17 輝く星になれ!①
4月1日。
早川尊は予定通り、勤務先の工房へ向かうことになった。
この日は前々から泰夫が休みを取り、車であちらまで送ってくれることになっていた。
瀬戸大橋で行くことも考えたが、フェリーであちらまで渡り、そこから一般道を地道に走って行くことになった。
「ちょっとした小旅行気分やな」
わざと楽しそうに泰夫は言う。
あの日の、しばらく後。
昼前だった。
尊は見知らぬ部屋で目を覚まし、驚いた。
天井の木目すら繊細で美しく、上等の旅館みたいな部屋だなとテレビドラマの知識から漠然とそう思った。
おそらく、頭がちゃんと現実だと認識していなかったのだろう。
「おお、目ェ覚めた?」
ふわりと笑んで尊を覗き込んだのは、大楠だった。
今は神職の装束でなく、初めて会った日のような、垢ぬけないポロシャツと綿パンだった。
「覚えてないやろうけど。君、あれから気ィ失うたんやで。びっくりして、取りあえず私が野崎の屋敷まで君を運んで、お医者呼んで診てもらったんやけど。ただ疲れてるだけで、特別どっかが悪い訳やないそうや」
尊は目をぱちぱちしばたたき、ホッとしたようにそう言う大楠の顔をぼんやりながめた。
「気ィ失うて……、倒れたんですか?」
首をひねってそう問う尊へ大楠はうなずく。その瞳にふと、痛ましそうな陰が差した。
「あのな、尊くん。君のお母さんのことやけど」
『お母さん』という単語に、尊は、現実味を取り戻してギクッとする。
「君を、野崎の屋敷へ連れて来てすぐ、私は早川さんへ連絡入れたんや。早川さんは早川さんで、君が、連絡取れん上にアパートの部屋にもいてへんのに気ィ付いて、青なって探してはったらしいねん。君のお母さんは早川さんのウチで、死んだみたいにこんこんと眠ってはったから部屋に置いたまんまで。ほしたら……その隙にどっかへ行ってしまいはったらしいねんな。交通費借ります、って、一筆残して、二千円ほど持って。多分、勤め先の寮へ戻ったんやろうけど、昨日の今日やから早川さんも心配して、今探しに行ってはるんや」
尊は苦く笑った。
いかにもあの人らしいと思ったが、もはや腹は立たなかった。
それよりも、大楠や泰夫が気の毒だという気持ちの方がずっと強い。
「スミマセン、ウチの馬鹿母が」
「いや、そもそも君が悪い訳やないし。君こそ、叔父さんがそばにおらんで心細いやろうに……」
大楠は逡巡したように少し目を迷わせ、思い切ったように真っ直ぐ、尊を見た。
「君の事情。私に全部わかってる訳やないけど……辛かったね」
その瞬間、何故か尊の心がふっと軽くなった。
辛かったね。
この一言が、じくじくと疼く見えない傷を柔らかく覆う。
そう……、自分は辛かった。
苦しかった。
それを……もう認めていいのだ。
無意識で、辛いと認めるのは負けだと思ってきた。
母に放置され続けて辛い、と認めるのは、あまりにも自分がみじめだと気を張り続けていた。
(せやけど、もう、いい……)
辛かったのも苦しかったのも『済んだこと』。
尊はもはや、母の愛や関心を必要としない。
だから認めよう。
今まで辛かった、と。
母にとって自分が、『生まれてすらいない子』だと知って、涙も枯れて出なくなるくらい虚しかった、と。
だけどそれはもう『済んだこと』だ。
尊は生きているし、これからも生きてゆく。
たとえ誰が認めなくても、自分は自分のことを『生きている』と認めているのだ。
母に認められなくても、もういい。
尊の人生そのものと、すでに彼女は関係ない。
少なくとも精神的には。
半身を起こそうとする尊を、大楠は制する。
「急に起きたらアカン、またふらっとするで」
「いえ……」
かぶりを振り、座る。
「あの、ヨシアキ先生。後輩のタバコの箱とライター、どこでしょうか?」
大楠はキョトンとした後、ばつの悪そうに顔をしかめた。
「あ……ごめん。うっかり神社の境内に置いてきてしもた」
「いえ。当たり前です。ボクが迷惑かけたせいですし」
そう言って尊は立ち上がった。一瞬ふらついたが、結果的にぐっすり眠らせてもらったお陰か、頭の中はいつも以上にクリアだった。
「ちょっと尊くん。どこ行くつもりや」
あわてて中腰になる大楠へ、尊は笑んで頭を下げる。
「取ってきます。アレは粗末に出来んモンなんです」
「じゃあ私も一緒に行くで」
有無を言わせない口調でそう言うと、大楠も立ち上がった。




