初めての色
桜色の感情が真っ直ぐ自分に向けられるのを見たのは、その時が初めてだった。
そもそも感情とは目に見えないものであって、それに色があるというのはおかしな話だが、とにかく私はそう感じた。
この人と正面から向き合うのは2度目。もしそれ以上あったとしても、覚えていない。名前もはっきりとは思い出せない。
自分の中のこの人は、そのくらいに薄い存在だ。
だからこそ、不思議だった。
ぶつかった瞬間に見えたその色。それが何を表すのかは分からない。ただ、雨の日は皆、なんとなく青く沈んだ色になる。だから、そこだけ明るい暖色なのが珍しかった。
持っていたプリントやらがやけにゆっくりと舞い上がるのを眺めて、なんだか漫画チックだな、と思う。それから、湿気で調子の悪い自分の髪が宙に広がるのを見て、まとめてくれば良かった、とぼんやり考える。
ドサッ
尻餅をついて痛みを感じた瞬間やっと、今の状況を認識する。特別教室へ移動している途中に、廊下の角で人とぶつかってしまったのだ。
何度か瞬きをする。薄色がまだ目の奥にちらついている。
「ごめん、大丈夫?」
慌てたような少し高い声が上から降ってくる。ぶつかった相手が、床に座り込んで動けない私に、手を差し伸べてくれていた。
栗色の短い髪が視界に入る。
確か隣のクラスの人だ。いつも周りに人がいるため、目立つ存在だった。自分の中でどうでもいい存在だったとしても、噂は否応なしに耳に入ってくる。
「怪我してない?」
何も言わない私を気遣うように言ってくる。
「ごめんなさい」
私は一拍遅れて返事を返す。慌てて散らばった紙を拾おうとして、はっとする。
1度目に会った時も同じような状況だった。床に散らばったファイルやプリントも以前と同じだ。ただ、前回動けないでいたのは相手の方だった。
(今回は大丈夫⋯⋯)
床に広がった授業のプリントを確認して胸を撫で下ろす。前回は恥ずかしいものを見られたからだ。
相手と目を合わせないようにしながら、次の紙を拾おうとする。ちょうど向こうもそれに手を伸ばした時だった。お互いの手がほんの少し触れる。その瞬間、ぱっと白い手が引っ込められた。
思いもよらぬ反応に驚き、私も固まってしまった。
「ごめん」
その人は感情の見えない声でそう短く言うと、拾ったプリントをこちらに押し付ける。
「大丈夫か、優樹」
遠くから友人らしき男子が声をかけてくる。優樹と呼ばれたその人は、大丈夫と答えながら立ち上がった。その姿を見上げたが、逆光で表情は見えなかった。そして、私が声を出す間もなく行ってしまった。
呆気ない。
スカートのホコリを片手ではらいながら、彼らの後ろ姿を見送る。
「朱音、どうしたの?」
クラスメイトの声がぼんやりと聞こえてくる。
たぶん一週間もすれば、あの人の顔をはっきりとは思い出せなくなるだろう。自分にとって、あの人はそのくらい薄い存在だ。
でも、きっと桜色は忘れない。私にとって、その色はそのくらい珍しい感情だからだ。
「ううん、なんでもない」
綺麗な薄紅色。
まだ名前を知らない感情の色は、雨の憂鬱さを追い払うように、または新しい高校生活を彩るように、唐突に私の前に現れた。




