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34.祈り

 月が一番高く上る頃。排気ガスも高層ビルもないこの世界では、街灯がなくとも月明かりだけで十分辺りを見渡せた。今宵は白銀の満月。窓の外では青白い光に照らされた針葉樹達が、どこからともなく吹いた夜風に頭を揺らしている。

 レーナに頼み込んで借りた厨房は、この時間じゃひとっこひとりいない。たまに見回りの衛兵がやってくるくらいで、ひどく静かだ。

 ビアは丸めて平べったくしたクッキーの生地をオーブンに入れると、そのまま窓辺に腰を下ろした。ここからは月がよく見える。

 青白い満月はその光を惜しみなく地上に降り注ぎ、ガラス越しにビアの頬を右から左へと撫でていく。双眸に浮かぶ完璧な望月は、まるでこちらを憐れむように悲しげで、それでいて嘲笑うようにどこか冷ややかだ。

 ふとポケットからあるものを取り出す。テオドアから受け取ったブローチが、ころりと掌に転がった。繊細な金細工を、慈しむように指先でそっとなぞる。月明かりのもとへかざしてみれば、冷たい月光を反射し、きらりと光った。


 役人の話を聞いてから、ビアは気が気ではなかった。テオドアに真偽を確かめたくともその手段がない。騎士団領に忍び込むことも一瞬よぎったが、先日の一件を思い出すとやはり気が引ける。それに仮に忍び込んだとして、テオドアにうまく遭遇する確率はけして高くない。

 手詰まりに頭を悩ませていた矢先、タイミングよくジミルと遭遇したのだ。午後は厨当番だったのが幸いした。


 はぐらかそうとするジミルを逃すつもりはなかった。だってもうビアには縋れるものがない。様子からしてジミルは絶対事情を知っているし、だから苦い顔をしてなんとかビアを撒こうとしていた。

 ビアのその意思は言葉少なにも伝わったらしい。彼は途中から誤魔化すのをやめると、真剣な眼差しでこちらを見据えた。まるで後悔しても知らないぞ、とでも言いたげに、その目は気迫に満ちていた。


 

 彼は、ビアが昼間に役人達から盗み聞いた話――テオドアがヘルハウンドという大型の魔物の討伐を命じられていること、討伐には一人で行くこと、それはつまり、生きて還る可能性がほぼゼロだということ――全てが本当であると教えてくれた。


「おそらく出発は明日の早朝です。剣の手入れをするのは大抵出発の前日。きっとあの人のことだから、夜明けと共に出るでしょう。意外と朝に強いんですよね、あの人。しめっぽいのは嫌いだから、隠れるようにここを発ちますよ。出発は北西門でしょう。………俺から言えることはこれだけです。」


 彼はそう言い終えると、もう言い残したことはないとばかりに静かに口を閉じた。そして愕然とするビアを尻目に足速にその場を去っていった。


 淡々とした口調で、それでもわざわざ出発の予想時間を教えてくれたジミル。それはきっと「あとどうするかは任せる」ということなのだろう。


 無力な自分が、それでもなにかテオドアにできること。それは――


(いつも通りお菓子を焼いて、見送りにいくことくらいよね。)


 我ながらできることの小ささに笑ってしまう。

 だが何も知らず、何もできずにいるよりも、よっぽど救いがあったと思う。



 クッキーが焼きあがるのを待ちながら、ふと、今朝方レモンが大量に届いたのを思い出した。


(手持ち無沙汰だし、せっかくだからレモネードでも作ってみようかしら。)


 やることがないと暗い気持ちになってしまう。なんでもいいから手を動かしたい気持ちだった。

 幸い携帯瓶や保冷ケースが余っているのも知っている。しっかり冷やせば数日は持つから、長旅でも傷まないはずだ。ビアは食糧庫に向かうと、必要な材料を取り出してきた。


 レモン、蜂蜜、きび砂糖を調理台に並べる。まな板と果物ナイフを取り出すと、その上でレモンの皮を剥き始めた。

 苦味のある白い部分を丁寧に削ぎ落とすと、果肉を薄い輪切りにスライスする。今朝方届いたばかりのそれはとても新鮮で、瑞々しい黄色が目に眩しい。ひまわりのように明るい果肉は、ビアの湿った心をほんの少しだけ上向かせた。

 いつもなら他の材料と合わせ三層にして浸け置きシロップにするのだが、あいにく今回は時間がない。手早く味を出す為に、今回は鍋で煮詰めることにした。一晩冷やしたら明日朝一…というよりは明け方一番という方が正しいだろうか。取り出して冷水でうすめよう。

 小鍋を取り出し弱火にかけると、レモン、きび砂糖、蜂蜜の順に投下する。ぐつぐつ揺れるレモンの上で、きび砂糖が少しずつ溶けていく。あくまでも弱火のまま、時折そっとかき混ぜながらゆっくりじっくり煮詰めていけば、鮮やかなレモンイエローは、杏子色、蜜柑色の順に見事なグラデーションを奏でていった。あとはこれが琥珀色になるまで待つだけだ。



 明日旅立つ一人の男の為に

 国の為に戦う勇ましき騎士の為に

 過酷な(みち)をゆく孤独な旅人の為に

 還らぬかもしれないあなたの為に



 ふと思う。なぜ自分はこの世界に救国の乙女として召喚されながら、何もできないのか。何かしら絶大な力を望まれ期待されて呼ばれながら、どうしてそれを持ち合わせていないのかと。


(私がちゃんとした救国の乙女で、聖女だったら)

 

そう、聖女だったらどうだっただろう。


(私がもし聖女だったら、どうするかしら。)




もし聖女だったら、祈りを捧げるところなのだろうか。




 ぐつぐつ煮たつ鍋を覗きこむ。どろどろに溶けたシロップの中に、自分の顔が歪に映り込んでいた。

 そう、まさに今の自分は歪な存在。

 何かできるはずでありながら、何もわからず、何もできない、矮小な存在。

 それでも、何もしないでいるよりも、何でもいいから抵抗したいと思った。



かき混ぜるおたまから右手を離すと、胸の前でそっと両手を組む。祈るような仕草をしたビアは、そのままゆっくり瞳を閉じた。


「『慈愛のゆりかごよ 女神の子守唄(ベルスーズ)を奏で 我が隣人を救いたまへ 治癒(ヒール)』」


 唇から治癒魔法の呪文がこぼれる。適正審査の時に教えてもらった呪文をまだ覚えていた。

 我ながら、一体何をしているのだろう。ただの聖女の真似事。たんなる願掛けにすぎない。唱えた側から恥ずかしくて居た堪れなくなってきた。でもどうしてか、そうせずにはいられなかったのだ。


(ただの気休め、自己満足……)


 頭も冷え、自嘲が込み上げてきた矢先だった。


 急に胸の辺りがとても温かくなるのを感じた。驚いて目を上げれば、目の前の小鍋を柔らかな黄緑色の光が包み込んでいる。


(…………え?)


 正確には、繊細な文字が連なった緑の魔法陣と、微粒な金粉が小鍋の周りをゆっくりと渦巻いていた。とりわけ金粉の光は強く、仄めく輝きからは春の芽吹きのような柔らかな空気が流れ、近くにいたビアの体をやんわりと温めていく。

 静まり返った冷たい月明かりの中で、そこだけはまるで太陽に祝福されたかのように黄金に光り輝いていた。


 一体何事かと、びっくりしたビアがしきりに目をしばたく。

 瞼をこすり、もう一度目を開いた時。しかし眼下にあるのは何の変哲もない小鍋だけで、先ほど見た光景はまるで幻だったかのようにいつも通りだった。



「………なに、今の…………?」


 ぽろりと出てきた疑問に、答える者はもちろんいない。

 その代わりとばかりに、オーブンから焼き上がりのベルが小さく鳴った。

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