レモン水
生徒会室を出た千翔くんは、無言のまま進む。
「ちょ、ちょっと、自分で歩けるから、離して」
掴まれたままの手に力を入ると、意外とすぐに離してくれた。生徒会室を出てすぐの中庭の渡り廊下に差し掛かったところで、突然立ち止まる。こちらを振り向かないその背中が、なんだか怒っているように見える。
しかし、わざわざ私を連れてきたのは、何か用があったからだろう。
「千翔くん?」
千翔くんは少しだけ振り向いてこちらを見たが、黙ったまま目を逸らす。不自然に感じて彼の視線を追ってみる。渡り廊下と校庭の間にある中庭。
"彼女"がそこにいた。
「加藤さん⋯⋯」
私たちが黙って見ていると、加藤優樹は自販機で何かを買って、こちらに気づかないまま傍のベンチに座った。赤みがかった顔と汗と運動着を見る限り、部活の休憩中なのだろう。汗で光るショートヘアが、彼女を一見男子のように見せている。太陽の光を浴びる彼女は、確かに絵になる”王子様”だった。
「あいつも不憫だな」
千翔くんが静かに言った。目が合う。しかしまたすぐに逸らされる。
千翔くんは私と目が合うのが嫌なのだろうか。
「うん、まあそうだね。こんなに乙女心いっぱいの計画をたててやっとラブレター渡したのに、渡した相手が千翔くんじゃ⋯⋯」
「ああ?」
ぎろりと睨まれる。千翔くんは今度は体ごとこちらを向いてため息をついた。
「やっぱり全然分かってない」
「え?」
首をかしげてみせるが、顔の筋肉はいうことをきかなくなっていた。
「送り主はあいつだと言った。けど、誰が宛先は俺だと言った?」
今までになく真剣な千翔くんの顔に、なぜだか先ほどより体が熱くなってくる。その先の言葉を聞きたくなかった。
「坂倉は職員室に向かう途中に見たと言ったな。下駄箱の前でじっと立っていたと」
「うん」
なるべくさり気なく聞こえるように相槌をうつ。
「あの廊下で職員室の方を向いている時、意図的に横を見た場合じゃないと俺の下駄箱は見えない。当然その前に立っていたとしても、手前の下駄箱に隠れて見えない」
下駄箱の様子を思い返してみた。誕生日の朝、職員室から出てきた先生の背中を見たことを思い出す。
「あ⋯⋯。でも、何気なく横を見たとしたら?」
「背中しか見ていないと言っただろ。横から見たとしたら手の様子も見えるはずだ」
反論が浮かんでもすぐに返されてしまう。千翔くんはすでにそのような可能性は考えているのだ。
「背中が見えたのなら、普通に考えて俺の下駄箱に背を向けていた場合だ。つまり、加藤は反対側にあるアリスの下駄箱の前にいたときに、見られたんだ」
もう反論が出てこない。
「なるほど。でもそれが何か?」
本当は、知っているのだ。
「じっと立っていたらしいじゃないか。おかしいだろ」
首を傾げる私を千翔くんは呆れたように見る。
「人に見られるリスクを加藤が考えてなかったと思うか?お前が加藤の立場だったら、手紙入れるときどうする?」
「えっと、人が見てないか確認して、すぐに入れてすぐにその場を離れ⋯⋯あ⋯⋯」
気づかせないで。
「そう、じっと立っているのはおかしいんだよ。まあ坂倉の言葉をそのままの意味で信じるとしたら、だけど」
「確かにおかしいね」
「これは俺の推測だけど、加藤は躊躇っていたんじゃないかと思う。⋯⋯みんなすぐには思いを口にしないものだからな」
千翔くんは最後の言葉はぼそっと言って、横を向いてしまった。きっとそれは彼の経験だろう。私は何も言えなかった。
「アリスも本当は最初から分かってただろ。大切なラブレターを入れ間違えるはずがない」
身体が熱い。
何気なく中庭を見ると、彼女の横顔が見えた。目だけが一瞬こちらを見る。が、私に気づかないように、すぐに向こうを向いてしまった。
千翔くんは、証言を聞いた時にはもう、自分に向けられた手紙でないと気づいていたのだ。私が思考に蓋をしている間に、千翔くんの頭はフル回転を続けていたわけだ。
「薄紅色」
生ぬるい初夏の空気の中に涼しい風を感じ、同時に涼し気な声が耳に届く。私は千翔くんに顔を向ける。
「一番重要なのがそれだよ。俺はあんたが他人の気持ちに敏感なことを知っている。だけど、自分の誕生日も忘れてしまうほど自分自身に無頓着なアリスが感じたものは、誰の感情か?その時周りにいたのは加藤と石川陸とアリス。ぶつかった瞬間に感じたなら、当然ぶつかった人だろう」
嫌でも耳に入ってくる心地いい声。
「何からそんなに目を逸らしてる?」
「え⋯⋯?」
「相手が男でも同じように目を逸らしてただろ。他人からの愛情が怖いか?」
何かが目の奥でちらついた気がした。でも何かは分からない。分かりたくもない。静かな千翔くんの声がじわじわと、胸の奥にくすぶった何かに近づいてくる。
何故彼がそんなことを言うのだろう。たかだか最近知り合ったばかりの彼が、私も知らないことを知っているとでもいうのか。
千翔くんが手を伸ばしてくる。
「これ、返す」
その手の中には、茶色く焦げた文字が浮き上がった紙が握られていた。受け取って広げてみる。
「性別は、関係ない。ただ事実があるだけだ」
ずっと変わらない調子の声で千翔くんが言った。もう一度中庭を見ると、横を向いた彼女と目が合った。
「何買ったらいいか忘れたから、聞いてくる」
千翔くんは私の横をすり抜けて、元来た道を歩いていってしまう。私は動けない。手の中に握られたものをどう受け止めるべきか、今私は何をするべきかも分からなかった。
手紙の焦げた文字を見る。
どうしてあの時あんなにも薄紅色に惹かれたのか。それなのにどうして、それから目を逸らしていたのか。答えは最初から知っているのだ。
薄紅色は本当は知っていたから。
ただ、私がずっと受け取るのを恐れていて、”彼”が与えるのを躊躇っていた色だから。こんなにもまっすぐに、ただまっすぐに私に向けられる薄紅色は、初めてだったのだ。だから私はそれに惹かれたし、素直な受け取り方を知らなかった。
また向こうを向いてしまった彼女を見て、ふと綺麗な横顔だと思う。そう思ったら、先走る心に引っ張られるように、何かを考える前に足が動いていた。
自動販売機の前で立ち止まる。強い日差しにさらされて、すぐにじわりと汗が滲む。手紙を丁寧にポケットに入れて息をひとつついて顔を上げると、驚いたような彼女と目が合った。
大きく見開かれたその目に一瞬たじろいでしまう。
「なに、飲んでるの」
思ったより棒読みになってしまった。我ながら随分と間抜けた質問だ。
「え、えっと⋯⋯レモン水」
彼女は戸惑いが隠せない様子で、それでも答えてくれる。この驚きようだと、千翔くんと打ち合わせていたのではなく、今ここにいたのは偶然のようだ。
彼女とはまともに話したことが無かったのに、奇妙な会話だと気づいて思わず笑ってしまう。強ばっていた顔から力が抜けるのを感じる。ますます戸惑ったようにこちらを見つめる彼女に笑いかける。
「いいねレモン水。夏になると飲みたくなるよね」
「⋯⋯うん」
困惑の視線を感じながら財布を取り出して、私もレモン水を買う。
「レモンの果汁でも浮き上がるメッセージって書けるのかな?」
冷えたペットボトルを取り出しながら言うと、彼女ははっとしたように顔を真っ赤にして俯いた。
「"さようなら"」
彼女が体を強ばらせる気配がする。
「”こちらこそ、ありがとう。とても嬉しかった"⋯⋯って、返事を書きたいんだけど、レモンじゃ伝わらないかな」
彼女は顔をあげて大きく目を見開いてこちらを見る。その頬は赤く染まっている。
思い出した。
1回目に彼女とぶつかったとき、新しい学校生活に慣れないないような憂鬱そうな彼女の顔。今思えば、すでに転校することを知っていたのかもしれない。
手を差し出したときにこちらを見上げた大きな瞳が、今目の前にいる彼女の瞳と重なる。
「出来るよ、レモンでも。⋯⋯伝わるよ」
小さい声は少し震えていた。でも、うるんだ大きい瞳は真っ直ぐに私を見ていた。憂鬱な色はもうない。
「そっか、それならよかった」
あの時と同じように笑いかけて言う。
汗をかき始めたペットボトルに口をつける。透明なレモン水を通して見えた空は、今までになく清々しく見えた。くすぶっていた何かが、僅かに解けたのかもしれない。
喉を通る冷たい液体が、火照った身体を一瞬冷ましてくれる。息をひとつついて、彼女に背を向けて歩き出す。
「あ、ありがとう」
背中にぶつかった彼女のよく通る声が、また私の身体を熱くする。彼女はとても勇気がある。自分は臆病だ。
私は振り向いて、精一杯の強がりで彼女にもう一度笑ってみせた。
夏の青い空のような清々しい彼女の笑顔の中に、薄紅色がまた見えた気がした。




