6 輝く星②
尊の熱が下がると、泰夫は気にかけながらも仕事へ出かけた。
さすがにいつまでも休んではいられない。
身支度をしながら泰夫は言う。
「お粥は作ったあるから食う前にあっためて、冷蔵庫に入れてる梅干しでも海苔の佃煮でも何でもエエから出して、適当に食え。出来るだけ早う帰ってくるからな。晩飯はナンか、力の付きそうなモン買うてきたる。何が食いたい?肉か?魚か?」
「ハンバーグ、食いたい」
おずおずとそう言うと、泰夫は手を止め、嬉しそうににかっと笑った。
「おう、よっしゃ。任せとけ!」
泰夫が出勤した後、尊はとろとろと眠り続けた。
昼に一度起きて小鍋のお粥を温め、言われた通りに梅干しや佃煮をおかずに食べた。
食べ終わると妙にだるくなってきたので、再び布団へ戻る。
枕に頭を乗せるとまたまぶたが重くなってきたので、引きずられるようにとろとろと眠った。
とにかく眠かった。身体の奥に取りきれない疲労感が居座っている感じで、いくらでも眠れそうな気がした。
風邪だからでもあるだろうが、ほぼ一ヶ月近い追い詰められた生活のせいで、身も心も自覚以上に疲れ果てていたようだ。
それでも一週間ほどすると、尊の体調もいつもと同じになってきた。
学用品や当面の着替えを泰夫の住む賃貸マンションの部屋へ運び込み、そこから学校へ通うようにもなった。元々住んでいたアパートより学校は遠くなってしまったが、そんなことは大したことではない。
尊は、今までになく落ち着いた気持ちで毎日を過ごすことが出来るようになった。
泰夫は仕事が終わると必ず帰ってくる。
日によって帰宅時間は違ったが、それでもあまり遅く帰るようなことはなかった。
泰夫は帰ると、野菜炒め的な簡単なおかずを作ってくれ、尊が仕掛けておいた米を炊いて一緒に食べた。
出来立ての料理を囲んで誰かと他愛ない話をしながら、晩飯を食べる。
それがこんなに楽しく、心が休まることだったんだと、尊は改めて知った。
仕事柄日曜や祝日は中々休めなかったが、代わりに平日は休みで、休みの日は泰夫は大抵家にいた。
尊の為にいてくれたのかもしれないが、買い物以外は部屋でテレビを見てごろごろしているのが、どうやら泰夫の定番の休日スタイルらしく、無理をしている雰囲気はなかった。
行ってらっしゃいと見送られ、お帰りと出迎えられる。
当たり前と言えば当たり前のことが、尊は嬉しい。
見送られる、迎えられる。
ここに自分がいていいんだと、心の深い所がじんわり和らいだ。
泰夫は当然、尊の母である陽子と連絡を取ろうとした。
しかしどういう訳か、陽子の携帯電話には何度かけてもつながらなかった。電波の届かない場所にいるか電源が入っていません、という、無機質な電話会社のメッセージが流れるだけだった。
「あのアホ、携帯の充電、してへんのとちゃうか?」
舌打ちをするように泰夫は言った。
男にのめり込んでいる時の陽子はいつも、惚れた男にしか気がいかない。男からの連絡を逃さない為なら、彼女は携帯電話の充電を欠かさないだろう。だがその男が基本毎日自分のそばにいるのだ、携帯電話の充電などという細かいことを忘れていてもおかしくない。
「救いようのないアホじゃ」
吐き捨てるように言う泰夫へ、尊はただ曖昧に笑った。
そうこうしているうちに三学期も終わった。明日から春休みだ。
たまたま休みだった泰夫が、ちょっといい肉でも食おうと国産牛のステーキ肉を用意してくれていた。ふたりでわいわい言いながら肉に塩コショウを振り、フライパンでおっかなびっくり焼いてみた。
付け合わせにまで気が回る訳もない、焼いた肉を適当に切り分け、市販のステーキソースをぶっかけて炊き立ての飯で食べるだけだ。
「うまっ」
「おう、ちょっと焼きすぎやけど美味い。焦げたトコもカリカリしてて悪ないやん」
男ふたりの無骨な料理、無骨な食事だったが、こんな美味いもん食べたん初めてや、と尊は思う。あんまり美味くて、なんだか涙がにじんでくる。
泰夫がそっと箸を置いた。
「なあ、タケ坊。ちょっと相談あるんやけどな」
改まった泰夫の態度に、尊はぎくっとした。そろそろ自宅へ帰れと言われるのではないかと、実は少し前から思っていたのだ。
しかし泰夫は
「いやその、お前さえ良かったら……やねんけどな。お前、俺の養子……つまりヤッちゃんトコの子ォにならへんか?」
などと、尊のまったく考えていない提案をしてきたので、ぽかんとした。
泰夫は少し目を伏せ、言いにくそうに続けた。
「こない言うのもナンやけど。お前のおかあちゃんは親に向いてない人間や」
尊も箸を置き、黙って泰夫を見つめる。
「親の自覚以前って言うのんか。お前には酷やけど、あの人に親やってもらうのは、はっきりゆうて期待せん方がエエ」
「う……ん」
骨身にしみて感じていたことだが、こうして改めて他人に言われると胸が詰まった。泰夫は痛ましそうに笑みを作るが、口調は明るく言った。
「ま、ヤッちゃんかって。もし他人様に、お前みたいな半端もんがホンマに人の親ちゃんとやれるんかって言われたら、当たり前じゃ任せんかいって胸張れるほどの自信は、ないねんけどな。それでも、お前のかあちゃんよりはマシな親になれる自信はあるで。比較の対象があの人やから、あんまり威張れるモンでもないけどやな、それでも。お前にも助けてもらいながらボチボチやっていけたら、これから先、結構楽しいんやないかって思うねん」
「ヤッちゃん、それ……」
それは同情で、嬉しいし有り難いけどヤッちゃんにすごい迷惑をかけてしまう、という意味のこと言おうとした尊の言葉を、泰夫は素早く押しとどめる。
「まあ、今言うて今、決めることでもないねんで。ただ、ヤッちゃんの気持ちというか考えは、お前の頭に片隅に置いといてくれや」
泰夫は再び箸を取り、飯をかきこむ。お茶で口を湿らせ、箸を止めたままの尊へ食べるように促す。尊はおずおずと箸を取るが、食欲が一気になくなっていた。
「そもそも、まずはナンちゅうてもお前のかあちゃんと連絡取れんことには、ナンにも始まらんからな」
もそもそと飯を咀嚼する尊を見ながら、泰夫は少し申し訳なさそうな笑みを浮かべる。
「お前の言うてたマンションにも行ってみたけど、管理人しかつかまらんかったしで埒あけへんねん。それでも、いくら何でもずっとこのままってこともないやろう。あの人もそのうち、アパートへ荷物くらいは取りに来よるやろうからな」
この間、アパートに伝言置いて来たってん。はよ連絡せい、せんかったら出るトコ出るどってな。わざとお気楽そうに、泰夫はそう言って笑った。
春休みになった。
尊と泰夫の生活は、特に変わらずそのまま続いた。
桜が咲き始めた頃。仕事が休みの泰夫と少し離れたところにある大きな公園へ、握り飯やお茶をつめた水筒を携えて行き、簡素な花見を楽しんだりもした。
満開までまだ少し間がありそうな咲き方だったし、平日だったのもあったせいか公園に人影はまばらで、お陰でのんびりできた。
桜の枝の下にレジャーシートを広げ、握り飯をほおばった後、寝転がる。
白っぽい花がゆれるのを見上げながら、尊は泰夫の隣で目を閉じる。あたたかい陽射しの中、芽吹きの匂いのはらんだ風を深く吸い込みながら、いっそヤッちゃんの子にしてもらおかな、してもらいたいな、と、こっそり尊は思っていた。
陽子との連絡は、相変わらず取れない。
どうやら極楽とんぼカップルは、旅行か何かに出かけている様子らしい。
「姉貴の彼氏は一体何者やねん。ふらふらふらふら、遊びくさって。どっから金が湧いてくるねん。バブル時代にしこたま儲けた、株屋か何かなんか?」
ぼやくように泰夫は言うが、尊だって『ユウさん』が何者かなんて知らない。
二人が知り合ったのは母のかつての勤め先だったショボいスナックだったらしいから、はっきり言ってユウさんが根っからの大金持ちだと思えない、が泰夫の意見だった。
後ろ暗いことで稼いだあぶく銭で豪遊してる、ヤクザな男やないのんか、と、泰夫もさすがに心配になってきたらしい。
「ヤクザって感じでもなかったで。偉そうで嫌味な男やったけど、ナンちゅうか、基本はお育ちの良さそうなボンボンって感じやった」
尊が言うと
「小学生に『ボンボン』言われてたら世話ないな」
と、泰夫は苦笑した。
「ただの馬鹿ボンボンが、親の金でふらふら遊んどるだけか。ほんなら、ボチボチ潮時やろうな」
つぶやくように言い、泰夫は暗く顔をしかめた。




