彼女の存在
クリスティアン殿下から婚約の申し込みがあったのは舞踏会の翌日。その翌日である今日、今、リリアナの目の前に大きな花束を抱えたクリスティアン殿下その人が立っていた。
「突然の申し入れで驚かせてしまい申し訳ない」
「あの…殿下、本当に我が娘で?」
「ああ、そうだ。私がリリアナ嬢と婚約したいと思い陛下にお許しを頂いた。陛下もリリアナ嬢をいたく気に入っていたぞ」
「なんとも…有り難いことですが、未だ夢を見ているようで…」
「少しリリアナ嬢と話をしたいのだが…よろしいかな?」
2人は裏庭を出て少し歩いた丘の上にあるベンチに腰掛けた。
「すごいな…広いとは聞いていたが。しかも手入れが行き届いている」
「よく働いてくれる者たちばかりで」
「そうか。リリアナ…と呼んでもいいかな?
リリアナ、緊張してる?」
「はい。それはもう。何がなんだか…なぜ私なのかと…」
「うーん、一目惚れだな。そして君といると楽しい。あんなに笑ったことは久しぶりだ。君ともっと一緒にいたいと思ったのだ…これから先、出来たらずっと」
「………」
無言で顔を赤らめながらもじっと自分の目を見つめる彼女を今すぐ抱きしめたい。そんな気持ちを必死で抑えた。こんな感情初めてなのだよ、リリアナ。
「初めて会った時に君に恋に落ちたのだと思う。君が忘れられなかった」
「あの…」
「覚えていないんだよね。」
クリスティアンはスネるように言った
「ごめんなさい」
「ふふっ、冗談だよ。君が弟を助ける…あれは前日かな…フィデル王室の舞踏会で。君は僕に水をくれた…」
「え!殿下だったのですか?え?上着を着てらっしゃらなかったし…てっきりフィデル王国の方だと」
「うん、私も君はフィデルの貴族令嬢だと思った。そして彼は婚約者かと…だからもう二度と君には会えないと思っていた。
なのに君は現れた。そして婚約者もいない。
君を私のものにしたくなったのだ。
私の横にいてほしいと。
すぐにでなくて良い。私を知ってほしい。
どうしても私がイヤなら断る権利はあるよ。無理にとは言わない。言いたくない。」
「そんな!イヤなんて!そんなことはないです。ただ…驚いているだけです」
「では私にチャンスをくれるんだね」
「でも殿下も私のことを知ったら飽きれられるかもしれませんよ」
「どうして?」
「私には淑やかさが足らないと…」
「ふふっ、そうか、なるほど。
私はね、色んな君を知れるのが楽しみで仕方ないんだよ。」
そう言って優しく見つめてくれる彼の瞳を見ていると、リリアナは心に暖かいぬくもりが広がるように感じた。
「え?馬車が苦手?」
「はい、酔うのです」
「まさか!馬を乗りこなせる君が?馬上から矢を射れる君が?………ハハハ!なんなのだ!」
「笑い事ではないです!」
「だから王都にも舞踏会にも来ないのか?」
「遠いので…薬は飲むのですが…」
「よしっ!リリアナのために王宮医師の全知能を駆使してより良い薬を作ってやろう!」
「そんな大袈裟な!」
「いや、君に会いに来て貰うためだ、どんなことも惜しまないよ」
「……ふっ。先程から殿下は子どものようです。」
「ようやく笑ってくれたね」
クリスティアンがリリアナの頬に手を当てた。
「君の笑顔をずっと隣で見ていたいんだ。君を大切にするよ、リリアナ」
「…はい、よろしくお願いいたします、殿下」
「クリス。クリスだ。親しい者は私をそう呼ぶ」
「クリス様」
「おおお~リリアナにそう呼ばれるとたまらなく嬉しいな!」
「ふふふ…もう!」
2人は顔を見合わせて笑いあった。そしてクリスティアンがリリアナの額にキスをした。
「今日のところはこれくらいで我慢しておこう…ね?」
「…………もう!知りません!」
顔を真っ赤にしたリリアナはまたたまらなく可愛らしかった。
それから少し話をして、クリスティアンは王宮へ帰っていった。
その日から何日かに一度、リリアナがクリスティアンに会いに行ったり、時間が空くと彼がリリアナを訪ねるようになった。
クリスティアンはヴェルニーチェ邸を訪ねるのが好きだった。
見渡す限りの広い緑は空気まで美味しく感じられ、彼に安らぎをくれる。
「だから殿下、弓をひくのがあと1秒遅いんだよ」
「さっきより少し早くしたぞ」
「お前の教え方が悪いんだよ」
「うるせーな、殿下がイマイチなんだ」
「イマイチ?それはないぞ。腕はたしかだ!」
「そんなことでは一生リリアナ様には勝てないぞ」
男達が冷やかすように笑う。
いつからかクリスティアンはヴェルニーチェ邸で働く男達とも親しくなり、弓の引き方や獣の仕留め方などを教えて貰うようになった。
もちろんテオデュロともすっかり打ち解け、まるで古くからの友人のように親しくなった。
彼はとても心根の優しい気の良い男だった。
ただ油断をすると尻を触られるので、その時だけは真顔で注意しなければならなかった。
ここでは誰も彼を『殿下』として扱わなかった。一応呼び方は「殿下」だが。
そして彼もそれを心地よく思っていた。
「クリス様!」
「リリー」
そして彼はリリアナのことをリリーと呼ぶようにもなった。
「リリアナ様、手本を見せてやって下さいよ」
「手本?」
リリアナはどんな速さで動かされた的も全て射ることができた。しかもど真ん中に。
「ひやー!さすがリリアナ様」
「お前らももっと鍛錬しろ!」
年配の男が若者を小突いた。
「さすがだな、リリー」
「5歳の頃からこんな遊びばっかりしてるんです、慣れです」
「いや、さすが我が婚約者様だ。惚れ直す」
「はい、解散解散!」
彼のノロケはいつどこでも誰の前でも繰り広げられる。
周りが逃げ出すしかない…幸せな2人を見ていたいのは山々だが…。
「さあ!畑を作るぞ!仕事だ!」
男達は歩いて行った。
「畑を作る?」
「ええ。獣達用の畑です。きちんと食料が出来るようにしておけば、村へ下りて人々の畑を荒らすようなことはありません。」
「なるほど」
「今年の冬は去年より寒さが厳しそうなので、秋に向けて新たに畑を増やしておこうということになりました。」
「例年より寒さが厳しいのか?」
「ええ…あ、もちろん予想です。必ずそうなるかはわかりませんが…」
「なぜそう予想する?」
「獣達が教えてくれるからです。いつもより食料を探し始めるのが早いとか…量だとか…気が荒いとか…色々あります。
もちろん全く関係ないかもしれません。ただの思い過ごしかも。でも何か違うと感じたらその理由を考え予想し、対策を立てれるものは準備しておく。それだけです。ハズレれば笑えばいいだけです」
「………なんだか政治や戦の話をしているようだ」
「たしかにそうですね。どれも命がかかっていますものね。人の命。獣達の命。」
その日も2人は散々笑って笑って笑いあった。
そして最後は丘の上で2人して寝転がった。
「クリス様といると笑い疲れます」
「私こそこんなに自分が笑う男だとは思わなかったよ 」
すると突然クリスティアンがリリアナの身体に覆いかぶさってきた。
「クリス様?……んっ…」
2人は初めての口づけをした。
互いの気持ち確かめ合うような、愛情を交換し合うような優しく強く長い口づけだった。
ピーーーーッ!
緊急事態を知らせるベルが鳴り響いた。
2人は飛び起きると休ませていた馬に跨った。
村の子ども2人が森に迷い込んだらしい。
外出した侯爵は帰りが遅れているという。
すぐにリリアナが指揮を取り、クリスティアンも加わわって捜索が始まった。
広大な敷地は区画毎に分けられている。
2人一組になり区画の担当を割り振る。あとはそこをくまなく探す。それしかない。
割り振られた区画を探し終えたら、それぞれ時計回りに別の担当の区画へ移る。
そうやって何度も何度も何人もの目で探すしかない。
少し日が陰り気温が下がってきた…クリスティアンは時間の経過を感じずにはいられなかった。
見つかったという合図の笛はどの区画からもまだ聞こえない。
ふと見るとリリアナが隣で目を瞑っていた。
「いる!」
彼女は叫ぶといきなり馬を飛び降り駆け出した。彼は後ろを追った。
彼女は自分の背丈ほどもある草木を掻き分け進んだ。そしてその先に…泣き疲れた2人の子どもが座り込んでいた。
リリアナが2人を抱きしめ「よくがんばったね。えらいね」と声をかける。
「クリス様、笛を吹いてもらえますか?」
そう言って笛を渡してくる彼女の手は震えていた。
彼女が突然ブラウスを脱いだ。
思わず叫びそうになるほど驚いたがすぐに理由がわかり、クリスティアンもシャツを脱いだ。
そしてそれぞれ子どもらに着せてやった。
笛を聞きつけた男達が集まってきた。
遅れて捜索に参加したらしいテオデュロが「おつかれ」とでも言うようにクリスティアンの肩に手を置いた。
彼は水の入った瓶を子どもらに渡し飲ますと、次はそれをリリアナに。そして次はクリスティアンに飲んどけ、と勧めた。
そして自らのシャツを脱ぐとリリアナにそれを渡した。
男達は誰も彼女の下着姿に驚かなかった。
なので彼も何も言わなかった。
そんなことは取るに足らないことだと思えた。
この場では『生』が優先される。
ーーーーー
しかし王宮に戻って1人眠りにつこうとした時、不意に彼女の下着姿を思い出してしまった。
彼女の肩に残っていた痛々しい狼の爪跡。今やそれすらも愛おしい。
クリスティアンの中で彼女の存在はどんどん大きくなるばかりだった。