30.街-1
慣れない眼鏡が鼻からずり落ちつつあるのに気づくと、テオドアは慌ててブリッジを押し上げた。近くの家の窓を覗き込めば、ガラスには平凡な焦茶の眼が映りこむ。後輩いわく「似合わない」この代物は、それでも彼が白昼堂々街を歩くにはなくてはならない存在であった。月給の四分の一をはたいた甲斐はあったと思う。
カモフラージュを装備しているとはいえ、大通りを闊歩するには躊躇いがある。テオドアは表通りには見向きもせず、慣れた足取りで裏通りへ進んでいった。
五日間与えられた猶予にあわせ、その間の労働も免除となった。本来ならいの一番に家族に顔でも見せに行くものなのだろうが、あいにく両親は自分が幼い頃に亡くなっている。魔物の襲撃で壊滅した故郷には、当然友人などもいない。そもそももう地図にすら載ってない街だ。別れを惜しむ相手が少ないことに、一抹の寂しさのような、それでいて少しほっとしたような、なんとも言い難い気持ちがテオドアの心の中でぷすぷすと燻る。
とはいえ感傷に浸っているような暇はない。テオドアは視線を上げると目当ての店に向かって歩みを早めた。
***
(……ここで最後っと。これで要るもんはおおかた揃ったかな。)
鞄の中へ雑につめ込まれた品々を眺める。武具の手入れ用品に、回復薬と携帯食料、応急処置用の医薬品……まあ、ざっとこんなもんだろう。
あるに越したことはないものは沢山あるのだが、あまり買い込んでもかえって荷物になるだけだろう。そう思って本当に必要なものだけ厳選すれば、買い物は案外早く済んでしまった。時刻はまだ昼過ぎ。ちょうど腹も減ってきたことだし、ここらで腹ごしらえと行こうか。
テオドアが大通りの方をちらりと振り返る。いくつかの店はこちらに面していた為少しだけ歩いてみたが、幸い誰もこの目を気にする様子はない。眼鏡をかけた甲斐はあったということか。
折角だから散策してみるかと、彼にしては珍しい決断をすると、テオドアはより人が集まるに中心街に向かって歩いていった。
革靴の踵がコツコツと石畳を鳴らす。鼻歌混じりに通りを巡り、どこか気になる食事処でもないかと辺りを眺めている時だった。
視界の片隅できらりと光るものが目に留まった。テオドアはその場に立ち止まると、窓ガラス越しに見えるそれをまじまじと眺める。
可愛らしい金色のブローチだった。小ぶりで、テオドアの掌であればすっぽりと収まってしまうだろう。派手すぎない鈍い光沢が上品さを醸し出している。また所々に散りばめられたパールも良いアクセントになっていた。
なにより目を引いた理由は、そのブローチのモチーフがテオドアの知るハーブを思い起こさせたからだ。細い葉の連なる植物を模したそれは、ローズマリーの葉を連想させた。もっとも、テオドアが知っている植物はレーナに教わった数少ないハーブだけなので、はたしてこのブローチのモチーフが自分の想像したそれと一致しているのかはわからないが。
ハーブのことを、厨房のことを、……ここ数ヶ月の日々を思い出して、テオドアの胸がちくりと痛んだ。
(……あんま思い出さないようにしてたのにな。)
身元の怪しげなあのメイドの、無邪気な笑顔を思い浮かべて、無意識のうちに苦笑が浮かぶ。
しばしの間逡巡した挙句、一つ大きなため息をつく。テオドアは粗雑な手つきで己の頭をくしゃくしゃにすると、ショーウィンドウ脇にある建て付けの悪い扉を静かに押し開けた。
からんからん、というドアベルの鈍い音が、こぢんまりとした店内に響いた。ざっと辺りを見回してみる。……アクセサリーやティーカップ、陶器の置物など、陳列棚にはさまざまなものが並んでいる。……女性向けの雑貨屋なのだろうか。それにしては随分古ぼけた店である。
客は一人もいない。ついでに店員も見当たらないので、今この場にいるのはテオドア一人だけだ。そのことに少しホッとしながら店の中を進む。がらんとした店内には壁時計の刻む音が妙に大きく響く。それに合わせて歩みを進めてしまうのは、戦場で少しでも気配を消そうとする軍人のサガだろうか。
(いやここ戦場でもなんでもねーけど。)
脳内で一人ツッコミを入れた矢先だった。
目の前に沢山のブローチが飾られた棚が現れた。
(案外沢山あるんだな。)
そこには先ほど店先で見かけたものの他に、さまざまなデザインのブローチが飾られていた。どれも金を基調としており、その上で申し訳程度のパールやストーンがあしらわれている。
鈍い金色をしたそれらは、少し値は張るが手が届かないほどの値段ではなかった。おそらく純金ではないのだろう。メッキか何かだろうか。だとすると少々高額な気もするが……。普段こういったものに縁がないテオドアには相場がわからない。
棚の端からひとつひとつのブローチをじっくりと眺めてみる。植物、動物、幾何学模様、虫……さまざまなモチーフを模したそれらは、どれも皆独特の味わいが感じられた。
ふと、テオドアの目をいっとう惹く品があった。リースの真ん中に小鳥が留まっているブローチだ。
(鳥、ねえ……)
頭の中に再びはしばみの女の顔がよぎる。城から出ることを禁じられた彼女。鳥籠の中で外の世界に焦がれる彼女――
(いつか遠くに羽ばたけるといいな。)
ガラス越しにブローチをなぞってみる。人知れず小さく笑みがこぼれた。




