矛と盾
私は家の鍵がかかっていないことに違和感をおぼえながら、ドアを開けた。
「ただいま」
その言葉も、久しぶりに言った気がする。様子を見ながら中へ入ると、すぐにととっと足音が聞こえた。
「おかえり。そしてただいま」
満面の笑みが、リビングのドアから覗く。いつもと変わらない朔に妙にほっとしながらも、靴を脱いで家にあがる。
「まったく、学校もいかないで何してたの。皆心配してたんだよ」
「ごめんなさい。今日は学校も行ってたんだよ。⋯⋯知らない人は来なかった?」
やはり亜季さんのことが原因だったのだろうか。美味しそうな匂いのするリビングへ向かいながら、朔は伺うようにこちらを見ている。そうだとしたら、朔は亜季さんを誤解しているかもしれない。
「うん、亜季さんには会ったよ」
「え」
思った以上の反応だった。少し面白くなって、すました顔で朔の横をすり抜ける。やはり夕飯は既に用意されており、机に2人分並んでいた。
「大丈夫だって、何もされてないから」
「そっか⋯⋯」
戸惑った様子を見せるが、詳細は聞きたくても聞けないようだ。
「亜季さん、朔とはもうきちんと別れたって話してたよ。見かけたのはたまたまだって。悪い人には見えなかった」
「怒ってないの?」
「どうして?」
「どうしてって⋯⋯僕と一緒に過ごしてた女の人が、その、アリスの前に現れちゃったから」
「別に。まぁ、最初はなんだこの人って思ったけど。色々話できて面白かったし」
「そうなんだ、亜季ちゃんが⋯⋯」
朔の口から彼女の名前を聞くのは不思議な感じだ。
しかし、朔は何を気にしているのだろう。向かい合わせに席についても食べ始めない彼を見て、箸に伸ばしかけた手を引っ込める。
「朔は、どうして亜季さんを警戒してたの?」
思いきって聞いてみると、不思議な顔をされた。
「警戒?」
「亜季さんを学校の前で見て、だから亜季さんを警戒して、しばらくどっか行ってたんじゃないの?」
「ああ、まぁそうだけど⋯⋯」
歯切れが悪い。
「亜季ちゃんを警戒っていうか、アリスのことを知られたくなかったから」
「私?」
「うん、亜季ちゃんはいい人だから、別れた後も何もしてこないのは分かってたよ。でも、僕の事情にアリスを巻き込みたくはなかったんだよ」
まさか。
「それだけ?いなくなった理由」
「うん」
軽く目眩がする。なぜ、なんでもない顔で頷いてみせるのか。様々な不安要素を残していなくなった理由が、それとは。
「くっだらない」
大きく息を吐いて、椅子の背にもたれかかる。
「そんなことで皆に心配かけてたなんて、くだらない。騒いでたのがバカみたい」
色々な人を巻き込んで朔を心配していたのに、逆に私の方が心配されていたなんて。真田先輩が朔のことを馬鹿だと言っていたことに納得する。
朔は戸惑ったように、こちらをぽかんと見ている。
「ていうか、朔がいなかったから亜季さんと話すことになったんだよ」
「そうなの?」
「そうだよ。逆効果じゃない。亜季さんにまで心配させて」
朔は私の言葉に本気で落ち込んだようだ。決まりの悪そうな顔をする。
「でも、やっぱり分からない。亜季さんがいい人なの分かっているなら、別に、私に合わせないようにしなくてもいいでしょ?」
どちらにせよ、朔は亜季さんを信用していなかったことになる。
「いいや。⋯⋯だから嫌だったんだよ」
朔は小さく笑って呟く。目の中の浅葱色が濃くなる。それを見ると胸騒ぎがする。
「アリスが、僕の恋人ともいえる人のことを何とも思わずに、そうやって平気な顔で受け入れてるのを見るのが、嫌なんだよ」
眉をひそめる。意味が分からない。修羅場みたいになるのが嫌だったのではないのか。
そんな私を朔はますます悲しそうに見る。
いつもそうだ。私には彼の憂いが分かるけど分かりたくない。けれど、浅葱色を見ると胸がぎゅっとする。
朔は首を振って口を閉ざしてしまった。
私は、千翔くんと梓馬くんとの会話を思い出していた。このままでいいわけがない。何かを変えたいならば、私が動かなければならない。私のやるべきこと。
私は矛盾を解消するために動いている。ならば、まず矛盾の確認が必要だ。
「朔は、妹のことをどう思ってるの?」
何気なく聞けたと思う。声は震えていない。だが、朔は震えていた。よく見ないと分からない程度に、小刻みに手が震えていた。
ふと朔が笑った。笑っているのに、泣いていた。私は浅葱色に手が届かない。
「僕は、君が一番大切なんだよ」
息を呑む。
「"私"が⋯⋯?」
「どうしても、そうなんだ」
それはだめだ。矛盾だ。朔は妹が一番大切であるべきなのだ。朔もそれは分かっているはずだった。だから、こんなにも悲しい色を浮かべる。
そもそも質問に答えていない。
(あれ⋯⋯?)
いつもはなんとも思わないことが、引っかかった。
"私"とは何なのだろうか。どうして、私は朔が大切で、朔は私が大切では、だめなのだろうか。
亜季さんに、朔のことをどう思っているかと聞かれたとき、私は答えられなかった。梓馬くんに、朔とどういう関係かと聞かれたときも。明白だったはずなのに、答えられなかった。
そして千翔くんは、比べる必要はない、と言った。
やっと分かった気がする。
「私は、兄が一番大切」
朔が目を伏せる。
「今も昔も、たぶんこれからも」
「うん、知ってる」
「それで、朔も大切」
「え⋯⋯?」
浅葱色。朔の瞳の奥で揺らいでいる。とても綺麗。
でも、朔にとっては良くない色のはずだ。だから私は、それを取り除きたい。
「だって、兄と朔を比べることはできないでしょう?」
そっちの方が矛盾だったのだ。朔はまだそれに気づいていない。
「でも、それは⋯⋯」
「朔は、妹が大切じゃないの?」
「うん、それはもちろん。⋯⋯ちょっと待って、よく分からなくなってきた」
そうだ。本当は、よく分からないことを言っているのだ。それにすら、私たちは気づいていなかった。
「私たちの気持ちって、そんなにいけないこと?解離しなければいけないほど?」
朔がゆっくりとこちらを見る。
「色んな大切とか、色んな⋯⋯好きとか、あっていいと思うの」
言いながら自分でも気づく。そういう考えもあるのだと。
私は私が言っていることが正しいかは知らない。しかし、少なくとも私たちにとっては、これを信じることが楽になる方法だと思うのだ。
「色々な⋯⋯」
浅葱色がゆらめく。
泣かないで。私の大切な大切な⋯⋯
「お兄ちゃん」
朔が目を見開く。その大きな瞳が、本当にゆらめいている気がした。瞬きを繰り返すたびにゆらめきが光り、濡れていることが分かる。
「そっか、僕の好きは、別に悪いことじゃないんだ」
朔は掠れた声で呟く。
私は兄の朔が、朔は妹の私が一番大事。子供の頃は純粋に受け入れていたその気持ちが、大人になって恋愛というものを知るにつれて、良くないものと感じるようになっていた。
良くないのに大事だと感じてしまうことが、矛盾だと思っていた。
大切なのはあくまで兄弟であって、''朔''と''アリス''への恋愛感情ではないのだと思おうとした。結果、無意識に解離するようになっていた。”兄”と”朔”、”妹”と”アリス”を。そのおかしさに気づきもせず。
けれど、たぶん私たちを繋ぐものは、皮膚の下に流れる血だけなのだ。だから、完全に''朔''と''アリス''でいることはできない。"兄''と''妹''であることと分けてはいけなかった。
本来、矛盾はそこにあったのだ。
そして⋯⋯
「忘れてた。アリスへの気持ちは、普通の恋愛感情とは違うんだ。だって、兄と呼ばれてこんなに嬉しいんだよ」
「私も、たぶんそう。恋愛と混同しちゃだめだったんだ」
恋愛と混同して、兄妹への想いを否定してきた。
それが、もうひとつの矛盾。根本的な、私たちの間違い。
「はは、なんだか、僕たちは馬鹿なのかな」
朔が笑って立ち上がったと思ったら、ふわっといい匂いがした。どこの洗剤でもシャンプーでもない、彼だけの微かな匂い。
大きくなってからは、嗅いでいなかった気がする。女の人の強い匂いで上書きされていたから。あるいは、僅かな匂いを嗅ぎ分けるほどの距離にいなくなったから。
「さ、朔?」
近くにいる。懐かしい匂いを感じるほど近くに。昔と同じように、細長い腕に包まれていた。朔がこんなに背が高かったなんて、知らなかった。
「嬉しいんだよ」
優しい声が耳元で聞こえてくすぐったい。
「あのね、アリスが妹であることを嫌だと思ったことは、一度もないよ。ただ、"妹だから"っていう線引きがあるこの世界が、ほんの少し恨めしいだけなんだ」
ぎゅっと身体を締め付けてくる強い力が、朔がもう小さい男の子ではないことを示していた。それでも私は嫌だとは思わなかった。何もかもが細く儚い朔が、今にも崩れてしまいそうで、そっと腕を彼の背中にまわす。
受け入れていいのだ。朔の気持ちも、自分の気持ちも。
「じゃあもう、あんまりふらふらしないで。ちゃんと家に帰ってきて」
「アリス。可愛い僕の妹。やっぱり寂しかったの?」
朔が身体を離し、意地悪い笑みを浮かべて顔を覗き込んできた。私は綺麗な瞳に目を奪われる。
「薄紅色⋯⋯」
浅葱色の奥に隠れていた明るい色が、いつもよりはっきり見えた。
加藤さんの薄紅色を見る前も、私はこの色を知っていた。朔が与えることを躊躇って、私は受け取ることを躊躇った色。いけないことだと思っていたから。知らないフリをして心の奥底にしまっていたのに、千翔くんのせいで、最近は意識と無意識の狭間に出てくるようになっていた。
しかし⋯⋯。
思わず笑ってしまう。
「私も忘れてた。朔の薄紅色は他の人と違うんだ」
加藤さんに向けられた色とは違う。もっと、純白を混ぜたような淡い色。
もっとちゃんと見れば良かった。目を逸らして決めつけていたから、苦しかったのだ。純粋な兄の愛情が、いつでもそこにあったのに。
両手を伸ばして白い頬に触れてみる。朔は不思議そうな顔をしていた。こんなに満ち足りた気持ちになったのは、いつ以来だろう。
「きれい⋯⋯」
「なに?褒めても何も出ないよ」
朔が満更でもない顔で言う。私は急に恥ずかしくなって、ぱっと手を引っ込めた。
「別に。寂しいわけじゃない。身内にふしだらな人がいたら誰だって嫌でしょ」
「ふしだら⋯⋯」
「そうでしょ。女性を取っかえ引っ変えして」
「ああ、アリスにそう言われると頭が痛いね」
朔も体を離して額を押さえる。
「そもそも、アリスがいけないんだよ。そんな可愛いから、他の人で気を紛らわそうとしたんじゃないか」
「キモい」
「わぁ、ツンデレは変わらないんだね」
「デレはもうないから」
朔は楽しそうに笑っていた。浅葱色も美しかったけれど、やはり、何の憂いもなく笑っている兄が好きだ。
兄への反抗期が終わるわけではないようだけど、一緒にいて胸が苦しくなることは、もうないのだろう。




