44.夜明けの森-2
(――計算外だったのは、二つ)
ひとつは、オルトロスにはまだ吐息を吐く体力が残っていたこと。
そしてもうひとつは、やつは己が半身を燃やしてでも、テオドアを討ち取る覚悟があったこと。
頭をかち割る直前、左頭は突如上を見上げ、吐氷を撃ち飛ばしてきた。盲目ゆえ狙いが定まらず直撃こそしなかったものの、それは伸びたテオドアの左脚に当たった。掠めた程度とはいえ被射距離がゼロに近かったせいか、そのダメージは絶大だ。突き刺すような痛みが大腿を走り抜く。耐え難い激痛から胃液が喉の奥に込み上げた。
「うぐぅ……っ!!」
口の端から唾液が溢れたものの、なんとか吐き気を抑え込む。鼻の先から頭に剣を叩き込めば、刃はめり込み、バキバキと骨や歯の折れる音が身体中に振動した。目の前からオルトロスの唾液が吹き出してくる。
身体が割れた左頭の上に着地する。全身を駆使して受け身を取ったものの、左脚だけは言うことを聞かなかった。ぐきりと変な音がしたが、感覚はない。視界の端にあらぬ方向に曲がったそれを見つけ、初めて骨折したのだと分かった。
それでもまだ、この程度の被害なら想定内だった。
右隣から異様な熱気を感じる。振り向けば目の前には、口の中に燃えたぎる炎を宿す巨大な犬の頭――
油断していた。まさかやつが、自分の頭もろとも潰す覚悟で攻撃を仕掛るとは考えなかった。今しがた潰れてしまったことで、もう使い物にならないと判断したのだろうか。テオドアの脳内で思考がぐるぐると回転する。しかし今更何をどう考えてももはや手遅れだ。
動かぬ左脚が枷となり、身動きを取れぬまま地獄の業火をその身に浴びた。オルトロスの左頭もろとも爆風に吹き飛ばされる。嵐のように暴力的なその風は、テオドアの身体をいとも簡単に崖の下へと突き落とした。
身体が空中に放り投げられる感覚。ついで襲いくる、絶望級の落下感。何に縋ることも、抗うこともできないまま、真っ逆さまに墜ちていく。
幸いだったのは、崖の下にはめいっぱいの広葉樹林が広がっていたことだった。テオドアが想像していたよりも早いタイミングで、その身体はなにかと接触する。バネのような着地感を何度か感じ、そのたびにあたりで枝葉の折れる音が響く。木々がクッションの役割を果たしてくれたらしい。
数回身体が跳ねた後、最後にテオドアを包み込んだのは、ひんやりとした感覚だった。水が流れている。どうやら落下地点は浅めの沢だったらしい。夜明けの冴え渡るような冷水は、つい先程焼かれたばかりの身体に心地よく沁み渡る。
浅い呼吸を何度も繰り返す。テオドアは後ろ半身を沢水に浸からせながら、空に広がる星空をぼんやりと眺めていた。いつのまにか空の端が紅碧に染まりつつある。もうすぐ夜が明けるのだろう。
薄明かりのなか見えた己の身体は、服はおろか皮膚すら剥がれ落ちていた。焼け爛れて赤黒くぶよぶよした物体が眼下に転がっている。これが己の身体とはいまいち信じられなかった。きっと顔も同じくらい酷いのだろう。ヒリヒリ熱を帯びる頬を、でこを通して想像してみる。きっと今の自分は、かろうじて人型を保っているものの、皆が知っているテオドア=ノイマンとは全く異なるのだろう。
熱くて、痛くて、苦しかった
とにかく喉が渇いていた
力を振り絞り首を横に捻る。口を開きあたりを流れる淡水を目一杯飲み込む。激しく咳き込みながらも喉を通過した水は、濃い鉄の味がした。
水流でぼやけた視界の中で、見覚えのある銀箱が目に留まる。落下した際にポーチから落ちたのだろう。小岩に引っかかったそれは、手を伸ばせばかろうじて届きそうな場所にあった。テオドアは唯一自由のきく右腕を、ぷるぷる震わせながらゆっくりと持ち上げる。あと少し、あと少し。何度も空振りしながら、やっとの思いで箱を掴んだ。ずるずると引きずってこちらに寄せれば、外れかけていた蓋が清流とともに流れていった。
クッキーはもう無理だった。固形物は身体がとても受け付けない。テオドアはレモネードの入ったガラス瓶をケースから引き抜くと、煤けた親指でコルク蓋を外す。小瓶を空にかざせば、中の液体はキラキラと輝いて見えた。透き通ったレモンイエローと、そこにひらひら沈澱するわずかな果肉。
(最後の晩餐には最高のご馳走だな)
血肉の露わになった頬が、少しだけ緩んだ。
――グローリ・トゥ・ローアルデ 我が主ローアルデに栄光を 聖女エルゼリリスに祝福を
獣のようなしゃがれ声で、途中何度も詰まらせながらも、国歌の一節を唱えた。ローアルデでは祝い事や己を鼓舞する際の決まり文句だ。
それはときに、鎮魂にも。
果たして自分はどれほどローアルデの役に立てただろうか。故郷に厄災は降り注いでないだろうか。あの後オルトロスがどうなったか分からないが、この身を賭して護りたい国が、人がそこにある。だからどうか――
最期の一杯を思い切り喉に流し込んだ。ゲホゲホと咽せ、血が、肉が灰が入り混じる。鉄臭い。苦い。元の味などわかったものではない。それでもごくりと飲み下した。
脳裏に女の顔が浮かぶ。はしばみのゆるく波打った髪がふわりと揺れる。若草色の瞳が柔らかに細められる。彼女と過ごした穏やかな日々が、走馬灯のように頭の中を駆け巡る。
初めての出会いは格好がつかなかった。次に会ったときはみっともなかった。あれから厨房に行くときは彼女に会えるのを密かに楽しみにしていた。騎士団領で会うときはほんの少し怪訝に思っていた。第二部隊の馬鹿共に襲われているのを見たときは、自分でも驚くくらい怒りと憎しみが沸いて抑えられなかった。彼女の怯えた瞳がこちらを見据えたとき、全身が凍りつくような絶望に襲われた。彼女の手が、指が自分のそれと重なったとき、暴力的な胸の高鳴りが止まらなかった。それから寝ても覚めても彼女のことが頭から離れなくなった。怖くなって犬に変換してみた。魔犬討伐が決まったとき、彼女にだけは知られたくなかった。でも彼女には自分のことを忘れないでいて欲しかった。だから規則を破って贈り物をした。出発の時、彼女に会いたくなかった。後ろ髪を引かれるのが怖かった。全部捨てて、彼女だけ攫って逃げ出してしまいそうで、ただただ怖かった。
(ああ、ビア。約束果たせなくてごめんな)
あれだけ熱くて苦しかったはずなのに、なぜか今は寒気を感じていた。明るくなるはずの紅掛空が、なぜか真っ黒に染まってゆく。瞳の輝きは失われ、暗くどろりと濁る。テオドアはしがみついていたなけなしの生存本能すらついに手放し、ゆっくりと瞼を閉じた。
一つの悲劇が幕を閉じた
――――はずだった。
(…………?)
一瞬失われた意識が、そっと呼び起こされる。全身を優しく抱きしめられているかのような安らぎと温かさを感じる。まるでゆりかごの中にでもいるようだ。身体はボロボロで苦しいはずなのに、呼吸もままならぬほど辛いはずなのに、なぜかとても心地が良い。このままこのぬくもりに、すべて委ねて眠りにつきたい。きっとこの上なく幸せな眠りなることだろう。……しかし、この感覚はいったいなんなのだろう。
落ちた瞼をほんの少しだけ持ち上げる。視えなくなったはずの目に映った光景を見て、テオドアは一瞬だけその目を見開いた。
最初に見えたのは、黄緑の光だった。ややもしてそれが緑と金の光の粉が混ざり合っているのだとわかった。光はテオドアの周りを取り囲むように舞っている。否、テオドアの身体から光が溢れ出ているのであった。
(なん、だ……これ……)
頭に浮かんだ疑問について深く考えるより前に、ふたたび瞼が落ちていった。
――ふと、ほのかなレモンの香りが鼻腔を掠めた。




