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運命の鎖  作者: 桔梗
浅葱色の新月
30/63

亜季・欲しいもの

「ねぇ、もし世界が今日で終わるとしたら、何したい?」


 宮島亜季(あき)は、電車で読んでいた小説を鞄から取り出しながら、唐突に言った。自室のベッドに倒れ込んで、ちらりと風呂上がりのやなぎ(さく)を見る。


 普段亜季は本を好んで読まないが、その小説は先輩に勧められたもので、暇な時に少しずつ読んでいたものだった。今日、やっとフィナーレを迎えた。


 亜季がこんなに時間をかけて読んだ本の内容は、たった1日のことだった。世界最後の日だ。


「んー特に何も。いつも通り家にいるかな」


 素朴だがとても意味のある壮絶な1日を読んでいたので、朔の答えには拍子抜けした。


「つまらないわねぇ」


「そういう亜季ちゃんは、どうなの?」


 それはさっきから考えていたが、特に意味のあることは思いつかなかった。


「私は欲しいもの全部買うかな」


「欲しいもの?」


「うん、高級な洋服とか。明日から私たち存在しないなら、今日全部お金使っちゃった方が良くない?」


「亜季ちゃんらしいね」


 朔はへらっと笑って、亜季の隣に寝転んできた。


「そうだなぁ、とても欲しいものならあるよ。次の日がないなら、無理矢理にでも手に入れちゃうかもね」


「なに?」


 それはすごく興味がある。思えば、あまり朔のプライベートなことは知らない。


「お金じゃ買えないもの」


 上目遣いでこちらに笑みを向けるものだから、可愛いと思ってしまう。


「とても欲しくても、決して手に入らないもの」


「手に、入らない?」


 笑顔のままの朔に、亜季はドキリとする。


 そんなに朔が欲しがるものとは、何だろう。女の心ならば、朔の手に入らないものはなかろうに。


 しかし、亜季は何も聞けなかった。


 朔がどこから来て、なぜ家に帰らないのか。そもそも家があるのか。これまでも、気になることは沢山あったけれど、何も聞かなかった。唯一、きちんと毎日学校に行っていることだけが、彼が普通の高校生なのだと思わせてくれた。


「気になる?」


 朔は亜季の心情を知ってか知らずか、いつものように軽い調子で言う。


「もちろん。好きな人のことだもの」


 亜季も軽くからかうつもりで言ってみたのだが、一瞬朔の笑顔が消えた。すぐに笑顔になったが、亜季の中には不安が広がる。


 亜季の思い過ごしならいいが、朔の笑顔はいつも悲しそうなのだ。今日は、それが一段と濃い。


「ねぇ知ってる?僕はここに来るまで、色んな女性にお世話になってきたんだよ」


 何を言い出すかと思えば。


「それは何となく分かってたわよ」


 肩をすくめて言うが、朔の表情は変わらない。


「じゃあ、それを指で数えていって⋯⋯両手がふさがってしまっても、まだ亜季ちゃんは僕の隣にいられる?」


「はは、さすがにそんな多いとは思わなかったな」


 軽く一笑する。


「答えになってないよ」


「誤魔化すのは朔くんの得意技でしょ」


 朔は悲しそうに笑うだけで、何も言わずに亜季を見つめる。


 自分じゃない。


 それは亜季だって気付いている。


 朔が欲しいものは、亜季ではない。そんなこと、とうの昔に知っていたのだ。それでも、亜季は目を逸らさずに見つめ返す。


「で、何が欲しいの?」


 朔は笑みを崩さなかったが、やがて、目を逸らして口を開いた。


「手に入れたいと望むことさえ、許されないもの」


 亜季は何も言わずに、目の前の美しい顔から笑顔が消えるのを見る。


「どこでどんな人と寝ても、朝起きた時には、必ず一番に思い出してしまう人」


 細くなっていく声が揺らぐ。


 亜季は、朔の伏せられた目に輝くものを見た。ぎゅっと心臓のあたりが苦しくなるのを感じる。それは自分の痛みなのか、朔の痛みに共感しただけなのか、分からない。


 でも朔はもっとずっと苦しんでいるように見えた。それも、とても長い間。だから亜季は手を伸ばす。


 朔の心がどこにあったとしても、今ここに彼がいる限り、亜季は隣に居続ける。


 それがさっきの問いの答えだ。


   ***


 目を覚ました時、違和感を覚えた。


 まずひとつは、外が暗いこと。時計を見ると、ちょうど午後の8時を指していた。夕方にベッドに倒れ込んだまま、少し寝てしまったらしい。


 もうひとつは、寝る前には隣にあったぬくもりがないこと。


 亜季は1人、取り残されていた。さっきまでこの手で抱きしめていたはずなのに。


 しかし、予感はしていた。彼が本音を明かした時点で、曖昧に始まった2人の関係は終わりだということを、きちんと知っていた。


 それなのにどうしてだろうか。


 亜季は、頬を濡らす生暖かい液体を感じて呆然としていた。小学校以来、泣いたことがない。彼が自分を愛してはいないとはっきり分かった時も、涙は出なかった。


 でも今は、残った体温も感じられないベッドに1人でうずくまっていることが、無性に寂しかった。暗い部屋がやけに冷え冷えとしている。どうせなら、太陽が明るく照らしてくれる朝に目覚めたかった。


 夕方、朔は亜季の手に包まれて、悲しい色を浮かべながら眠ってしまった。いつもと違って亜季に手は出さずに。初めて、彼が亜季より幼い年相応の少年に見えた。


 彼がいくら多くの女性と身体の関係を持っていようと、心は純粋で不器用な少年なのだ。そんな彼が愛おしかった。亜季はさらに彼のことが好きになった。と同時に、自分も叶わない恋をしているのだと、強く感じた。


 突然、ガチャリとアパートの扉が開く音がして、驚いてはね起きる。心臓がばくばくと鳴っていた。 もうこの家に勝手に上がってくる人はいないはずだ。


 淡い期待と、反対の恐怖に動かされて、寝室のドアを開ける。


「あ、亜季ちゃん、起きた?」


 聞きなれた声。玄関にいる見慣れた姿。朔が、何事も無かったかのように笑顔でそこに立っていた。


「どうして⋯⋯」


「ごめんね、ちょっと散歩に行ってこようと思っただけなんだけど、トラブルがあってね」


 朔はいつも通り、ごく自然に近づいてくる。何故か見慣れない古い上着を着ていた。


「ちょっと汗かいたから、もう1回お風呂入ってくるね」


 変わらない笑顔が逆に苦しかった。その笑顔の裏の悲しい思いを、直接知ってしまったから。


 朔は亜季の様子がおかしいことに気づいていても、あえていつも通りなのだろう。だから、いつも通りにしなくては⋯⋯。


「うん、じゃあ、遅くなっちゃったけどご飯作ってるね」


「ありがとう」


 その日は夜一緒にベッドに入っても、朔は穏やかに微笑むだけで、亜季に何もしなかった。


   ***


 亜季は元々、割り切りのいい性格だ。


 翌朝、朔が少ない私物をまとめているのを見ても、何も言わなかった。ああ、やっぱり、と思う程度だった。身の裂かれるような寂しさは、昨日味わったから。


 逆に、朝起きたときに、まだ朔が隣で穏やかに眠っているのを見て安心した。その朝は、思った以上に爽やかな朝だったのだ。


 朔が昨晩亜季に手を出さなかった理由が、少しだけ分かった気がした。


「そろそろ学校行かなくちゃ」


 朝食のあと、朔は小さめのボストンバッグに手をかけてそう言った。あくまでいつも通りだ。


「うん、私も今日は大学朝からなのよね」


「そうなの。じゃあ、途中まで一緒に行く?」


「いいや、もう少しのんびりしていくわ」


「そっか」


 何日、この3つ年下の彼氏と言っていいのかも分からない男の子を見送っただろう。思えば、たったの4ヶ月くらいだ。


「もう家出はやめるのね」


「うん」


 朔は屈託なく笑う。そのままドアノブに手をかけるが、立ち止まって振り返る。


「本当の願いを言ったのはね、亜季ちゃんが初めて」


 彼は、少し照れくさそうにはにかむ。これは罠だろうか。他の女の人にも言っているのだろうか。


「あの子のことは、誰にも知られたくないから」


 呟くような声に、亜季は、はっとする。自分は何を疑っていたのだろう。昨日の涙が嘘なわけないのに。


「本当にありがとう、亜季ちゃん。家出少年は家に帰ります」


 柔らかい笑みに、亜季はまた心がくすぐられる。でも、この別れを恨めしいとは思わない。きっと出会った瞬間から、別れは必然だったのだから。


「うん、私こそ、毎日洗濯とかご飯作ってくれたりとか、ありがとう。おかげで最近楽だったわ」


 この別れにしんみりした空気は似合わない。朔はもう一度微笑んで、いつものように出ていった。

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