5 十歳の厳冬
5 十歳の厳冬
尊は時々、悪夢を見る。
細かい部分は違っているが、同じ悪夢だ。
夢の舞台は決して思い出したくない、忘れたい思い出の一シーンである。
だけどそう思う更に奥で、決して忘れるまい、としがみついている思い出でもある。
この夢から目覚めるといつも、全身にじっとりと冷たい汗がにじんでいる。たとえ真夏であったとしても、すさまじい寒気に身体が細かく震えている。
スケッチから帰った後、尊はこたつに足をつっこんで横になり、ついうたた寝をして……例の夢を見た。大きく息をつき、もぞもぞと起き上がる。震えてしまう手でタバコとライターを取り上げ、一服、深く吸いこんだ。
ようやく少し落ち着いてきた。
母は、今日もいない。
十歳の正月明け。新学期が始まった頃のことだ。
その頃、母は新しい男との恋愛沙汰にはまりかけていた。
「おかあちゃん、やっと運命の人と巡りおうたわ、タケちゃん」
鏡の前で化粧をしながら、母はうっとりした目で言った。
またか、と尊は、こたつに足を入れて寝転がりながら白けていた。
(一体何人『運命の人』がおるねん、おかあちゃんには)
前に付き合っていたパチンコ狂いの男の時も、その前に付き合っていたDVの気があるイカレた男の時も、その前の……いや、もういい。とにかく、男と付き合い始めた頃の母は必ず、今の男を『運命の人』だと言う。口癖みたいなものだ。
おそらく本人は真面目にそう思っているのだろうが、聞かされるこちらは馬鹿馬鹿しくてたまらない。『運命の人』の大安売りやな、と皮肉に思うが、さすがに口に出しては言わない。
「ユウさんはお金持ちで気前も良うて、おまけにイケメンなんやで。なんでこんな人が今まで独り身やったんやろうって、不思議なくらいや。もしかして、おかあちゃんと巡り合うまで待っててくれはったんやろうかなあ?」
口紅を塗りながら、母は気持ちの悪いことを真顔で言う。この人は何故いい年をして、ここまで自分に都合のいい夢を見れるのだろうかと尊はあきれた。
(そんな条件のエエ男が三十近くまで独身やっちゅうこと、もっと真面目に考えたらどうやねん)
尊は思う。
大体、『ユウさん』なる男が本当に独身かどうかがまず疑わしい。
仮に独身だったとしても、他に女がいる可能性が高い。
付き合っている女が仮に母だけだったとしても、何か重大な欠点……例えば仲が深くなると豹変して暴力をふるう、とか、実は結婚詐欺師、とか、子供の尊がちょっと考えただけでもヤバそうな可能性がいくらでも浮かんでくる。別に何から何まで疑えとは言わないが、もう少し頭を冷やした方が絶対いい。
(この前、例のパチンコ狂いの男がストーカーみたいになってめっちゃ困ったこと、もう忘れたんやろうか?)
ため息が出る。
あの時は泰夫が矢面に立ち、男を説得・撃退してくれたおかげでなんとかなったのだ。母は泣きながら泰夫に礼を言っていたのだが、三ヶ月も経つともうこれだ。
今まで母がらみの修羅場に、否応なく巻き込まれてきたせいだろうか?尊は、小学四年生の少年とも思えないほど世故に長け、覚めていた。いや、どちらかと言えば母の精神年齢があまりにも幼いのだろうが。
「見て、タケちゃん。このネックレスもイヤリングも、ユウさんが買うてくれはってん。ブランドものやから、こんな小さい、華奢なんでもちょっと信じられへんくらい高いんやで。こんなん気前よう買うてくれはるような男の人、おかあちゃん初めてや」
アクセサリーを付けながら鏡越しに尊を見、母はうきうきと言う。
そうであろうなと尊は思う。
今まで付き合った母の男たちは、金をせびる男はいても、ポンと高価なプレゼントをする男などいなかった。その点だけは今までの男たちより数段マシであろう……今のところは。
「こんな言うことない、エエ人と巡り会えるなんて、おかあちゃんホンマに嬉しいワ。タケちゃんもこんな人がおとうちゃんになったら、鼻が高いやろ?」
タケちゃんもお金持ちのお坊ちゃまや、と母は浮かれる。
(お、おとうちゃん?)
思わず尊は半身を起こす。
母に結婚願望があることは知っている。それがかなり強いことも。
しかし、まだ付き合い始めたばかりの男とすっかり結婚するつもりでいる母に、尊は愕然とした。
ユウさんがどんなつもりで母と付き合っているのか、まだまだわからないではないか。それに、仮に本人がそのつもりだったとしても、ユウさんの家族が何と言うだろうか。
小波へ出てきたばかりの頃の母なら、シングルマザーとはいえまだ二十代前半で、堅気の勤め人だった。その当時なら、寛容な家族ならまだしも認めてくれたかもしれない。
だが今の母は三十歳目前のシングルマザーで、しかも津田町のショボいスナックに勤めるアルバイトのカウンターレディー、だ。真面な身内なら結婚を反対するであろう女だと、母はわかっていないのだろうか?
しかし今の母に何を言っても無駄なのを、尊は骨身にしみて知っている。これからユウさんと旅行に行くねん、と、小さなバックひとつでうきうき出て行く母を、はいはいどうぞご勝手に、と、蹴り出すような気分で尊は見送る。
昔から母が愛用している、安っぽいコロンの残り香で胸が悪くなる。寒いのにもかからわず、尊は部屋の窓を全開にして換気扇を回した。
男にのめり込んでいる時の母は、母親ではなく発情した女だ。
本能的にそれを感じ、尊は嫌悪を募らせる。女を振りまく母親など、子供にとって疎ましい、持て余す存在以外の何物でもない。そばにいられても無駄にイライラするだけだ。
旅行でも何でも勝手に行けや、うっとうしいねんクソババア、と、尊は呪うようにひとりごちる。そばからいなくなってくれた方が、どれだけ気楽かしれやしない。
しかし、十日経っても二週間経っても母が帰って来ないと、別の問題が生じてくる。
生活費の枯渇だ。
いつも給料が振り込まれる日に通帳を片手にATMに行ってみたが、記載できる取り引きはありませんの言葉と一緒に、行が白いままの通帳が虚しく返ってくる。時間を変え、日を変えて行ってみたが同じだった。
理由はよくわからないが、今月の給料が振り込まれない。
手元に残っているのは千円札が二枚と小銭。
手持ちの金をこたつのテーブルに出し、尊は大きく息をつく。
今まで、米を炊いて玉子やふりかけ、買ってきた総菜なんかで食事をしてきた。
しかし、米はすでに尽きかけている。
母がいつ戻るのかもわからない。
間の悪いことに、いつもなら真っ先に頼る泰夫は、年明けから長期の出張で小波を離れている。
尊は何度もため息をつく。自分で何とかするしかないのだと腹をくくった。
なけなしの知恵を絞り、薄力粉や天かす、玉子や青ネギ、粉末のだしの素などを買う。お好み焼き風というかチヂミ風というか、そう言うのを作って飢えをしのぐのだ。
しかし、そういう生活も一週間すれば厳しくなってくる。
食材も尽きてくるし、自分が作る下手くそなチヂミ風の、においをかぐのも嫌になってくる。食べた瞬間吐きそうになった時、もうこれ以上同じものは食べられないなと悟った。
給食を命綱に、インスタントコーヒーに砂糖を多めに入れたものと一緒に、消費期限の切れかけた安売りのパンなどをチビチビ食べてやり過ごす。
母はやはり、帰って来ない。
母が『旅行へ行く』と出て行ってから、ひと月近く。
金も食材も尽きた。
泰夫はまだ出張から戻らない。




