6 輝く星③
新学期が始まる前日のことだった。
尊は新学期にそなえ、学用品の点検をしていた。
もっとも、お道具箱に入れる糊やら色鉛筆やらの補充はとっくに出来ている。この間、泰夫と一緒に大きめのスーパーマーケットへ行き、その辺の買い物は済ませてある。
「服とかくつも一通り買うぞ。お前、背丈伸びたやろ。下着やら何やら、全部つんつるてんやないか」
泰夫はそう言い、有無を言わさず次々と尊のものを買った。あんまりたくさん買い与えられるので、何だか目が回りそうになった。
買い物に酔ったみたいになった尊を、泰夫はフードコートへ引っ張っていった。そこで食べたチョコとバニラのミックスになったソフトクリームが、甘くて口当たりがよくてものすごく旨かった……。
そんな他愛のないことを思い出しながら、尊は手提げかばんへ連絡帳や筆箱を入れる。
一年生から使っていたボロボロの筆箱も、この機会に買い替えた。
高学年らしいシンプルなデザインの、黒の本体に赤の差し色が入った筆箱だ。サッカーチームのエンブレムが、表側に型押しされている。
鉛筆も消しゴムも新調し、ビシッと揃えた。整然と並んだきちんと先を尖らせた鉛筆を見ていると、急に頭が良くなったような気すらした。
「……んな訳ないやん」
思わずひとりごち、のどに何か絡んだような気がして咳払いする。
最近、何となくのどの調子がおかしい。声がかすれたり、ひっくり返ったりするのだ。
「ああ、声変わりが近いんやろうな」
風邪だろうかと泰夫に訊いたら、あっさりそう言われた。
「この時期に無理に大声出したらアカンで。のど痛めるからな」
声変わり、とつぶやき、尊はポカンとする。そんなこと、思い付きもしなかった。
泰夫は不意に尊の頭を撫でまわす。
「声変わりか。早いのう、この間までオシメつけてたくせにもう声変わりか。生意気やのう」
「こ、こないだって」
泰夫の手を振り払い、顔をしかめる。
「オシメしてたのは赤ちゃんの頃やん。もう十年前の話やんか」
わはは、と泰夫は大声で笑う。
「アホ。十年前みたいなモン、この間じゃっ」
おっさんの感覚と一緒にすんな、と、小声で憎まれ口をたたくと、やかましワ、と再び頭をぐりぐり撫ぜられた。
「散髪もせなアカンの。新学期前に行ってこい」
そんなやり取りをぼんやり思い出しながら、尊はなんとなく笑う。泰夫と暮らし始めてから、笑うことが増えたような気がする。
唐突に玄関扉の錠が回る音がした。
泰夫が早退でもしたのかと、尊は思わず振り返る。
性急にノブが引かれ、力任せにドアチェーンを張るひどい音がした。
「タケちゃん?タケちゃんおらへんの?」
ピンポンピンポン、とインターフォンを鳴らし、女の猫なで声が言う。
「タケちゃん?おかあちゃんや。ここ開けて、顔見せて」
その瞬間何を思ったのか、後から考えても尊には上手く思い出せない。
ただ、何かに引き寄せられるようにのろのろと玄関へ行き、一度扉を閉め直した後、震える指でドアチェーンを外したのは覚えている。
勢いよく扉が開く。
春の午後の白い陽の光が網膜へ飛び込んでくる。あまりの眩しさに尊は一瞬、気が遠くなった。
「タケちゃん!」
感極まった母の声。
がし、と強く抱きしめられる。
鼻先へ、懐かしくも疎ましい、例のコロンの残り香が混じった母の体臭がただよってくる。
すさまじい虚しさに全身の力が抜けた。
何故か、笑っていた。
「タケちゃんタケちゃん。ごめんやで、ホンマに悪かった。おかあちゃんがアホやった、底抜けの大馬鹿者やったんや。ごめんごめん、ホンマにごめんやで。堪忍してェ……」
自分の言葉に酔ったように母は、尊を抱きしめたままおいおいと泣き始めた。
母に抱きしめられたまま、尊は霞晴れの空を見ていた。
(……ぶっ殺す)
胸の中でつぶやく。
怒りでも悲しみでも憤りでもない、今まで知らなかった冷たい感情が尊の身体の中に静かに積み重なってゆく。
そう、殺す。
この女を殺すのだ。
殺しでもしなければ、そのうちこちらが殺される。
周到に用意をし、静かに確実にこの女の息の根を止めてやる。
これは失敗の許されない、ヤるかヤられるかの真剣勝負なのだ。
ひどく冷静に尊は思っていた。
(殺す。殺される前に、殺す。もう二度とこの女に振り回されない)
尊が、尊として生きる為に。
この女……母という名の最悪の敵を、殺す。
霞晴れの陽射しの中、尊は静かに心で誓った。




