氷の微笑
『氷の微笑』
クリスティアン第一王太子の微笑みはそう呼ばれている。
微笑んではいる、むしろ見事なまでの完璧な微笑みだ…しかしなぜかその微笑みからは心が感じられない。まるで微笑みの仮面を貼り付けたかのようだ。
彼の、世界に類なしと称される美しさは時に冷たさを演出してしまう。
まるで、心を持たない美しい彫刻のように感じられてしまうのだ。
もちろん彼には彼なりの言い分はあるのだが…。
「今日は客人が多いな」
「殿下、客人というより男性が多いのです」
「なぜだ?」
「今日はヴェルニーチェ侯爵令嬢がいらっしゃるからでしょう」
「ん?」
「獣レンジャーでありながら天使のように美しいと言われる令嬢です、ここ最近人々の話題は彼女のことでもちきりです」
「なるほど。そういえば怪我は大丈夫なのだろうか」
「ええ。然しながらダンスは出来ないと事前に申し入れをされてらっしゃいます」
「そうか。私も礼を言わないとな。」
「殿下は相変わらずですね」
「なにがだ?」
「いえ、なにもございません」
金色の髪に青い瞳。背が高く広い肩幅長い手足、神に選ばれたとしか思えないような美しく色気立つ容姿。そこに加わる王位継承者としての自覚と責任は彼に20歳という年齢を感じさせない重みを与えている。彼はその存在だけで目の前に立つ者を無言で威圧する。
そんな彼にとって女性は面倒な存在でしかなかった。女性が苦手というわけではない。ただ周りに寄ってくる女性達があまりに薄っぺらく興味を持つことすらバカらしくなってしまう上に、媚びへつらうような表情。笑いかけることすら疲れる。
この顔だからなんなのだ?
王太子だからなんなのだ?
飾りたてれば私の興味を引けると?
もはやどの女性も同じように見えてしまう。
ーーー私だって心を奪われるような女性に会ってみたいさ。そんな女性がいるのなら…例えばあの夜のあの女性のように……
獣レンジャーの侯爵令嬢か…
クリスティアンの脳裏にあの夜の、闇の中で一際光を放っていたヴェルニーチェ邸の光景が蘇っていた。
ーーーーーーーーーー
「皆の者、よく集まってくれた。
今宵、まずはヴェルニーチェ侯爵令嬢の栄誉を称える場を設けたいと思う。
ヴェルニーチェ侯爵及びリリアナ嬢、入られよ!」
ザカリアス国王の声が舞踏会場に響き渡ると人々の視線はただ1か所へと注がれた。
玉座の真向かい、会場の一番下手の扉が開き今夜の主役が姿を現す。
人々はようやく会えるヴェルニーチェ侯爵令嬢を見ようと我先にと前に一歩踏み出した。
そんな人々の視線を跳ね返すように侯爵は前を向き堂々と、そしてリリアナは令嬢らしく少し俯き加減で玉座へ真っ直ぐ歩いた。
入口付近にいた人々の「おおー」という驚きの声は次々と伝染し、いつしかホール内は興奮に包まれた。
リリアナの美しさは人々の予想を遥かに越えていた。
玉座から奥の扉へ目を向けていたクリスティアンだが、ホールの途中あたりにいる青年に気づいた。
ーーどこかで見た覚えがある…最近だな…しかし名前が思い出せない。そして会った場所もどうしても思い出せない。そんなことを考えていると、気づけばヴェルニーチェ父娘が玉座の前で跪き頭を垂れていた。
「顔をあげよ」
陛下に言葉をかけられ2人が顔を上げた。
「!!!!!」
クリスティアンは危うく声をあげそうになった。
ーー彼女だ!彼女が?!……なぜだ!まさか!
「リリアナ、このたびは我が息子を助けてくれたこと礼を申すぞ」
「ありがたきお言葉恐れ入ります。王子殿下がご無事で何よりでございます」
「怪我はどうだ?」
「はい、ずいぶん良くなっております。
陛下にはお医者様をご手配頂くなどの御心遣いを頂戴し恐縮でございます。心より御礼申し上げます。誠にありがとうございました。
然しながら未だお見苦しい姿で申し訳ございません」
彼女のドレスから覗く肩にはまだ大きな傷当てがされていた。
「それにしてもヴェルニーチェ侯爵。このように美しい娘を隠していたとは露ほども知らなかったぞ」
「いえいえ、滅相もございません。じゃじゃ馬ですゆえ人前にお出しできなかっただけでございます」
「何を言う。美しいだけでなく勇猛果敢。その上に品格も備えているとは恐れ入った。素晴らしい娘だ。気に入ったぞ」
「もったいないお言葉ありがとうございます」
リリアナは完璧だった。
美しさは言うに及ばずその優雅な身のこなし、丁寧な言葉づかい。そして何よりこのような場において堂々と落ち着いて振舞えるなど、その若さの女性ではなかなか出来るものではない。
彼女は間違いなく今夜の主役だった。
舞踏会が始まるとクリスティアンは人々に挨拶をしながらリリアナの様子をうかがっていた。
先程まで例の青年ーーそうだ!あの夜の青年だ!ーーがリリアナのそばにいたが、すぐに2人は離れ…彼女はデザートや飲み物が提供されているテーブルのそばに1人でいた。
そしてその周りでは、子息達が彼女に声をかけようかどうかとタイミングを計っていた。
彼らの高揚した顔を見たとたんクリスティアンは心がざわつき、気づけば大股で一直線に彼女の元へ向かっていた。
「怪我は大丈夫ですか、リリアナ嬢?」
突然声をかけられ驚いたリリアナがビクりと振り向いた。
「王太子殿下、お気遣いありがとうございます。」
「弟が迷惑をかけましたね」
「いえ、何事もなく良かったです」
「恋人…の方ですか?彼はどちらへ?」
クリスティアンはわざと聞いてみた。確かめねば!
「恋人?」
「婚約者、と言うべきですか?」
「婚約者?」
「………………」
「………………」
「いつも一緒にいらっしゃる男性です」
「あ!テオデュロのことですね?彼は恋人でも婚約者でもありません。」
ーーー違うのか!クリスティアンの心が歓喜の叫びをあげた。
「彼とは…そうですね、いつか結婚するかもしれませんが…でも私達はそういうのではないのです」
ーーー????
「結婚するが、そういうのではない…とは?」
「あの……皆知ってるし、いいよね。」
彼女は一人で呟くと、内緒話をするかのように口元に手を当て背伸びをしてクリスティアンに顔を近づけてきた。
背の高い彼は膝を曲げ、身体を彼女の方へ傾け耳を近づけた。
ゾクリ。
彼女の吐息を含んだ声が耳に流れ込んできたとたん、クリスティアンはまたもや身体が疼くのを感じた。
「テオデュロは男性にしか興味がないのです」
「な、なるほど」
「はい。だからこういう場でも、ほら、すぐお相手を物色しに行ってしまって、私はほったらかされるんです」
彼女が指差す方を見ると、たしかにテオデュロは男性の間を楽しそうにウロウロしていた。
「なので私も物色してるのです」
「は?物色?あなたが?」
思わず聞き返すと
「はい。デザートを!」
そう言って目を輝かせる彼女はただの愛らしい少女だ。たしかに狼と向き合ったレンジャーとは思えない。
「……ハハハ!なるほど!」
すぐ近くにいる者はその笑い声に驚いた。
クリスティアン殿下が声をあげて笑っている!あの氷の微笑が!!
「それはお忙しくされているのにお声かけをしてしまいましたね。で、デザートはいかがですか?」
「はい。とても美味しいです!」
「マルコス、良かったな」
「はい、ありがとうございます」
クリスティアンはデザートを提供していたデザート担当の料理長に声をかけた。
「恐れながらヴェルニーチェ侯爵令嬢はお好きなデザートなどおありなのですか?」
マルコスが優しくリリアナに問いかけた。
「はい!私が一番好きなのは………」
「好きなのは?」
「いえ、なにもございません」
「どうされた?言ってごらん、リリアナ嬢」
クリスティアンが尋ねた。
「……怒りませんか?」
その瞬間、クリスティアンとマルコスは視線を合わせ、ほんの一瞬ニヤリとしあった。
「もちろんだよ、言ってごらん」
「私が一番好きなのはフィデル王室の舞踏会で出されるケーキです」
まさかの答えに2人は目を丸くした。
「聞いたか、マルコス」
「はい殿下、しかと。」
「これは由々しき問題だ」
「……え?」
「はい、これは私に対する宣戦布告かと」
「え?違っ!」
「いや、むしろ我が国への」
「違います!ちょっと待ってください!」
「マルコス、王太子からの命令だ。
必ずやフィデル王室のデザートを超え、リリアナ嬢を取り戻すのだ!」
「はっ!我が命にかえましても!」
「え!待ってください!そういうことじゃなく!殿下!」
「ハハハハハ!」
クリスティアンと、今度はマルコスも一緒に声をあげて笑った。
「もう!からかってらっしゃるのですね」
あわてふためくのも可愛いし、スネて頬をふくらませているのもまた可愛い。
「ではあの夜もケーキを物色しにフィデル王室の舞踏会にいたのかい?」
「あの夜?」
「おや、私と会った夜のことを覚えていないのだね」
「え?え?え?」
「マルコス、私はそんなに印象の薄い男なのだろうか?」
「え?違っ!」
「これは殿下への不敬と…」
「え!違います!え!だって!」
「ハハハハハ!嘘だよ、リリアナ嬢。」
「もう!お二人ともヒドイです!」
「でも私達が以前会ったことがあるのは本当だよ」
「へ?いつですか?」
リリアナのその質問にクリスティアンは答えることが出来なかった。
「クリスティアン殿下」
棘を媚びの中に隠したような声がかけられた。
その瞬間、クリスティアンの顔には氷の微笑が貼りついた。
「ハイデルバーグ侯爵令嬢、こんばんは。いらしていたんですね」
クリスティアンは彼女が来ていることをもちろん知っていた。
今のは彼なりの精一杯のイヤミだ。
それを知ってか知らずか同じく貼りついたような笑顔の侯爵令嬢が言った。
「殿下、踊っていただけませんか?」
もちろん女性からダンスを誘われて断ることは出来ない。そもそも女性が誘う事自体めったにないが…。
「もちろんです。ハイデルバーグ侯爵令嬢。
ではリリアナ嬢、楽しい時間をありがとう。また」
そう言うと彼はその場を後にした。
周りにいる者はハイデルバーグ侯爵令嬢の気の強さに驚き呆れた。
あのタイミングで。しかもあの楽しそうな殿下に、よくぞ声をかけれたものだ。
まぁそれはそうか、彼女ならやるか…なんと言っても彼女はクリスティアン殿下の妃として第一有力候補と噂されている方だ。黙っていられるわけがない。
ダンスをしながらもクリスティアンの目はずっとリリアナを追っていた。
最初はマルコスと楽しそうに話していたリリアナだが、すぐに例のテオデュロが現れ、彼女を連れてホールから出て行ってしまった。帰ってしまったのか。
しかしクリスティアンの心にもう乱れはなかった。
なぜなら彼の心は決まっていたから。答えは出ていた。もう迷うことはない。
ーーーーーー
翌日、陛下からの許しを得、意気揚々と歩いているとマルコスと出会った。
「殿下。昨日、あの後、リリアナ嬢が私にお謝りになって下さいました」
マルコスは笑いながら声をかけてきた。
「『マルコス様のデザートがフィデルと比べてどうということではなく、私はそもそもこちらの舞踏会にはあまり来たことがないので知らなかっただけです。マルコス様のデザートはものすごく美味しいです。私の中で一番になりそうです。幸せな気分になれました、ありがとうございました』と。
なんとも可愛らしく、そして下の者へのお気遣いもお忘れにならない。素晴らしいご令嬢でございますね」
「ああ。そうだな」
クリスティアンは昨日からすこぶる気分が良い。
そういえばどうして彼女はここの舞踏会にあまり来ないのだろう?
まぁそれもすぐに知れる。もはや焦ることはない。