心なしが少しだけ微笑んでいた気がした。
***
「ビア様!!!!」
強く揺さぶられる感覚で目が覚めた。
「………ここは?…あれ、私…?」
「ここは城の医務室です。ビア様、教会での出来事を覚えていらっしゃいますか?」
「え、ええっと……確かエルゼリリス像に触れた途端、急に当たりが輝き出して…その後突然頭痛が……」
「光に包まれてしばらく、僕はあなたに触れられなかった。やっと光が消えた頃には、あなたは像の前で気を失っておりました。」
なるほど、つまり自分が意識を失っている間にフェリクスが城まで運んでくれたということか。
……ビア様、お身体は大丈夫ですか?」
「え、ええ。特には……」
そう答えてから、ふとあの時見た光景が頭をよぎる。
「……夢、を見ていました。白昼夢とでもいうのでしょうか。大きな木のある泉のほとりで、像で見た少女…エルゼリリス様と、角の生えた白い馬が立っている夢です」
それを聞くやいなや、フェリクスが息を呑むのが分かった。
「……信じられない……聖女エルゼリリスと我が国の守り神の一角獣を……?」
ユニコーンと言われて初めて、あの白馬がただの馬ではなく伝説の生き物であったことに気づく。そして、ローアルデの象徴だということも。
「たっ、ただ見ただけですよ!!せいぜいエルゼリリス様と目があった気がしたくらいで、会話なんてしていないし。私の能力について何かわかったことがあるわけでもないし………あ、でも」
あの泉。あれは実在するものなのだろうか?大樹が真ん中にある泉なんてそうそうないだろう。しかし、ビアの常識はこの世界では通用しないし、ビアはこの世界、この国のことについてほとんど知らない。よってありえないと決めつけはできない。
「あの、大樹が中心に生えている泉……って、心当たりはありますか?」
もしそれが実在するのなら、そこに行けば何か分かるかもしれない。
何の根拠もないただの予感だ。しかしビアは己の直感に妙な確信を覚えていた。
ここまでお読みいただき大変ありがとうございます。評価やリアクション、コメントなど大変励みになっております。




