堤防の上の半月
夕食の後は部屋に戻って寝るだけだったが、私はまだ部屋に戻りたくなかった。まだ空気が悪かったら、と思うと、足が重くなる。そして何より、自分の気が立っていることが自分でも分かっていた。
たるとは共同スペースで圭貴たちと話していた。圭貴とは8年ぶりに再会した朔もいたので、そちらにも交じる気は起きない。
私の足は人のいないところを求めて、宿の外へと向かう。
外に出ると、すぐに潮の香りがした。昼間は地獄のように感じた暑さも、今は和らいでいる。風が木を揺らす音、打ち寄せる波の音、夏にだけ聞こえる虫の声⋯⋯。夕方に入った温泉と同じ、私の心の疲れを癒していく。
私は、静まりかえった海沿いの道を、あてもなく進んだ。
海沿いといっても、海は見えない。海があるはずの道の左側には、私の身長に届くくらいの堤防がそびえているのだ。道路を挟んだ右側には、私たちが泊まっているような旅館が立ち並んでいる。旅館には人の気配がするが、外に出ている者は誰もいない。街灯も弱々しい光を放つだけだ。
今この瞬間だけは、この世界に自分1人しかいないような感覚になった。なんとなく、気分がいい。
波の音に耳を傾けて歩き続けていると、ふと前方に人影を見つけた。空に浮かぶ月と見つめ合うように、上を見上げている男の子だ。堤防に腰掛け、海の方を向いて足をぶらぶらとさせている。彼の肌は月下で青白く見え、Tシャツから伸びる手は指先まで細く綺麗で、女の子みたいだ。
今回の合宿で陸上部でない人のひとり、ピアノを弾く男子だった。
彼は私に気づかないように、真っ直ぐ空を見続けている。その目が少し楽しそうに見えるので、私は邪魔をしない方がいいか、と思う。こういう時だからこそ、1人の時間が欲しい気持ちは、よく分かるつもりだった。
しかし、そのまま通り過ぎようと再び歩き出したとき、彼が何気なく振り向いた。最初から私がいたことは分かっていたように、迷いなくこちらを見る。私は思わず、また立ち止まる。
彼はぶらぶらとさせていた足を止めて、珍しいものを見るように、こちらをじっと見ている。私も、一度目が合ってしまった以上、逸らすことはできなかった。
「君、柳先輩のお気に入り?」
やっと口を開いたと思ったら、突拍子もない言葉だ。私は眉を寄せる。どう返事しようかと迷っていると、彼の目が空に浮かぶ半月のように細められ、口の端はにっと持ち上げられた。
「やっぱり」
私は戸惑いながら、真顔より大人っぽいその表情を見ていた。
「こっち来なよ」
「あ、危ないよ」
彼が堤防の上で立ち上がって伸びをするので、私は慌てて声をかける。堤防の向こう側は砂浜だが、こちら側より落差が激しいはずだ。
「大丈夫だよ。登ってくれば?」
「いや、登れないよ⋯⋯」
私は首が痛くなるくらい彼を見上げて言う。自分の身長ほどもあるところに、登れる気はしない。彼はよくその細い腕で登れたな、と思う。
「大丈夫だって」
彼はしゃがんで顎に手をやって、こちらを見下ろしてくる。顔が近づいて、髪がうねっているのが見える。私が登らなければいつまでもそうしていそうだったので、仕方なく、堤防に手をかけた。
案の定腕の力が足りず、足をかけられるところもなく、何度かずり落ちる。その無様な様子を、彼はしゃがんだまま、手を差し伸べることもせずに見ている。その目は月を眺めていた時のように、少し楽しそうだ。
私は意地になってなんとか堤防に這い上がった。しかし息がきれ、腕と指がじんじんと痛い。
「ね、登れたじゃん」
四つん這いになって肩を上下させる私を見て、彼ははっきりと笑っていた。私は曖昧に笑みを返す。
彼は再び海の方を向いて足をぶらぶらさせる。
私も息を整えながら、同じように座ってみた。やはり、堤防の向こう側は地面がはるか下にあり、落ちたらひとたまりもない。しかし、その砂浜の先にある海の方が、私の意識を惹きつけていた。
夜の海は暗く、果てしない。月の光を映し出してゆらゆらと揺れる波は、私をどこかへ誘っているようにも見える。そしてそれは、千翔くんの目を思い出させる。見ている人を深く引きずり込んでしまうような、綺麗な瞳。けれど、こちらの全てを見透かしている。
「それで、君だれ?」
彼の少年のような声に、意識が引き戻される。
朝の集合場所で、集団から離れたところにいた彼とは挨拶を交わしていなかった。
「1年の有里朱音。陸上部じゃないけど誘ってもらって。あなたは?」
「僕も誘われたから来ただけ」
妙に大人っぽい笑みを薄ら浮かべながら、海を見つめている。私は彼が名乗るのを期待していたのだが、それ以上何も言葉はない。
「名前は?」
「名前?」
仕方がないのでこちらから聞くと、彼は驚いたように目を開いてこちらを見てくる。しかし、すぐにああ、と頷く。
「好きに呼んでくれていいよ」
私は眉を寄せるが、彼は悪気のかけらもないように足をぶらぶらさせている。
「君って柳先輩の愛人のひとりなの?」
「アイジン!?」
私が再び聞き直す前にとんでもない言葉が出てきたので、思わず大きな声が出てしまった。そんな私を、未だ名乗らない彼は不思議そうに見てくる。
「だって柳先輩、君のことばっかり見てたよ。先輩は愛人が沢山いるって聞いたし」
「確かに色んな人と付き合ってはいたけど、それは多分誤解だよ。ていうか、愛人って言い方⋯⋯」
「そうなの?でも君はお気に入りだよね。生徒会に取り込まれてるし」
彼は私が朔と呼んだことに気づいていないのか、気づいていたとしても気にしていないのか。それよりも、生徒会の話が出たことに驚く。
「朔のこと、知ってるの?」
「そりゃ、もちろん」
朔が生徒会長であること、と言いたかったが、それでは自分から秘密を明かしてしまうことになる。私の聞き方が悪かったかもしれないが、彼がどこまでの意味に対して頷いたのか、読めなかった。
「生徒会には気をつけた方がいいよ。君はきっと利用される」
私はぱっと彼を見る。
「やっぱり、知ってるの?」
「そりゃ、もちろん」
同じような会話がなされるが、やはり彼の真意は読めない。
「そういえば、真坂京介ってどの人?」
私は突然出たその名にどきりとした。忘れかけていた、先ほどの朔の話が再び蘇ってくる。
「背が高くて髪が少し茶色めで、優しそうな人。生徒会の男子の中で、眼鏡かけてなくて飴くわえてない人」
彼は後半の説明で思い当たったようで、ああ、と頷く。京介くんを知らないということは、生徒会についてあまり知らないということだろう。先ほどの言葉には深い意味はなかったのか、と私は思う。
「どうしてそんなこと?」
話題になっている噂について言われるかもしれないと思いながらも、聞いてしまう。しかし、彼はまた斜め上の答えを言う。
「真坂京介って人、知らなかったから」
何かはぐらかされているのか、と思うが、やはり毒気のない顔で月を見ている。千翔くんがいたら、ぼろくそに言われていただろうが。
「君は真坂京介と仲良いの?」
「どうだろう。最近関わることは多いかな」
「じゃあ彼が悪く言われてたら庇いたい?」
やはり、と思う。噂のことを知っていて、話しているのだ。
「まあ、そうだね⋯⋯」
「なるほどね」
彼は妙に納得したように頷く。
「何がなるほど?」
「え?納得したってことだよ」
あ、そう、と私は答える。
しばらく沈黙が落ちる。大抵の人が、初対面の相手に対して沈黙を恐れる。しかし彼は、そのような様子を微塵も見せなかった。だから、私も楽な気持ちで海を眺めていられた。
「さて、そろそろ戻ろうかな」
しばらくして、彼が突然立ち上がる。始終あちらのペースのような気がすると思いながらも、戻ることには賛成だった。彼が足を伸ばすように爪先立ちするので、私はまた慌てて止める。
後ろを向く彼につられて、私もそろっと後ろを向いた。
「降りられるかな⋯⋯」
堤防の下を見て、思わず呟いていた。登ったのはいいが、降りる方が怖いかもしれない。隣の彼は、大丈夫大丈夫、と登ろうとしたときと同じように言う。
「でも結構高いから、足がやられそう」
「降りられないと思うなら、なんで登ったのさ」
彼はあっけらかんと笑った。私は思わずげんなりとした顔で、半月型の目を見返してしまう。彼は私が躊躇っている間にも、ひょいと飛び降りてしまう。それほど丈夫な体には見えなかったが、身軽なのか、難なく着地した。くるりと回ってこちらを見上げてくる。
「ほらね、大丈夫」
にっという笑顔も、自分の体も信じられなかったが、覚悟を決めるしかなかった。降りる方を向いて座る形になる。そこから腰を上げて、半ばずり落ちるように堤防を降りた。擦ったらしい背中や足が痛かったが、着地した地面に座り込んだまま息を吐いた。くせ毛の彼は、また手を差し伸べることもない。
「君、陸上部じゃないんだっけ」
「違うよ」
彼は私の体を無遠慮に見て、ふうんと言う。最初に言わなかったけ、と思う。
「それと、さっきから”君”って言ってるけど、私は有里朱音ね」
彼はきょとんとするので、言葉を足す。
「朱音って呼んで」
「分かった」
彼は素直に頷く。
宿へと歩き出す背中を見て、彼が自主的に名乗ることを期待してもダメか、と思う。
「あなたは、名前⋯⋯」
言いかけて、また同じようにちゃんと答えてもらえないかもしれない、と考える。聞き方を変えればいいのかもしれない、と。
「私はあなたのフルネーム知らないんだけど、教えてもらえる?」
彼はくるりと振り返って、後ろ向きのまま歩き続ける。
「言ってなかったけ」
「聞いてないよ」
「日向だよ。四季神日向」
彼はそう言ってにっと笑う。邪気はないが無邪気とも言えぬ、半月型の目。緩くカーブを描くくせ毛が、ふわふわと彼の掴みどころの無さを表しているように見えた。




