亜季・出会い
長い春休みも終わりに近づいてきた頃、宮島亜季は1人で街を歩いていた。何か目的があるわけではなかったが、いいかげん家にいるのも飽きていた。
大学の春休みは、高校までと比べてありえないくらい長い。やることと言えば、サークル活動くらい。それも、この間の合宿でひと段落ついた。
とにかく暇だったのだ。
外の空気は思ったより気持ちよかった。人間にとって一番過ごしやすい気温で、太陽は世界を明るく見せている。
亜季は少し華やかな通りを歩きたい気分で、大きな通りに出た。いつもは気になる人混みが、今日は気にならなかった。
せかせかと進む多くの頭を見ながら歩いていると、規則正しく流れる人混みの中に、乱れが生じていることに気がづいた。皆が真っ直ぐ歩く中で、1人だけふらふらとおぼつかない足どりの人がいる。
亜季は流れに沿って歩いていたので、前にいたその人との距離は自然と近づいていった。
黒いパーカーを着た背の高い男の背中が見えてくる。その細い身体が、亜季の目の前でふらりとよろめいた。
思わず足を止める。
「大丈夫ですか?」
面倒だったけれど、目の前でふらつかれて声をかけないわけにはいかない。
振り返った彼は、意外と若く見えた。そして、見とれてしまうほどに端正な顔立ちをしていた。声をかけてよかったと現金なことを考えてしまう。
「あ、ごめんなさ⋯⋯」
またふらりとよろける。思わず彼の腕を掴んで支えた。この時点で既に、亜季の中の面倒だという思いは消えていた。
しかしよく見ると、彼の顔色はあまり良くない。人の流れを遮っていることに気づいて、取り敢えず道の端に彼を引っ張っていく。
「大丈夫?顔色悪いよ」
「すいません、昨日の昼から何も食べてなくて」
「え、何もって⋯⋯」
1日以上食べていないことになる。
彼は、亜季より若く綺麗な身なりをしていた。おおかた家出か何かだろう。迷子センターにでも届けるべきか。
「家は?送るくらいお姉さんがしてあげてもいいけど」
彼は苦笑いして首を振った。
「僕一応16ですよ。でも家には帰りません。取り敢えず、今日タダで泊まれるところ探してるんですけど⋯⋯」
「無いわよそんなとこ。そこらへんのホームレスと一緒に公園で寝る気?」
「それは嫌だなぁ」
彼が呑気に言うと同時に、お腹の音がぐるぐると聞こえてきた。彼は、あははとお腹を抑えて笑う。亜季はそのお気楽さに呆れてため息をついた。
少し迷いはしたが、年下ということと人の良さそうな綺麗な顔が、亜季の警戒を緩ませた。
「何食べたい?」
「え?」
「何でもいいよ。あ、でも出来れば安めで」
彼は目を見開いて亜季を見つめていた。
「だから、奢ってやるっていってるの。どうせ家出か何かでしょ、少年」
「家出の少年⋯⋯そう見えますか?」
子供扱いが嫌なのか、苦笑いして言う。
「まあ、私からしたら君は迷子の子供よ。ま、そんなことはどうでもいいんだけど、どうするの?」
彼も迷うような素振りを見せたが、すぐににこりと屈託なく笑った。
「じゃあ、家出少年は素直に甘えますね」
亜季は、特に食べたいものはないと言う彼を連れて、近くのファーストフード店へ向かう。
少し聞いた話によると、彼の名は柳朔。16歳で来年度から高校2年生。好きなことは日向ぼっこ⋯⋯。驚いたことに、家に帰らないことについて、家の者は黙認しているということだった。
「君それ、家出じゃなくて家追い出されたの間違いじゃない?」
「僕は家出なんて一言も言ってませんよ。でも、追い出されたわけでもないです。自主的」
朔は軽く笑ってみせる。確かにその様子からは、あまり深刻な家庭事情は感じられなかった。
「自主的にホームレスになる馬鹿がどこにいるのよ。今日だって、どうするの?」
「え?亜季さんが泊めてくれるんじゃないんですか?」
当たり前のように言う朔に面食らった。
「はあ?いつそんなこと言ったのよ」
「軽く泊めてくれるかなーって」
あはと笑う朔に、また呆れて何も言えない。家出少年のことだから、泊めてというのはきっと、今日だけという意味では無いのだろう。これが普通の男だったら、即断って帰るところだ。しかし、生憎、目の前の顔が綺麗過ぎて困るのだ。
しばらく無言の駆け引きがあったが、やがて亜季が口を開いた。
「君、何が出来るの?」
「はい?」
「だから、料理とか洗濯とか掃除とか」
「えっと、親元を離れてるので基本的に何でも出来ますよ。料理もそこそこ」
「親元離れてるって⋯⋯まあ、料理が出来るのはいいわね」
「泊めて、くれるんですか?」
朔が恐る恐る聞いてくる。
亜季は肩をすくめて小さく頷いた。最近退屈していたので、暇つぶしにはなるだろう。それに、他の男と違って彼からは下心が見えない。
自分が危ない道に進もうとしていることは、自覚していた。
「ありがとうございます!」
本当に嬉しそうに笑う。亜季はこの笑顔に負けたのだ。
「今日はとうとう野宿かと思いました。それにしても、亜季さんそんなに警戒しなくてもいいのに」
「君ねぇ、警戒するのが普通よ。むしろ、私は今ゆるゆるでしょ」
「そうなんですか?今までの女の人は軽く泊めてくれたんだけどなぁ」
唖然とする。純粋そうな顔をして何てことを言うのだ。亜季は初めて朔の性質に気づかされた。なるほど、彼はその端正な顔を無自覚に武器にしてきたようだ。さぞ多くの女たちが寄ってきたのだろう。
今日の寝床も決まっていないのに気楽に構えていたのも、頷ける。
「そんなことするのは軽い女だけよ」
「じゃあ亜季さんも軽い女ですね」
無邪気に笑うその綺麗な顔を殴りたくなった。
「そこらへんの女と一緒にしないでよね。料理は毎日作ってもらうし、君にお金使う余裕はないし、まあ、流石に命狙われたらやばいかもだけど」
「ええ、すごく警戒してるじゃないですか」
「当たり前よ。ていうか、もしかして君の家出期間ずっと泊めるってこと?」
「え?違うんですか?」
さも意外そうに言うその顔をまた殴りたくなった。
「ま、待ってください。でもさっき、料理は毎日作ってもらうって言いましたよね。それって今日から毎日泊まっていいってことですよね」
亜季の怒気を感じたのか慌てて言う。しまった。確かに言ってしまった。亜季は今日何度目か分からないため息をついて、氷だけ残ったドリンクカップをドンと置いた。
「ああ、もういいわよ。でも私を満足させられなかったら即出てってもらうから」
乱暴に言ったが、亜季もまんざらではなかったのだと思う。
まさか家出期間が4ヶ月近くにも及ぶなんて、まさか自分がこんなにも彼に惹かれてしまうなんて、思ってもいなかったが。




