第8話 生首
二月三日
何もかももう遅い。先日、アシレーヌが研究室の戸を叩いた。戸を開けて彼女を見て、わたしは腰を抜かした。男性の生首を、両手に掴んでいる。少なくとも、二人は殺したということだ。その事実を飲み込むのに、数分を要した。わたしがいつまでも腰を抜かして、息を切らしているので、それが嫌だったのかアシレーヌはため息をついた。
わたしは、息を整えることに精一杯で、一言も声が出なかった。
「パパ、分かる? 人間の男の首よ。すごく簡単だったわ。人間の中では大きくて頑丈そうな相手を選んだけれど、結構簡単に殺せるのね」
「どうしてこんな……」
と言ったつもりだが、実際には震えていて、言葉になっていなかったかもしれない。
「パパは、このためにあたしとジャンヌをつくったんでしょう?」
声にならなった。わたしは最強の生命体を求めた。その結果がこれなのか。アシレーヌのことを、史上最も美しい生命体のように見ていたが、今では悪魔的な存在に見える。しばらく無言でアシレーヌを見つめていると、彼女は生首をわたしに向かって投げつけてきた。
「ひっ」という声が出た。
「どうして褒めてくれないのよ!」
言うと、アシレーヌは漆黒の翼を広げ、夜の空に飛び立っていった。
終わった。このあとも、アシレーヌは人を殺していくだろう。こうなれば、わたしがどうにかするしかない。もし他に希望があろうとすれば、ジャンヌだけだ。ジャンヌの存在だけが唯一の希望だ。
二月十日
一週間かけて、アシレーヌを弱体化する薬を開発していたところだ。この間にも、アシレーヌは人を殺しているらしく、彼女の部屋には、生首や、耳や鼻を切り取ったらしいコレクションが並べられている。
新聞にも、「死体の一部が見つからない通り魔事件」が載り始めた。アシレーヌの存在が明るみに出る日も、そう遠くはないだろう。
明日にでも、わたしはこの注射をアシレーヌに打ち込む。うまくいけば、変身能力そのものを奪うことができるかもしれない。そうでなくとも、変身時間を短くさせたり、何らかの弱体化を狙えるはずだ。それで、これまでの出来事をなかったことにできるはずもない。だが、アシレーヌという怪物を生み出してしまったわたしの、唯一の償いである。
日記はここで途切れていた。
「おい、これ……」
ジャンヌは言葉に詰まった。今のジャンヌは、脳内に記憶が駆け巡り、より鮮明に思い出せるようになった。アシレーヌの姿や声、マサミチや博士との思い出も、ほぼ完全に思い出したと言っていい。アシレーヌに、岩に串刺しにされたあの日のことも。軽い頭痛を感じていた。
「パパはどうなったの?」
マサミチが言った。当然の質問だろう。
ジャンヌとしても、博士の身が心配だ。だが、アシレーヌのことは、ジャンヌが誰よりも知っている。あの血の気の多さなら、すでに博士を殺していても、なんら疑問はない。
そのとき、マサミチはオルゴールを取り出した。「パパ、無事でいますように」その時計から、音楽が流れる。安らかでいて、明るい気持ちになれる音色。暖かな光で、心を包みこむような。生まれて初めて聞いた、懐かしい音楽だ。
ジャンヌは気を取り直した。悪い方に考えていても、どうにもならないわ、希望をもたなければ。と。
「私にも分からない。けれど、博士が生きていることにすべての望みをかけよう」
「うん。パパはたぶん、アシレーヌを弱くすることに成功したんだね」
「だろうな。具体的にどうなったかは分からないけれど、アシレーヌが怒っていたこととも辻褄が合う」
アシレーヌは、「パパ、あたしの体を元に戻して!」と言っていた。つまり、手術か、日記に書いてある通りの注射が成功したか、何かが起こったのだろう。ジャンヌと正面対決せず、怪人を送り込んでくるのも、今の状態で戦うのは不利だからだ。
「アシレーヌを見つけ出して、博士の居場所を聞いてやろう。博士と一緒にいる可能性もあるし」
と言ってマサミチがいたはずの方を向くと、なぜかいなくなっている。今の間に連れ去られたのか? けれど、怪人がいる気配はなかった。突然、マサミチだけが研究室からいなくなった。
ジャンヌは慌てて部屋を出て、マサミチを探した。マサミチは路地を突っ切って、大きい通りに出たらしい。その背中を目で捉え、追いかけていく。角を曲がると、通勤や通学帰りの人たちがたくさんいる。日が暮れかけていたのだ。
「マサミチ! どうしたの!」
「パパが、パパがいた! 早くしないと見失っちゃうよ」
マサミチは、立ち止まっている場合ではないという風に、走り去っていった。一瞬だけあった目が、キラキラと輝いていた。
本当に博士が? けれど、何か月も姿を現していなかった博士が、突然マサミチたちの前に現れるのだろうか。アシレーヌからどうやって逃げたというのだ?
ジャンヌもマサミチのあとを追う。
歩道橋の上で、白髪交じりの男性がマサミチに向かって手を振っている。姿は明らかに博士だ。だが、ジャンヌには、その姿を目にしただけで分かる。あれは人間ではない。ジャンヌと同じ、緑の血を流す人外だ。どういう能力を使ったか分からないが、人間に化けているらしい。
「マサミチ、ちょっと待て!」
手をのばしても到底届かないところにいるマサミチは、どんどん階段を上って、上にいる偽物の博士に会いに行こうとしている。
「くそ、博士! 本当に博士だっていうなら、息子の名前を呼んでみなさい!」
ジャンヌが叫んだ。
博士は返事をせず、いたずらに笑いながら舌を出した。博士はあんな品のない表情をする人間ではない。
マサミチも、一旦冷静になったのか、博士と数歩の距離で立ち止まった。そうだ、マサミチはその辺の少年より賢いはずだ。
「パパ。どうして僕の名前が呼べないの……?」
「……」
博士はしばらく沈黙したあと、その姿をどんどん変えていった。体色は緑色に、顔は立て長く、飛び出た両目がギョロギョロと、別々の方を向いて動いている。カメレオンのような怪人だ。
カメレオン男はそのままマサミチを鷲掴みにし、歩道橋から飛び降りた。
「マサミチ! 今助けに行ってやる」
そのとき、彼方から風を切ることが聞こえ、柄の黒い剣が飛んできた。ジャンヌはすんでのところで避けると、その剣が地面に突き刺さる。黒き羽が装飾されているようにも見えるこの剣は、ずいぶん見覚えがある。
「感動の親子再開シーンでしょう。水を差すんじゃないわよ」
ジャンヌとよく似た、通る声は。
「アシレーヌ! てめえを倒すため、地獄の底から蘇った」