女神
「それにしてもお前の婚約者は驚くべき手土産を持ってきてくれたものだな」
ザカリアス国王である父が笑いながら息子のクリスティアンに声をかけた。
「ええ、私も彼女の口からラシャール王国の名前を聞いた時には耳を疑いました」
あれからザカリアス王国とラシャール王国は正式に国交樹立及び友好条約締結へ向けて話し合いに入り、あとは日程を決めるのみとなっていた。
もちろん間で二国を繋ぐのはリリアナだ。
両国が友好条約締結に前のめりになったことには理由があった。
ザカリアス王国の北側に位置するインバルド王国。この国が現在ザカリアス王室が最も頭を痛めている問題だった。
去年、長きにわたり国を統治していた国王が崩御し、即位した第一王太子。この男がくせ者だった。
王太子時代から他国に知れ渡るほどの悪評のある男で、近隣諸国は出来るなら人格者と言われている弟の第二王子に即位してほしいと思っていた。
しかしもちろん即位したのは第一王太子。そして彼が即位してからというもの予想通りインバルド王国は国として大変不安定な状況に陥っていた。
インバルド王国と国境を接するザカリアス王国ワードル州は珍しい鉱物の原産地であり、その鉱物はザカリアスの大きな収入源の1つだった。
当然、インバルド王国が狙ってくることは想定できた。そのため現国王になってからは国境の警備を厳重にし、軍の配備も根本的に見直していた。
そしてここ数ヶ月、やはりインバルド王国は怪しい動きを見せ始めていた。
インバルド王国を牽制する要因は多ければ多いほど良い。
そのためには同じようにインバルド王国と国境が接している国々と友好関係を築き情報を共有したい。
インバルド王国と国境を接している国でザカリアス王国が重要視するのは3つの国。
そのうちの1つがラシャール王国であり、そして同時に唯一友好関係が築けていない国でもあった。
だからリリアナの口からラシャールという言葉が出た時、クリスティアンは心臓が止まるかと思うほど驚いた。
そしてこのたびラシャール王国と交渉を始めてすぐ、彼らもまたインバルド王国に頭を痛めザカリアス王国と友好関係を結びたいと考えていたことがわかった。
ーーーリリーはまさに我が国にとって女神だ。
そしてクリスティアンにとっては思わぬ副産物もあった。
ラシャール王国関連の仕事に関してはリリーと一緒に働けるのだ。
彼女が自分の執務室で書類に目を通したり、書類を作成したり…そんな姿を見れることがどれだけ幸せか。
ーーー俺はすっかり彼女がいないとダメな人間になってしまったようだ。
「おつかれですか?」
リリーが心配そうに覗き込んできた。
彼女に恋に落ちたあの夜が蘇る。
「水をもらえるかな?飲ませて。口移しで。」
「!!!!!もぉ!」
そんな会話すら楽しくて仕方なかった。
彼女の聡明さ、慣れない仕事ながら懸命に向かい合う勤勉さ、丁寧な人柄と仕事ぶり。そして時に皆を驚かせる大胆な発想。かと思えば合間にデザートが出されると急に子どものように目を輝かせる可愛らしさ。
王宮で働く者達は今やリリアナの容姿ではなく彼女自身の魅力に惹かれていた。
それを嬉しく思いながらも、時にわざと皆の前で彼女の頬や額にキスをして「俺のリリー」アピールをしてしまう。そして「わかってますって」と皆に飽きれられるまでがセットだ。
彼女が10歳の頃から勉強の為に作っていたというラシャール語の単語帳はおそらく確実に我が国最初のラシャール語の教本になるだろう。
隙間に描かれた落書きの動物があまりに下手すぎて皆で笑ったら少しの間、口をきいてもらえなかった。
タイミング良くマルコスが新作ケーキを持ってきてくれて事なきを得た。
あれがなければどうなっていたことか…怒った顔が可愛いすぎてそのまま押し倒してしまっていただろう…。
ーーーーーー
そんな穏やかな日々の中、しかしついに、最も恐れていた知らせがザカリアス王宮にもたらされた。
「インバルド王国軍が国境に攻め入ってきました!」
冬の訪れを感じる頃のことだった。
クリスティアンは軍の総司令官として即刻国境に向かった。
リリアナには「必ず帰る。愛している」とだけ書いた文を残した。
戦況は予断を許さない状態ではあったが、ザカリアス軍の優勢は続いていた。
理由は2つ。
1つはインバルド軍の統率が取れていないのだ。
指揮系統或いは軍・兵達に問題があるのは明らかだ。
元々平和な国であったインバルドが、現国王になったとたん好戦国となった。そして総指揮を統る国王はすこぶる評判が悪い。
軍人や政府の中に彼への不満を持つ者が多くいたとしても不思議ではない。
それは戦いの場に如実に現れる。
実際、投降してくるインバルド軍兵も多かった。
そしてザカリアス軍優勢の2つ目の理由は準備だった。
北に位置し冬に強いインバルド王国は、ザカリアス王国がまず冬という季節に戦力を削がれると読んだのだろう。
しかし実際は違った。
クリスティアンの指示で冬への対策を春から既に万全に準備していたのだ。食料、装備、鍛錬。
例年より厳しくなる冬を予想し、可能な限りの対策を講じていた結果、雪が積もる中での戦いであっても兵達の気持ちが削がれることはなかった。
あの春の日、ヴェルニーチェ領で男達が畑を作る場面に立ち合わなければ戦況は違っていたかもしれない。
遠く離れた冷たい戦地でクリスティアンはリリアナを思い愛しさを募らせていた。
ザカリアス軍優勢とはいえインバルド軍の粘りもしつこく膠着状態となっていたある日、ひとつの知らせが戦地に届いた。
『ラシャール王国軍がインバルド王国との国境付近で妙な動きをしている。しかし戦いが始まっているわけではないらしい』
その意味がわかったクリスティアンは待った。
神経を集中させ、その時を待った。
知らせから2日後、その時は訪れた。
「かかれ!」
クリスティアンの怒号を合図にインバルド軍に総攻撃をかけた。
見事ザカリアス軍がインバルド軍を打ち破り、長い戦いは終わった。
国境は守られた。
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「よくやった、クリスティアン」
「ありがとうございます。陛下。最後はラシャール王国に助けられました」
「あの国もなかなか侮れんな」
「はい。味方であってこそ心強い国です」
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『ラシャール王国がインバルド王国との国境で妙な動きをしている。』
ザカリアス王国とラシャール王国の国交樹立及び友好条約締結はまだ王宮のごく一部の者以外には知らされていない。
もちろんインバルド王国も知らなかっただろう。
従って『ラシャール王国の動き』の持つ意味がわかる者はいなかった…クリスティアン以外には。
揺さぶりだ。
ラシャール王国が攻めてくるかもしれない。
そう思わせるだけで良いのだ。
それだけでインバルド王国は対策を取らざるを得なくなる。軍を動かさざるを得なくなるのだ。
結果、ザカリアス王国との国境に敷かれていた配備が乱れる。それまでとは違う動きがあるはずだ。
クリスティアンはその隙を待ち、最後の総攻撃を仕掛けたのだった。
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インバルド王国現国王が弟殿下に幽閉され、新国王に即位したと報告が入ったのは、それから数ヶ月後の話となる。
同時にインバルド王国新国王から先の戦いへの謝罪と、改めて先々代国王と結んだ友好条約再締結の申し入れを受けた。