12 信頼④
身支度を終えたのは7時半を少し回った頃だった。
普通なら学校へ行く時間だ。
尊は少し考え、学校へ電話を入れて今日は休むと伝える。
『入院中の叔父に会わなければならない』とだけ言うと、電話に出た名もわからない教師は『叔父さんの身に何かあったらしい』と勝手に解釈したようだ。親身な声で、お大事にと言われやや後ろめたくなったが、あえて誤解は解かなかった。
そういう状況、ということならば、学校側から泰夫へ連絡が入るのは後回しになろう。
つまり、大人たちが雑に決めつけるであろう説明を、泰夫が聞くのも後になる。
客観的に見ればこの件は、ヤンキーが集団で、真面目な優等生に不当な理由で絡んだ挙句ひどい目に合わせたということになるだろう。何を言われても仕方がない。
埴生にちゃんと謝罪するし、罰を受ける覚悟もある。
が、尊たちには尊たちなりの、ここへ至った気持ちや言い分もある。
それを抜いた一方的な話が、泰夫の耳へ最初に吹き込まれるのは嫌だ。
(……さて)
何度か深呼吸をし、どうしても震えてしまう指で携帯電話の電話帳を開き、泰夫の番号を押した。
病院の自転車置き場に自転車を止め、通い慣れた道をたどって、尊は泰夫の病室へ向かう。
病室の扉をノックすると、どうぞという声がしたので開けた。
部屋の真ん中にあるベッドには泰夫がいて、半身を起こした状態で所在なさそうにテレビを見ていた。
目が合うと泰夫は、かすかに笑ってリモコンでテレビのスイッチを切った。
「おう。どないしてん。エラい深刻そうな声で、話をせなアカンから今からすぐ行く、とか電話で言うとったけど。まあ、そこ座って茶ァでも飲めや」
尊は目顔で示された椅子に座り、勧められるままに小卓の上に置かれたペットボトルの緑茶を飲んだ。
「あのな、ヤッちゃん。俺……ヤッちゃんに謝らなアカンことと……言うてなかったことがあるねん。長い話になるかもしれんけど、まずは一通り聞いてほしいねん」
そして尊は話した。
時に前後しながらも、出来るだけ冷静に、詳しく。
母が生活費を入れなくなった上、尊の定期預金を担保に限界近くまで金を引き出したこと。
泰夫から預かった定額貯金で去年の年末から生活していたこと。
泰夫の怪我が治る目途がつくまで、この話は黙っていようと決めていたこと。
後輩の林が埴生という名前の古い友達とたまたま会い、その時、もう自分に関わってくるなと五千円で面を叩かれてひどく傷付いていたのに、我を忘れるほど腹が立ったこと。
埴生を自分とツレたちと林で囲み、金で友達と縁を切るような傲慢な真似をしたことに文句を言ったこと。
しかし埴生が意外と折れなかったのもあり、つい皆で手を出してしまったこと。
最後に林が、発狂したような声を上げて埴生の鳩尾を思い切り蹴り上げ、結果的に埴生を、入院治療が必要な状態にしてしまったこと。
「今、埴生は川野の従兄が勤めてる大きめの個人病院に入院してるらしい。川野の話では、ゴツい怪我はしてないらしいし命にも別状はないらしい。ただ、ショックで熱出して寝込んでるみたいやねん。こんなことになってしもて……いろんな人に迷惑かけて……ヤッちゃんにも迷惑かけることになるやろうし、どない言うて謝ったらエエのんか……ヤッちゃん」
尊は椅子から立ち上がり、深く頭を下げた。
「ごめん。謝って済むことやないけど……謝ります。すみませんでした」
泰夫は何も言わなかった。
頭を下げたまま、尊はゆっくり何度も息をした。
泰夫にどんな風に思われてもどんなことを言われても、受け入れようと覚悟していた。
が、何も言わない泰夫に却ってそくそくと恐ろしさが迫ってきて、身体が震えた。
「……尊」
どのくらい時間が経ったのか。
尊にはずいぶん長い時間のように思えたが、案外、短かったのかもしれない。
呼びかけてくる泰夫の声は、少し疲れた感じだったものの、思いの外平静だった。
「まあ……座れよ」
そう言われ、そろそろと頭を上げた後、尊は元通りに座った。
おずおずと泰夫を見ると、彼は寂しそうな薄い笑みを口許に浮かべていた。
「尊。タケ坊。俺は……お前に信頼されてへんねんなあ」
あまりにも思いがけない言葉に、尊はポカンとした。
泰夫はどこか遠くを見るような目をした後、ふっと顔を伏せ、こう続けた。
「俺は……以前に言うたはずや。かーちゃんと暮らす……今は暮らすとも言われへん状況やけどやな、あの人関連で、お前がどうにもこうにもしんどい、辛抱出来んと思ったらすぐヤッちゃんに言えって。ヘンな遠慮だけはすんなって。それから、こうも言うたと思う。たとえ世界中がお前の敵に回っても、俺は早川尊の味方やって……」
泰夫は顔を上げると、もう一度儚く笑んだ。
「お前が俺に、一生懸命いろいろ隠して一人で頑張ってきたのんは。お前なりの、気遣いや優しさやと思う。せやけどな。それは要するに、俺はお前が信じるには足りん大人やったとゆうことや」
「ヤ、ヤッちゃん……」
あまりにも思いがけない言葉に、尊は息が詰まった。
「その部分に関しては、お前の罪やない。いわゆる俺という人間の、不徳の致すところ…ってヤツや。今後、お前の信頼を得られるよう、精進するしかな……」
「やめて!やめてくれ!ヤッちゃんは一個も悪ないやん!黙ってたんは俺の勝手や!」
「アホか。泣くな」
呆れた声で泰夫にそう言われ、いつかのように湿布くさいタオルが渡された。
そこで初めて尊は、自分が泣いているのに気付いた。
タオルに顔を埋めながら、一体自分は昨日から、何度泣いているのだろうと心の隅で呆れていた。
「ただ、な」
泰夫の声音が不意に変わった。
「埴生くんに関する件では。お前はいろいろと間違ってるし、勘違いもしてる」
ギクッとタオルから顔を上げ、尊は泰夫を見た。
泰夫は今、叔父の顔ではなく師匠……人生の先達の顔をしている。




