一番大切なもの
梓馬くんが夜に朔を見たとき他の誰かがいたかもしれない、という可能性を聞いたときから、ずっと考えていた。意を決したのは、生徒会室で調査をした翌日、ちょうど朔がいなくなって1週間経った土曜日だった。
私は部活終わりに学校から出たところで、携帯を取り出してある人の電話帳を開いた。覚悟を決めて通話ボタンを押す。呼び出し中の音に合わせて深呼吸をする。
『はい』
慣れない声にどきっとした。
「あの、先日お会いした有里朱音です」
『あら、朱音ちゃん。どうしたの?』
宮島亜季さんの嬉しそうな声がスピーカーから聞こえてくる。公園で話したとき、彼女に言われて連絡先を交換したが、使うことがあるなど思ってもいなかった。
「少しお聞きしたいことがあって」
『なんでも聞きなさいよ。あ、ちょっと待って、今どこ?』
「学校ですけど⋯⋯」
『朝高だよね。学校の前にカフェあるでしょ、そこまで来れない?』
「はぁ、行けますけど」
『せっかくなら直接会おうよ。私もすぐ行くわ』
亜季さんはそう言うと電話を切ってしまった。唖然としたのも束の間、少し歩いていたのを引き返して、学校の前まで戻る。ほんの一瞬だったはずなのに、亜季さんはすでにカフェに来ていた。
アマゾン育ちも死にそうな天気の中、『カフェ・クレオメ』と書かれた看板の前で彼女は律儀に待っていた。前回同様、短パンにTシャツというラフな格好だった。Tシャツはアメリカの国旗柄だ。
「すいません、お待たせしました」
今日はサングラスをしていなかったので、振り返ったその目が日差しで細められていた。しかし、私の姿を目にすると、ぱっと笑顔を浮かべる。今来たところ、とスマートに決まり文句を言って中に入るよう促した。
このカフェ・クレオメは、おしゃれなカフェがどこもそうであるように、外装は一見目立たなかった。だから、毎日通るはずの朝高生も入っているところは見たことがない。高校生にはおしゃれすぎるというのもある。少し先のファミレスの方が、よほど馴染みがあるのだろう。
店内は少し暗めで、それが雰囲気を出していた。おしゃれの代名詞ジャズが静かに流れている。店のマスターとカウンターに1人おじさんがいるだけで、あとは誰もいなかった。私たちは窓際に向かい合わせで座る。
ギャルのような格好で大人っぽくコーヒーを頼む亜季さんのミスマッチさが、少し笑える。とはいえ、私も少し背伸びして彼女と同じコーヒーを頼んだ。
「ちょうど今日は暇してたんだよね」
亜季さんはおもむろにそう言った。
「近くにいたんですか?」
「家がすぐそこなの。朝高の裏」
彼女の家にいる間、朔はさぞ学校に行くのが楽だっただろう。
「朱音ちゃんは今日部活ないの?」
「土曜は午前中で終わるんです」
「へぇ。何やってるの?」
「弓道です」
「かっこいい!」
思えば、亜季さんのことは朔の元カノということ以外何も知らない。それは向こうも同じだったようで、しばらくお互いのことを聞き合った。
彼女が霧島大学という朝高と系列が同じ大学へ通っていること。サークルで音楽ばかりやっていて、勉強は落ちこぼれているらしいこと。ここ、クレオメと同じ感じのカフェでバイトしていること。コーヒーはブラック派であること⋯⋯。
やはり、彼女は見た目はギャルだが、中身は普通だった。クラスメートの亜紗美よりよく話し、たるとよりはテンション低め。ほぼ初対面だが、話しやすかった。波長が合うとはこういうことを言うのだろう、と思う。それから、年上だからか、周りの友人よりもまともだと感じる。
「そういえば、先週の土曜日見かけたよ」
ちびちび飲んでいたコーヒーがやっと半分まで減った頃、彼女が唐突にそう報告してきた。生徒会室でたむろしていた日だ。そして、朔がいなくなった日。私はやっと本題を思い出す。
「先週って⋯⋯まだ知り合う前じゃないですか」
「うん、その何日か前に朔くんと家に入るとこ見かけたから、顔覚えてたんだ」
彼女はバツの悪そうな顔をする。
「土曜日は、友達の家行く途中に朱音ちゃんが学校入るとこ見かけてね」
私がまだ彼女を知らないうちに、2度も目撃されていたわけだ。彼女が朔と一緒にいる私を見て何を思ったかと考えると、複雑な気持ちになる。こうして直接話ができる仲になって、よかったのかもしれない。
「朔のことで、聞きたいことがあるんです」
私は気を引締めて本題を切り出した。彼女も少し姿勢を正す。
「電話でも言ってたわね。どうしたの?」
「先週の水曜日の夜、何か普段と変わったことをしませんでしたか?」
「先週の水曜日?」
彼女は記憶を辿るように斜め上を見た。しかし、その後一瞬顔が強ばるのを、私は見逃さなかった。
「どうしてそんなこと聞くの?」
平静を装っているが、いくらか硬い表情でこちらを見る。
「学校で少し不思議なものを見たクラスメートがいまして。朔が関わってるから、もしかしたら亜季さん何か知っていないかなと思ったんです」
慎重に、ぼやかして言う。しかし、彼女は今度はきょとんとした顔をした。
「学校で?知らないなぁ。その日は夕方早めに帰ってから家出てないもの」
「え、本当ですか?」
聞き返すまでもなく、彼女が嘘をつけないことを先ほどの強ばった顔で確認していた。
「ええ。あ、でも⋯⋯朔くんは夜外に出てたな」
「それ!何時頃ですか?何しにどこへ?」
思わず身を乗り出す。
「え、ええと、20時には家にいなくて⋯⋯時計を見たから確かだけど、そのあとすぐに帰ってきたわ。気づかないうちに出ていっちゃったから、何しにどこへかは分からないけど。散歩って言ってた」
夜8時。梓馬くんは忘れ物を取りに行ったと言った。しかし、月が見えると思ったくらいの暗い時間。おそらく、8時頃はどんぴしゃな時間だろう。あとで確認しよう、と考える。
しかし、散歩とは⋯⋯
「同じ家にいて気づかなかったんですか?」
「ええ、その日は夕方に一度寝ちゃったのよ」
彼女が目を逸らして言う。
さっきの強ばった顔といい、気になることはある。しかし、梓馬くんの見たものと関係ないのなら、深く追究することはない。
「ああ、でも変わったことと言えば、見慣れない上着着て帰ってきたな。顔赤かったし、暑そうだなと思ったんだよね」
それは私も見つけた。明らかに年季の入った渋い緑の上着だったが、見たことがなかった。しかし、その内側には少し赤い染みがついていた。
「その下は白いYシャツでしたか?」
「たぶん」
「無地の?」
「朔くん、柄ものは持ってなかったと思う。見たことないわ」
しかしそのシャツには、染みがついていたはずだ。
「上着脱いだところは見なかったんですか?」
「え?ああ、そういえば、帰ってきてすぐお風呂に入っちゃったのよね。夕方にも1回入ってたのに」
「お風呂に⋯⋯」
何か分からないが、染みの原因となった液体が身体にもついて、風呂に入ったということか。梓馬くんが見たものは、概ね正しいということだ。
「散歩で何かあったとか聞きませんでしたか?」
「トラブルがあったって言ってたかも。それ以上は聞いてないな」
一緒にいたのは亜季さんではなかった。いや、誰とも一緒にはいなかったのかもしれない。千翔くんも、誰かといたとは断言していなかった。結局、大した収穫はなさそうだ。
「でも、その朱音ちゃんのクラスメートが見たっていう不思議なものって?」
「話せば長くなるんですけど、朔がいなくなった原因がそこにあるんじゃないかと考えてまして⋯⋯」
「いなくなったって⋯⋯別の女のところじゃないの?」
朔の性質を分かっている亜季さんも、さすがに他の女性のもとへいることは快くないようだ。
「はい、居場所が分からないのはいつものことだし、今回もそうだと思っていたんですけど、学校にも来てなくて」
「そうなの?私のところいる時も学校はきちんと行ってたのに」
「その他にもいままでと違うところがあって」
「それは心配ね⋯⋯。いつからいないの?」
「先週の土曜日です。亜季さんが見たとおり、私は学校に来てて、後から朔も来たんです。でも、先に帰っちゃって⋯⋯」
言いかけて、ふと朔の去り際の言葉を思い出す。まさか。私はある可能性を思いつき、あの時の朔の様子も必死に思い出す。上の空で外を見つめていた朔。アイスのゴミを回収すると立ち上がる前、その瞳が何かを写したようだった。
「あの、亜季さん、土曜日に友達の家から帰ったのは何時頃でしたか?」
「え?お昼食べた後、2時くらいかな」
「じゃあ帰りに学校の前通ったとき、朔を見かけたりとかはしませんでしたか?」
「いいえ、朔くんは見てないわ。でも、まあ、ちょっとだけ立ち止まったけども」
亜季さんはまたバツの悪そうな顔をする。
「もしかして学校の方見たりしました?」
「し、したよ。朱音ちゃん見かけたから、朔くんもいたりしないかなって」
最後の方はごにょごにょと言う。
可能性は高い。私は自分の中でパズルが組み立てられていくのを感じて、高揚感をおぼえる。
「それがどうかした?」
「朔、お昼後から来てたんですけど、すぐに帰っちゃって。帰るとき、『知らない人が来てもむやみに情報を与えちゃだめだよ』って言ってて、子供じゃあるまいしって思ったんですけど⋯⋯」
亜季さんは目を見開いてこちらを見る。彼女もその可能性に思い当たったようだ。
「まさかとは思うけど⋯⋯知らない人ってあたし!?」
店内に亜季さんの声が響く。彼女ははっと口を押さえた。しかし、不服そうな顔のままだ。
「まったくひどいなぁ。なんでそんな⋯⋯あ、そっか」
はっとして手を下ろす。
「朔くんからしたら当たり前よね。別れた相手が自分の学校にいたら、逃げたくもなるわよ」
彼女は苦笑いして、冷めかかったコーヒーに口をつける。
私は少々申し訳なく思っていた。余計なことを言ってしまった。
「その日からいなくなっちゃったんだもんね」
「はい、その日学校でまたしばらく帰らないって言って、本当に帰ってきませんでした。いつもは荷物も持っていくんですけど、それもそのままに」
「じゃあやっぱり、朔くんがいなくなったのって私のせいじゃない?」
頭を抱える彼女に、返事に迷う。
「未練たらたらの女が追いかけてきたって、思ったのかな」
「そう、でしょうか⋯⋯」
それはあまり想像できない。そもそも朔は、女の人なら誰でもいいようで、結構選んでいると思うのだ。いままでそのようなトラブルはなかったようだから。土曜日に亜季さんを見て帰った可能性は高いが、一度見ただけでここまで逃げるような人ではないと思う。
そのままそう亜季さんに伝えると、彼女も頷いた。
「うん、確かにそういう人には見えないわね。それに、別れるときもさっぱり別れたし⋯⋯向こうだって私の性格分かってるはずだし⋯⋯」
私は少し感じていたことを、思い切って聞いてみることにした。
「あの、もしかして別れたのって水曜日の夜ですか?」
彼女はふっと苦笑いした。
「ええそうよ。夕方目が覚めたら隣に居なくて。私はそこで、もう帰ってこないのだと確信したわ。でもあの人は戻ってきたの」
「え?」
「さっきも言ったでしょ。8時過ぎに帰ってきたって。散歩してきたって、なんでもない顔で言って。でももう私たち潮時だってお互い分かってたから。次の日の朝、朔くんが学校行く時にお別れを言い合ったの」
「そうでしたか⋯⋯」
朔が私の家に来たのは木曜日だった。ちょうど日が合う。彼女の反応を見ても、薄々そんな気がしていた。
「じゃあ、最後にもうひとついいですか?」
「いいわよ。最後と言わずに。私、朱音ちゃんのことは結構気に入ってるんだ」
眉を下げて言う亜季さんの言葉は、素直に嬉しい。だからこそ、きちんと聞いてみたかった。
「亜季さんは、朔のことどう思っていますか」
彼女は動じた様子を見せなかったが、真剣な顔で私を見る。私も、逸らしそうになる目を、なんとか前へ向けていた。
「そうね、正直言ってとても好きよ。きっと、ここまで惹かれた人はいなかった。私だって、本当に恋人と呼べる関係になりたかった。でもね⋯⋯」
彼女は笑みを浮かべる。私にはこんな顔はできない。
「朔くんにとって一番大切なものは、別にあったのね。すごくショックだったのは間違いないんだけど、それを実際に私の目で見た時、私は納得しちゃったの。私には朔くんにあんな顔をさせられない。何が良いとか何が悪いとかじゃなくて、ずっと朔くんにとって大切なものはそれであって、それは揺るがないものなんだなって気づいちゃった。私は朔くんの大切なものを受け入れちゃったの。だから、結局は私もそこまでの気持ちだったのかなって⋯⋯」
だんだんと早口になっていった彼女の言葉が揺らいで、ぷつりと途切れた。彼女は自分の手を目元にやる。
「だめね、まだ感情的になるな」
ストレートな言葉の1つ1つが、私の心臓を突き刺していくようだった。一番大切なもの。きっと、彼女にとって、それは朔だったのだろう。今の朔にとっては、何なのだろうか。
亜季さんは泣いていた。涙は出ていないが、心が泣いていた。朔と同じ、浅葱色。
全然、そこまでの気持ちなんかじゃない。私は、そう無意識に思う。亜季さんはきっと、本当に心の底から朔が好きだったはずだ。ただ、彼女はとても強かっただけだ。彼女はずっと大人だっただけだ。
「きっと、感情的で正解なんです」
私は、自分の感情がどこにあるのかも分からない。大切なものを大切だと言うことすらできない。自分の感情を知りながら、それでも理性的であろうとする亜季さん。私の目には、彼女がとても美しく見えた。
「私はあなたのような大人になりたい」
ふと言葉が口をついてでる。
亜季さんは手の間から僅かに目を覗かせ、驚いたような表情を見せる。直後、困ったような照れたような顔で、ふっと笑った。




