5 十歳の厳冬②
今日は土曜日だ。
つまり給食がない。
ということは要するに今日、尊は何もまともに食べられない。
仕方がないから白湯ばかり飲んでいる。別に飲みたくないが、他にどうしようもなかった。
しかしさすがに白湯を飲み過ぎたのか、だんだん気分が悪くなってきたので、無理矢理まぶたを閉じ、眠ることにした。
白湯を飲むのとトイレに行く以外、彼はこたつにもぐりこんで横になり、時間を過ごした。
何故かわからないが、いつも以上に寒かった。
日曜日。
ついに尊は行動を起こした。
母の勤め先に行くのだ。
母から常日頃、子供の来る所ではないから絶対来てはいけないと戒められていたが、冗談ではなく命の危機を感じ始めていた。
さすがに母も勤めには出ているだろう。少なくともそこへ行けば、母の居場所くらいはわかるだろうとも思った。
なんとなくふらつく足を踏みしめ、自転車をこぐ。泰夫に去年、誕生日祝いに買ってもらった、変速機付きの愛車ならぬ愛自転車だ。
津田町にある小さな繁華街の湿っぽい路地で、名前だけは知っている店を尊は探す。ようやく見つけたそこで、応対に出てきた化粧前からどこかケバい雰囲気のおばさんに、尊は名前を言って母のことを尋ねた。
おばさんは顔をしかめる。
「ハルコちゃんならとっくに辞めたで。一か月くらい前から急に店に出て来んようになってなあ。こっちも困ってたんや」
ユウさんとエエ仲になってから、たがが外れてしもて……と、ぶつぶつ言うおばさんの前で、尊は絶句して立ち尽くす。尊があまりに絶望的な顔をしていたからか、おばさんは目許を和らげた。
「こんな小さい子ほったらかして、あの子もホンマにしゃーないなあ。そこにいてやるかどうかまではおばちゃんも知らんけど、ユウさんのマンションの場所と名前は知ってるから、試しに訪ねてみるか、ボク」
他に手がかりもない。尊はお願いしますと頭を下げた。
メモを片手に自転車を走らせる。
目的のマンションはすぐに見つかった。この辺りで一番大きい、一番立派な賃貸マンションだ。
だがエントランスに入ることも出来なかった。オートロックのマンションだったからだ。
部屋番号がわかればまだ良かったのだが、メモに部屋番号は書かれていなかった。多分あのおばさんも知らないのだろう。
しかしたとえかすかだったとしても、このマンション以外に母とつながりのありそうな場所の心当たりはない。尊は歩道の隅に自転車を置き、マンションの植え込みのぐるりを敷きつめている石の上に所在なく座った。
日が暮れ、だんだん暗くなってきた。
マンションの入り口でロックが外れる音がする度に尊は立ち上がり、窺う。だがその度に出てくるのは知らない人で、胡散臭そうににらまれることもあった。
寒くてたまらない。立ったり座ったりしながら寒さをごまかす。暗い所は心細い。街灯の下に立って震えながら、尊は、会えるかどうかわからない母をひたすら待った。
星が瞬き始めた頃、入り口のロックが外れる音がした。半ば以上あきらめながらも、尊は入り口を窺う。
マンションから出てきたのは、質の良さそうな濃い灰色のコートを着た背の高い男と、男の腕に絡みつくようにぶら下がっている、黒い毛皮のショートコートを着た女。甘ったるい高い声で、しきりに男へ話しかけているその女は……母、だ。
その瞬間、尊の頭ががっと熱くなった。クソババアぶっ殺す、と、胸で叫んだ。大きく息を吸い、声を限りに尊は呼ぶ。
「おかあちゃん!」
黒い毛皮のショートコートの女は立ち止まり、赤く彩った唇をポカンと開けて尊を見た。一瞬後、彼女の顔が恐怖に引きつる。決して会う筈のない魔物と出くわした、と言いたそうな顔だ。瞬間的に眩暈がして倒れそうになったが、なんとか尊は踏みとどまった。
「おかあちゃん!なんで帰ってけえへんねん!もうお金も食うもんもないんやで。オレ、飢え死にするやんか!」
「そんな……ことないやろ?」
ようやく母はつぶやく。
「今月分のお給料は?とっくに振り込まれてるはずや」
「振り込まれてるかっ」
尊は叫ぶ。
「何回も何回も見に行ったワ!」
んもう、あの業突ババア、と母は、舌打ちしそうな口調で吐き捨てる。
「ナンやねん。どないしてん」
状況がよくわからずぼんやりしていた男が、間の抜けた声で母へ問う。途端に母の背骨が柔らかくなったらしい、くたっと、男に絡みつくようにもたれかかる。
「ん~ん、なんでもないねん、ユウさん。この子、ちょっと寂しィなってごねてやるだけや。すぐ帰すから気にしやんといてェ」
沸くように熱かった尊の頭が、不意にすっと冷えた。この女には何を言っても無駄なのだ、と、冷え切った胸で思う。
「とにかく。金をくれ。今すぐ金よこせ!」
地を這うような声で言い、上目遣いに母をにらんだ。
母の顔色が変わる。路傍の野良犬でも蔑むように、彼女は息子をにらみ返す。
「ナンやの、この子はさっきから。金、金、金て。イヤラシ子やね」
「ああもう、面倒臭いなあ。ナンやようわからんけど、要するに金が要るんやろ?」
ユウさんは言葉通り面倒臭そうにそう言うと、コートの胸元を探った。ブランド物の分厚い財布を取り出すと、札入れから一万円を引っ張り出す。そして使用済みのティッシュペーパーでも捨てるように、彼は尊へ、一万円札を投げて寄越した。思わず受け取ってしまう。
「金が要るんやったらそれ、ボクにやるわ。我々はこれからメシ食いに行くねん。店に予約入れてるから、急いでてな。今日のところはそれ持って帰り。はよ帰らんと夜中になってしまうで。ほんならな」
そう言ってすたすたと大股で男は歩きだす。母はあわてて男の後を追い、腕を絡ませる。
「あん。ユウさん待ってえな」
「ハルコちゃん。あの子、ハルコちゃんの子ォやろ?弟さんが面倒みてたんとちゃうのんか?」
不可解そうなユウさんへ、母は舌っ足らずな口調で答える。
「そうやでェ。あの子は小さい頃から、私の弟のヤッちゃんの方に懐いててな。普段から可愛げのない子ォやねん。誰に聞いたんか知らんけど、こんなトコまで押しかけてきやって。ホンマにごめんな」
「別にええよ。ハルコちゃんの子に小遣いくらいやってもかまへん」
「子供やねんから千円くらいで良かったんやで」
「どっちゅうことないやん、一万円くらい」
「イヤア、さすがユウさん。太っ腹やわあ」
いちゃいちゃしながら去る二人の声を、尊は、茫然と立ち尽くしたまま聞いていた。
握りしめたてのひらに、くしゃくしゃの一万円札があった。
街灯から来るかすかな光に照らされ、歪んだ福沢諭吉の顔が尊をあざけるように笑っていた。破り捨てようかと思った一瞬後、これがあれば食い物が買える、と閃くように思った。震える手でジーンズのポケットへ札をねじ込む。
自転車のペダルを踏み、尊は帰る。
なんだか頭がぼうっとして、もはや寒いのか暑いのかもよくわからなかった。
自宅のアパートへ帰る暗い道で、奇妙なくらい明るい場所が出来ていることに気付いた。新しいコンビニエンスストアが開店していたことを思い出す。ふらつきながら尊は、そちらへハンドルを切った。
ドアを押し開け、店内へ入る。
真新しい店の中には、あふれるほど食べ物が並んでいた。思わずパチパチと目をしばたたく。
お弁当のコーナーへ行き、梅干しのおにぎりとペットボトルの緑茶を手に取った。十円でも安いものをと、無意識のうちに考えて選んでいた。
レジでポケットから一万円札を出す。当然、尊の感覚ではびっくりするほどの枚数の千円札と、五百円玉を含んだ小銭がお釣りとして返された。これでしばらく生きてゆける。そう思って心底ほっとしたのを強く覚えている。
家に帰り、こたつの電源を入れて潜り込む。
震える指でおにぎりのパッケージをむき、かぶりついた。冷え切ったもろもろしたご飯粒を、ほとんど噛みもしないで尊は飲み込んだ。のどが詰まりそうになったので、ペットボトルのお茶で流し込む。
瞬くうちにおにぎりはなくなった。
おにぎりを食べてしまうと、なんだか急にがっくりと疲れた。
尊は大きなため息をつきながら、のろのろと横たわる。鈍く頭が痛い気がするし、おにぎりが胃の中でころころしているような、変な感じもする。強引に目を閉じ、尊は眠ることにした。
明日の食事は、明日になって買いに行けばいい。
どのくらい経っただろうか?
不意に身体を揺さぶられ、尊は目を覚ます。
「おい、タケ坊。尊。こたつでうたた寝してたら風邪ひくど」
聞き覚えのある声と口調。尊は、何故か霞のかかっている視界で目を凝らす。
(ヤッちゃん……)
泰夫がようやく、出張から戻って来たのだ。
「おかあちゃんはどないしてん?」
のん気なその言葉を聞いた途端、尊の目から初めて涙が噴き出した。
「ヤッちゃん……ヤッちゃん!」
後は言葉にならない。
獣が吠えるような声でおうおうと泣きながら、尊はただひたすら、泰夫の腕にしがみついた。




