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運命の鎖  作者: 桔梗
浅葱色の新月
26/63

矛と盾

 私は家の鍵がかかっていないことに違和感をおぼえながら、ドアを開けた。


「ただいま」


 その言葉も、久しぶりに言った気がする。様子を見ながら中へ入ると、すぐにととっと足音が聞こえた。


「おかえり。そしてただいま」


 満面の笑みが、リビングのドアから覗く。いつもと変わらない朔に妙にほっとしながらも、靴を脱いで家にあがる。


「まったく、学校もいかないで何してたの。皆心配してたんだよ」


「ごめんなさい。今日は学校も行ってたんだよ。⋯⋯知らない人は来なかった?」


 やはり亜季さんのことが原因だったのだろうか。美味しそうな匂いのするリビングへ向かいながら、朔は伺うようにこちらを見ている。そうだとしたら、朔は亜季さんを誤解しているかもしれない。


「うん、亜季さんには会ったよ」


「え」


 思った以上の反応だった。少し面白くなって、すました顔で朔の横をすり抜ける。やはり夕飯は既に用意されており、机に2人分並んでいた。


「大丈夫だって、何もされてないから」


「そっか⋯⋯」


 戸惑った様子を見せるが、詳細は聞きたくても聞けないようだ。


「亜季さん、朔とはもうきちんと別れたって話してたよ。見かけたのはたまたまだって。悪い人には見えなかった」


「怒ってないの?」


「どうして?」


「どうしてって⋯⋯僕と一緒に過ごしてた女の人が、その、アリスの前に現れちゃったから」


「別に。まぁ、最初はなんだこの人って思ったけど。色々話できて面白かったし」


「そうなんだ、亜季ちゃんが⋯⋯」


 朔の口から彼女の名前を聞くのは不思議な感じだ。


 しかし、朔は何を気にしているのだろう。向かい合わせに席についても食べ始めない彼を見て、箸に伸ばしかけた手を引っ込める。


「朔は、どうして亜季さんを警戒してたの?」


 思いきって聞いてみると、不思議な顔をされた。


「警戒?」


「亜季さんを学校の前で見て、だから亜季さんを警戒して、しばらくどっか行ってたんじゃないの?」


「ああ、まぁそうだけど⋯⋯」


 歯切れが悪い。


「亜季ちゃんを警戒っていうか、アリスのことを知られたくなかったから」


「私?」


「うん、亜季ちゃんはいい人だから、別れた後も何もしてこないのは分かってたよ。でも、僕の事情にアリスを巻き込みたくはなかったんだよ」


 まさか。


「それだけ?いなくなった理由」


「うん」


軽く目眩がする。なぜ、なんでもない顔で頷いてみせるのか。様々な不安要素を残していなくなった理由が、それとは。


「くっだらない」


 大きく息を吐いて、椅子の背にもたれかかる。


「そんなことで皆に心配かけてたなんて、くだらない。騒いでたのがバカみたい」


 色々な人を巻き込んで朔を心配していたのに、逆に私の方が心配されていたなんて。真田先輩が朔のことを馬鹿だと言っていたことに納得する。


 朔は戸惑ったように、こちらをぽかんと見ている。


「ていうか、朔がいなかったから亜季さんと話すことになったんだよ」


「そうなの?」


「そうだよ。逆効果じゃない。亜季さんにまで心配させて」


 朔は私の言葉に本気で落ち込んだようだ。決まりの悪そうな顔をする。


「でも、やっぱり分からない。亜季さんがいい人なの分かっているなら、別に、私に合わせないようにしなくてもいいでしょ?」


 どちらにせよ、朔は亜季さんを信用していなかったことになる。


「いいや。⋯⋯だから嫌だったんだよ」


 朔は小さく笑って呟く。目の中の浅葱色が濃くなる。それを見ると胸騒ぎがする。


「アリスが、僕の恋人ともいえる人のことを何とも思わずに、そうやって平気な顔で受け入れてるのを見るのが、嫌なんだよ」


 眉をひそめる。意味が分からない。修羅場みたいになるのが嫌だったのではないのか。


 そんな私を朔はますます悲しそうに見る。


 いつもそうだ。私には彼の憂いが分かるけど分かりたくない。けれど、浅葱色を見ると胸がぎゅっとする。


 朔は首を振って口を閉ざしてしまった。


 私は、千翔くんと梓馬くんとの会話を思い出していた。このままでいいわけがない。何かを変えたいならば、私が動かなければならない。私のやるべきこと。


私は矛盾を解消するために動いている。ならば、まず矛盾の確認が必要だ。


「朔は、妹のことをどう思ってるの?」


 何気なく聞けたと思う。声は震えていない。だが、朔は震えていた。よく見ないと分からない程度に、小刻みに手が震えていた。


 ふと朔が笑った。笑っているのに、泣いていた。私は浅葱色に手が届かない。


「僕は、君が一番大切なんだよ」


 息を呑む。


「"私"が⋯⋯?」


「どうしても、そうなんだ」


 それはだめだ。矛盾だ。朔は妹が一番大切であるべきなのだ。朔もそれは分かっているはずだった。だから、こんなにも悲しい色を浮かべる。


 そもそも質問に答えていない。


(あれ⋯⋯?)


 いつもはなんとも思わないことが、引っかかった。


 "私"とは何なのだろうか。どうして、私は朔が大切で、朔は私が大切では、だめなのだろうか。


 亜季さんに、朔のことをどう思っているかと聞かれたとき、私は答えられなかった。梓馬くんに、朔とどういう関係かと聞かれたときも。明白だったはずなのに、答えられなかった。


 そして千翔くんは、比べる必要はない、と言った。


 やっと分かった気がする。


「私は、兄が一番大切」


 朔が目を伏せる。


「今も昔も、たぶんこれからも」


「うん、知ってる」


「それで、朔も大切」


「え⋯⋯?」


 浅葱色。朔の瞳の奥で揺らいでいる。とても綺麗。


 でも、朔にとっては良くない色のはずだ。だから私は、それを取り除きたい。


「だって、兄と朔を比べることはできないでしょう?」


 そっちの方が矛盾だったのだ。朔はまだそれに気づいていない。


「でも、それは⋯⋯」


「朔は、妹が大切じゃないの?」


「うん、それはもちろん。⋯⋯ちょっと待って、よく分からなくなってきた」


 そうだ。本当は、よく分からないことを言っているのだ。それにすら、私たちは気づいていなかった。


「私たちの気持ちって、そんなにいけないこと?解離しなければいけないほど?」


 朔がゆっくりとこちらを見る。


「色んな大切とか、色んな⋯⋯好きとか、あっていいと思うの」


 言いながら自分でも気づく。そういう考えもあるのだと。


 私は私が言っていることが正しいかは知らない。しかし、少なくとも私たちにとっては、これを信じることが楽になる方法だと思うのだ。


「色々な⋯⋯」


 浅葱色がゆらめく。


 泣かないで。私の大切な大切な⋯⋯


「お兄ちゃん」


 朔が目を見開く。その大きな瞳が、本当にゆらめいている気がした。瞬きを繰り返すたびにゆらめきが光り、濡れていることが分かる。


「そっか、僕の好きは、別に悪いことじゃないんだ」


 朔はかすれた声で呟く。


 私は兄の朔が、朔は妹の私が一番大事。子供の頃は純粋に受け入れていたその気持ちが、大人になって恋愛というものを知るにつれて、良くないものと感じるようになっていた。


 良くないのに大事だと感じてしまうことが、矛盾だと思っていた。


 大切なのはあくまで兄弟であって、''朔''と''アリス''への恋愛感情ではないのだと思おうとした。結果、無意識に解離するようになっていた。”兄”と”朔”、”妹”と”アリス”を。そのおかしさに気づきもせず。


 けれど、たぶん私たちを繋ぐものは、皮膚の下に流れる血だけなのだ。だから、完全に''朔''と''アリス''でいることはできない。"兄''と''妹''であることと分けてはいけなかった。


 本来、矛盾はそこにあったのだ。


 そして⋯⋯


「忘れてた。アリスへの気持ちは、普通の恋愛感情とは違うんだ。だって、兄と呼ばれてこんなに嬉しいんだよ」


「私も、たぶんそう。恋愛と混同しちゃだめだったんだ」


 恋愛と混同して、兄妹への想いを否定してきた。


 それが、もうひとつの矛盾。根本的な、私たちの間違い。


「はは、なんだか、僕たちは馬鹿なのかな」


 朔が笑って立ち上がったと思ったら、ふわっといい匂いがした。どこの洗剤でもシャンプーでもない、彼だけの微かな匂い。


 大きくなってからは、嗅いでいなかった気がする。女の人の強い匂いで上書きされていたから。あるいは、僅かな匂いを嗅ぎ分けるほどの距離にいなくなったから。


「さ、朔?」


 近くにいる。懐かしい匂いを感じるほど近くに。昔と同じように、細長い腕に包まれていた。朔がこんなに背が高かったなんて、知らなかった。


「嬉しいんだよ」


 優しい声が耳元で聞こえてくすぐったい。


「あのね、アリスが妹であることを嫌だと思ったことは、一度もないよ。ただ、"妹だから"っていう線引きがあるこの世界が、ほんの少し恨めしいだけなんだ」


 ぎゅっと身体を締め付けてくる強い力が、朔がもう小さい男の子ではないことを示していた。それでも私は嫌だとは思わなかった。何もかもが細くはかない朔が、今にも崩れてしまいそうで、そっと腕を彼の背中にまわす。


 受け入れていいのだ。朔の気持ちも、自分の気持ちも。


「じゃあもう、あんまりふらふらしないで。ちゃんとここに帰ってきて」


「アリス。可愛い僕の妹。やっぱり寂しかったの?」


 朔が身体を離し、意地悪い笑みを浮かべて顔を覗き込んできた。私は綺麗な瞳に目を奪われる。


「薄紅色⋯⋯」


 浅葱色の奥に隠れていた明るい色が、いつもよりはっきり見えた。


 加藤さんの薄紅色を見る前も、私はこの色を知っていた。朔が与えることを躊躇ためらって、私は受け取ることを躊躇った色。いけないことだと思っていたから。知らないフリをして心の奥底にしまっていたのに、千翔くんのせいで、最近は意識と無意識の狭間に出てくるようになっていた。


 しかし⋯⋯。


 思わず笑ってしまう。


「私も忘れてた。朔の薄紅色は他の人と違うんだ」


 加藤さんに向けられた色とは違う。もっと、純白を混ぜたような淡い色。


 もっとちゃんと見れば良かった。目を逸らして決めつけていたから、苦しかったのだ。純粋な兄の愛情が、いつでもそこにあったのに。


 両手を伸ばして白い頬に触れてみる。朔は不思議そうな顔をしていた。こんなに満ち足りた気持ちになったのは、いつ以来だろう。


「きれい⋯⋯」


「なに?褒めても何も出ないよ」


朔が満更でもない顔で言う。私は急に恥ずかしくなって、ぱっと手を引っ込めた。


「別に。寂しいわけじゃない。身内にふしだらな人がいたら誰だって嫌でしょ」


「ふしだら⋯⋯」


「そうでしょ。女性を取っかえ引っ変えして」


「ああ、アリスにそう言われると頭が痛いね」


 朔も体を離して額を押さえる。


「そもそも、アリスがいけないんだよ。そんな可愛いから、他の人で気を紛らわそうとしたんじゃないか」


「キモい」


「わぁ、ツンデレは変わらないんだね」


「デレはもうないから」


 朔は楽しそうに笑っていた。浅葱色も美しかったけれど、やはり、何の憂いもなく笑っている兄が好きだ。


 兄への反抗期が終わるわけではないようだけど、一緒にいて胸が苦しくなることは、もうないのだろう。

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