瞳の奥に
千翔くんに遅いと文句を言われつつも飲み物を届けたあと、私は休憩すると言って、再びその場を離れた。変な飲み物に対する文句も後ろから飛んできたが、聞こえないフリをした。
しかし佐々白先輩が教えてくれたのは方向だけで、ほとんど自力で探し出さなければならない。1人で歩いて行ったというのだから、何か目的の場所があったのか、ただ単に1人になりたかったのか。まさかナンパではないだろう。
左右を見回しながら歩くが、見つからない。いつのまにか、海水浴場の端っこの方まで来てしまっていた。ここまで来ると人はまばらだった。
もしかしたら、京介くんは既に違うところへ移動してしまったのかもしれない。
私は疲れもあって、立ち止まる。後ろを振り返って海水浴場を眺め、再び前方を見た。少し先にある大きな岩に目がいった。あそこまでいって、いなかったら諦めようと思って歩き出す。
近づくと、その岩は思ったより大きくて見上げるほどだった。打ち寄せる波は、それに届きそうで届かない。なんとももどかしい。
裏側に回り込んでみようとすると、海側に空洞があることに気づいた。そして、目当ての人はそこにいた。
「京介くん」
小さな空洞に胡座をかいて座っていた京介が、空洞を覗き込む私を眩しそうに見上げた。太陽の光は海側から降り注ぐので、岩は日除けの役割をなしていない。
彼は、あ、という顔をしたが、何も言わない。昨日あのように言ったため、私がどう出るか様子を見るつもりなのだろう。
私は視界の端に動くものを見とがめて、そちらに視線をやる。
「蟹」
「え?」
京介くんのビーチサンダルを履いた足元を指さす。小さな蟹がちょこちょこと横向きに歩いていた。彼が手を伸ばして捕まえようとするが、蟹はハサミを振り上げたらしい。
「痛っ」
京介くんはぱっと手を離して、蟹を恨めしそうに見る。
「あはは」
思わず笑ってしまった。彼が怪訝そうにこちらを見る。ただ太陽光に目を細めただけかもしれない。しかし私はいつも、彼の笑った顔しか見たことがなかったようだ。そんな顔もするのか、と思う。
「何しているの?こんなところで」
昨日のことがあったのに、いつもと変わらない私の態度に戸惑ったのか、京介くんは眩しそうにこちらを見上げたままだった。私はしゃがんで、お互いの顔がよく見えるようにした。
「なんとも思わないの?」
「何が?」
笑顔を浮かべたまま見つめていると、彼が先に目を逸らした。
「私、京介くんのことよく知らないから、何も思うことなんてないよ」
京介くんはもう一度目を合わせてくれたが、私が何を言うのか伺って黙っているようだった。私は思ったことをそのまま言おうと努めて、口を開いた。
「京介くんの言う"楽しい”が、どうしても分からないの。本当に聞きたかったのはそれ。たぶん、自分を基準に考えてたから分からなかったんだと思う」
振られた女子を笑ったことが嘘であってもそうでなくても、その事実の善し悪しは、事情を知らない第3者が決めつけられるものではない。
「昨日の朝、先輩たちに質問されてるところ見ちゃって、京介くんがどうして笑ってたのか分からなかった。昨日の話を聞いてなんとなく分かったつもりではいるんだけど、やっぱり直接聞こうと思って」
京介くんはやはり戸惑っているようだった。少し眉を寄せて、上目遣い気味にこちらを見ている。こういう表情もあまり見たことがなかった。
「朱音ちゃんがそこまで俺の事を気にする理由の方が分からないけど」
「もやもやするのが嫌なだけだよ」
彼はふうん、と言って、少し考える素振りを見せる。
「他の人とズレてるって感覚はあんまりないんだけど⋯⋯どうして楽しいのかって聞かれても困るかなぁ。ただ単に面白かっただけだから。俺をいつも勘違いしている人たちが、やっと勘違いだと気づいた時にどんな反応するのかを見るのがね」
これは⋯⋯
「あと、俺は基本的に嘘偽りなく生きてるけど、昨日ひとつ嘘ついたな」
「嘘?」
「うん。書き込みのこと、本当は微妙に心当たりあるんだよね」
「えっ」
彼は私の反応を見て、やっと面白がるような笑顔になった。
「いつもつまらない告白ばっかりなんだけど、いつだったかひとつ面白い人がいてね。飛びっきりの勘違い女!」
「はあ⋯⋯」
やはり、その優しそうな雰囲気で笑ってその言葉は、ギャップがあり過ぎる。
「お決まりの言葉じゃなくて、何か面白いこと言う人いないかなーって思ってた時だったから、すごくおかしくてね」
その時のことを思い出したのか、くっくっと肩を揺らしている。やはり、これは⋯⋯
「京介くん、Sだね」
「え?」
「SMのS。ドがつくほどのSだよ」
「ええ?」
首を傾げてはいるが、今にも笑いだしそうな顔だ。
「見た目に騙されるって本当だと思うよ。そもそもみんなの言う”優しい"ってなんだろうって考えてたんだけど、たぶん、京介くんの元々の雰囲気なんだと思うの。無表情であっても、なんとなくあの人は優しそうだなーって誰にでも感じさせるような。だから、実は意地悪な京介くんに気づかなかったんじゃないかな。というか、私がそうだったから」
「あははは」
京介くんはとうとう笑い出した。
「朱音ちゃん、最高だね!」
そう言ってもらえるのは光栄だが、急に不安になる。
「私も飛びっきりの勘違い女?」
彼はさらに笑った。お腹を抱えている。
「いいや。優しそうっていうのはやっぱりよく分からないけど。俺は全然優しくないから、当たってるかもね」
爽やかな笑顔だ。
昨日、彼はもうひとつ嘘をついていたはずだ。嫌な奴だと思ったら話しかけなくていいと私に言ったとき、彼の顔は嘘をつけていなかった。暗い中だったけれど、言葉通りに思っているとは思えなかった。
周りの反応がどうでもいいというのは本当のようだったが、それはどうでもいい人の場合だろう。もし、私が彼にとってどうでもいい人じゃないならば。もし、少しでも友人という枠に足を突っ込んでいる存在ならば。
少なくとも私は、彼を庇いたいと思った。私にとっては、彼はどうでもいい人ではなかった。だから、彼の見てほしいと思う彼を見て、受け入れたかった。
「ありがとう、朱音ちゃん。いや、アリスちゃん?」
京介くんは微笑んだ。それを見て、はっとする。
彼はくすくすと笑って、私の脇をすり抜けて空洞の外に出る。
「ああ、もうそろそろお昼かなぁ。お腹空いた」
太陽に向かって伸びをしている。私は、歩いて行こうとする彼の手首を、咄嗟に掴んだ。
「待って!違う」
「え?」
私は全然気づいていなかった。見えていなかった。
先ほどの柔らかい笑み。その目の奥には⋯⋯紫色なんかではない、そんな怪しい安っぽい色ではない。子供の純粋な悪戯心のような、しかしその中にちゃんと生来の優しさを秘めた、桔梗色が浮かんでいた。
「京介くんはやっぱり優しいよ。意地悪な面もあるけど、優しい面もちゃんとある。だって、私のこと助けてくれたりするじゃない。私が保証する」
一度感じたら、綺麗な桔梗色は彼の目の奥にちゃんと見つけられるようになっていた。驚いたような顔の彼の目の中に、ちらちらと見える。
「私の言うこと信じられなくてもいいけど、そう思う人もいるってこと、知っていてね」
京介くんはきょとんとしていたが、私はそれ以上何も言わずに笑い、彼の手首を掴む手に力を入れる。どうか、彼の優しさが彼自身にも届くように。
「今の俺たち、別れ話をした彼氏と納得いかない彼女に見えるかな?」
突然何を言うのかと思ったら、意地悪な顔だ。私は苦笑いすることしか出来ず、手をぱっと離す。
「行こうか」
太陽の光に照らされて、桔梗色の笑顔が瞬いていた。




