コイビト
翌週の月曜日、朔が学校に来ていないらしいと、満先輩、たると経由で聞いた。翌日も、翌々日も。もちろん土曜日から家には来ていない。
突然私の前からいなくなるのは、いつものことだ。しかし、同じクラスの満先輩によれば、学校を休むのは珍しいらしい。
朔が心配じゃないと言えば嘘になる。何もないわけはないだろうから。
土曜日に家へ帰ると、いつもは綺麗に持ち去られている朔の荷物が広がったままだった。朔は学校を出てから家に帰っていないということだ。
そこでまず違和感を覚えた。
さらには、その広がった荷物の中に、赤っぽい染みがついたシャツと香水のビンを発見してしまった。どちらもあのミントのような匂いがした。香水はどこかの女の人から貰ったものだと思う。
ただ、シャツの方はそのミントの匂いに混じって、微かに甘い匂いがした。
梓馬くんから聞いた不思議な話は、怪談話のようで、どこまでが真実か分からなかった。しかし、サロメのワンシーンのような光景ははっきりと想像できる。恐ろしいほどに、朔にとてもよく似合うのだ。しかも新月の日だという。
何もないわけがない。
しかし、昨日メールを送ってみたところ、返事は普通に返ってきた。そのうち戻るから心配しないで、という感じの曖昧な返事だった。
とりあえず無事なことは分かっている。どうせ女の人のもとにいるのだろう。そんな人は放っておけばいい。
***
変化があったのは、水曜日だった。部活を終えて家へ帰ると、アパートの前で彷徨いている人がいたのだ。見るからに怪しい。私は思わず足を止める。
20歳くらいの女の人のようだった。短い茶髪でイギリスの国旗が書かれたTシャツを着、すらりと細長い足がショートパンツから伸びている。サングラスを掛けていても美人そうな雰囲気は隠しきれていない。夏の気候も合いまって、ビーチで遊ぶギャルに見える。
彼女は、アパートのどこかの部屋を見てはそこから立ち去ろうとし、また振り返って見る、ということを繰り返していた。
そのまま知らない振りをして自分の部屋に入っても良かったが、どうもその人の視線の先が気になる。ちょうど私の部屋のあたりなのだ。
しかし、もちろん私には心当たりがない。
あるとしたら朔関係だが⋯⋯それだって私には知ったことではない。朔のために私が気を遣う必要があるだろうか。
少し迷ったが、普通に部屋に行くことにした。私は過剰に彼女を意識し過ぎないように気をつけながら、足を運ぶ。
しかし、彼女のそばを通るとき、2つの予想外なことが同時に起こった。私は彼女を振り返り、彼女は私に声をかけようとしたのだ。
一瞬サングラスの奥の目と視線が交わる。すぐに目を逸らして背を向けようとしたが、今度ははっきりと、彼女が私を呼び止めた。
「ねぇ、あなた⋯⋯」
彼女が近づいてくると同時に、いい香りが漂ってくる。私を振り返らせた、あのミントのような匂い。可愛らしい香水のビンを思い出して妙な気分になる。
「はい」
すぐに彼女から離れるべきだと思ったが、私の足は動かず、口が勝手に返事をする。
「あ、いや⋯⋯道に、道に迷ったの。えっと、駅はどこかしら」
思いがけず、彼女がしどろもどろに分かりやすい嘘をつく。緊張が伝わってきたので、少しだけ彼女に同情する余裕が出た。肩の力が抜ける。きっと、朔にいいように使われた女性の1人なのだろう。
「朔はいませんよ」
彼女の体が目に見えてこわばる。当たりだ。私は追い討ちをかけるように、更に言う。
「きっとまた別の女性のもとにいると思います。それに⋯⋯」
一度離れたところにはもう戻らないと思いますよ。そう続けようとして、さすがに意地悪だと思い直す。
一度離れたところには戻らない。それは以前朔から聞いた、彼のポリシーだった。理由は知らない。しかし、大体は想像がつく。朔は今まで、私が想像つかないほど多くの女性と付き合っているだろう。それぞれとしっかり縁を切らなければ、大変なことになるに決まっている。
目の前の女性は、それほどショックを受けたようには見えなかった。私をじっと見つめてくる。
「でも、あなたのもとへは戻ってくるんでしょう?」
どきりとした。心を読まれた気がした。そして、自分の元へは戻ってこないと分かった言い方。
私のもとへは”戻ってくる”。そんな言い方がふさわしいのか、とぼんやり思う。朔が彼女に私のことを何と話したか知らない。しかし、今の私たちの関係は、”捨てられた”彼女よりも、ずっと稀薄な気がした。
彼女は黙っている私を見て、おろおろとし始める。
「ねぇ、ちょっと話さない?」
驚いて彼女を見る。
「どうしてですか?」
「そんな警戒しないで。朔くんとはちゃんとお別れを言ったのよ。だけど、たまたまここで見かけちゃったから、つい⋯⋯」
興味?と彼女は頭に手をやって首を傾げる。口元には笑みを浮かべていたが、サングラスのせいで正確な表情は読み取れない。しかし、悪い人ではないように感じた。
「少しだけなら」
私も、ミントの香りの彼女には少し興味があった。
彼女を連れて家の近くの公園へ向かう。話すのにちょうどいいベンチがあるのだ。案の定、ベンチは背後の木で日陰になっていた。私たちの他には子供連れが2組いる。子供たちの無邪気な声に、空気が少しほぐれるのを感じる。
しかし、彼女と並んで座ったはいいものの、何を話せばいいのか分からなかった。だから、彼女が口を開くのを待つ。
「あなた、名前は?」
「有里朱音です」
「朱音ちゃんね」
彼女はフランクに私の名を呼ぶと、サングラスに手を掛けた。
「私は宮島亜季。もう分かっているかもしれないけど、朔くんの元カノ⋯⋯まあ恋人だったのかも分からないけど」
サングラスの奥から現れた瞳は、大きく、きりっとしていた。しかし、きつい印象を与えず、むしろ綺麗なお姉さんという感じをいっそう強めていた。大人の余裕のようなものを含んだその視線に、なんだかばつが悪くなり、目を逸らしてしまう。
宮島さんは大学の2年生だそうだ。朔とは4ヶ月ほど前に出会い、つい最近別れたという。家がこの近くであり、以前たまたま私の家に朔と入るところを見られていたらしい。
朔が同じところに留まるのは長くても2ヶ月と聞いていたので、4ヶ月ということに驚いた。朔が嘘をついていたのか、彼女が特別なのか。
「あなたも朔くんに振りまわされてたの?」
自分が振りまわされていた、という自覚はあるようだ。
「どちらかと言えば、今も」
「へぇ、今も。そっか」
手がかかるのはいつものことだ。しかし、彼女にとっては嫌味だっただろうか、と顔色を伺う。宮島さんは特に気にとめた様子もなく、遊んでいる子供たちを見つめている。やはり、大人の雰囲気がある。最初はチャラそうだと思ったが、少しだけ考えを改める。
そのとき、風にのってふわりとミントの香りが漂ってきた。私ははっとして、自分にも話すことがあったことを思い出す。
「宮島さんは、朔に香水をあげましたか?」
一瞬何を聞かれたか分からなかったようだ。不思議そうな顔をしたが、すぐに頷いた。
「ああ、あげたわよ。ミントのやつ。それから、亜季でいいわ」
「じゃあ、亜季さん、赤い染みのついたシャツに心当たりはありますか?」
「いいや?なあに、何の質問?」
大人しくしていた私が急に話し出したことに、戸惑ったようだった。しかし、知らないのならこれ以上聞いても意味はないだろう。ミントの香水をあげたのが彼女と分かったところで、謎を解くヒントにもならない。
「いいえ、何でもないです。あれ、いい匂いだったなと思っただけです」
「ふうん。気に入ってくれたならよかったけど。⋯⋯朔くんあなたと会う時もあの香水つけてたってこと?」
亜季さんが怪訝な顔になる。
「はい」
「あーあ、だめね、朔くんも」
「え?」
亜季さんはため息をついて遠くを見ていた。何がだめなのか聞きたかったが、亜季さんは肩をすくめるだけだった。
「いいや、こっちの話。それよりさ、朱音ちゃんは朔くんのことどう思ってるの?」
「はぁ?」
思わず素っ頓狂な声がでる。それは私に質問することではないだろう。
「あはは、可愛い」
屈託なく笑う亜季さんに言われて、思わず顔を赤くする。何かが頭をかすめそうになって、早口で答える。
「別に、何とも思わないですよ」
「なんだ、朱音ちゃんはツンデレか」
また亜季さんに笑われた。思いきり顔を顰めて隣を見る。亜季さんは笑ったまま肩を竦めた。
「ねぇ、じゃあさ、朱音ちゃんはいつから朔くんとそういう関係なの?」
思わず彼女の顔をまじまじと見つめる。何のことを言っているのだろう。彼女はどこまで知っているのだろう。朔は、私のことを何と言ったのだろう⋯⋯。
「えっと、私なんか間違った?」
亜季さんが戸惑ったように首を傾げている。私は返事にならない返事をもごもごと返す。心臓が知らずに跳ね上がっている。
「言いたくなかったらいいよ。ごめんね」
「いや⋯⋯」
昔は仲が良かった。けれど、当たり前になり過ぎたのか、それとも意図的だったのか。今は、朔がどこで何をしているかすら知らない。最近は一緒にいてもよく分からない。
”そういう関係”。もし、今のこの状況のことを言っているのだとしたら。
「いつからでしょうね。もうずっと前な気がする⋯⋯」
私たちを繋ぐものはなんだろう。
「あのさ、確認なんだけど。間違ってたらごめんね」
亜季さんがこちらの様子を伺って、言葉を慎重に選ぶように口を開いた。いくらか声が優しい。
「朱音ちゃんと朔くんは、恋人同士ではないの?」
何かが胸の奥から這い上がってくる。思い出したくない何かが。おそらくそれは、千翔くんが私の中から引き出そうとした何かと同じだ。
瞬きをすると浅葱色が見える。とても綺麗な色。でも⋯⋯。コイビト?なんだろうそれは。ひどく恐ろしい言葉のように聞こえる。
私は思わず口に手をやった。
「あ、朱音ちゃん?」
見たくない何かが、自分を支配していく。気持ち悪い。どうしてだろう。とても怖い。
「朱音ちゃん!」
大きな声で呼ばれ、目の前の現実が見えてくる。茶色い地面と、自分のローファー。口から少し手を離す。吐いては、いない。が、地面にうずくまっている自分に気づく。
「大丈夫?ごめん、ごめんね」
亜季さんが私に覆いかぶさるようにして何度も謝っている。シャツ越しの背中に温かい温度を感じる。
「ごめんなさい⋯⋯」
土の茶色が視界を占拠していることが、とても安心できる。大きく息を吸って吐いてみると、自分が取り乱したことがひどく恥ずかしく感じてきた。
顔を上げると、本当に心配そうな亜季さんと目があった。この人はいい人だ、と思う。
「すいません」
私がベンチに座り直すと、亜季さんはいくらかほっとしたようだった。ちょっと待ってて、と言うとその場を離れた。公園内にある自販機で水を買ってきたようだった。ペットボトルを持ってすぐに戻ってくる。
「どうぞ、飲んで」
「ありがとうございます」
恥ずかしさを隠すように、一気に水を流し込む。冷たい液体が喉を通って、胃までたどり着くのを感じる。日陰とはいえ、暑さもあったので、それが気持ちよかった。同時に、思考も全て流されていく気がした。
「すいませんでした。今、月のものがきてて、貧血気味で」
亜季さんに軽く笑ってみせる。彼女は信じていないのだろうが、笑顔で頷いた。
沈黙がおちる。
気まずくて、何を言えばいいのか分からなかった。亜季さんも下手に口を開けないと思っているのだろう。しかし、まだ少し心配そうにこちらを盗み見ている気配がある。やはりいい人だ。
私は公園で無邪気に走り回る子供たちを見る。それを優しい顔で、しかし少し心配そうに見守る母親たちを見る。微風で揺れる深緑の葉を見る。現実を、見ている。
「私と朔は恋人じゃないですよ」
亜季さんが驚いたようにへ、と間抜けな声を出してこちらを見た。言葉の内容に驚いたわけではないだろう。
「もっと大切なものは他にあるはず」
風を体いっぱいに受けながら自転車で通り過ぎる高校生を見る。子供の1人が蛇口を回して真上に吹き出た水を見る。まっすぐに。何か貴重なものを見るような目で見てくる亜季さんを、見る。
「大切なものは、他にあるんです」
ずっと、一番大切なものは変わっていないのだ。少なくとも私は。
自分が笑みを浮かべていることに気づく。どうしてこんな話を彼女にしてしまったのだろう、と遅れて考える。彼女はたった先ほど会ったばかりの、よく知らない人だというのに。
「朱音ちゃんと朔くんのことはよく分からないけど、ひとつだけ分かったわ」
亜季さんが笑顔を返してくる。
「あなたたちは似たもの同士ね」
思わず目を見開いた。何を言い出すかと思えば。しかし、なぜだか、心臓のあたりがぎゅっと痛くなる。それが良い感情なのか悪い感情なのか、今の私は判断できるほど大人じゃない。
ただ、無性に朔に会いたかった。




