4 王国の鍵②
その日以来、尊はスケッチを始めた。
酒井に言われたのだ。
「タケルくんは調べもんが好きみたいやけど、宮大工に必要な道具のことや修練の方法や、は、あえて調べんといてくれるかな。まずは真っ新な状態でワシの教えることを覚えていってほしいんや。自分なりに調べたり工夫したりは、その後でやっていってくれんかな?」
生真面目にうなずく尊へ、酒井は目許をゆるめる。
「その代わり、言うのもナンやけど。君に宿題出したい。まずは身近にある、それ、湯呑みとか菓子皿とか、そんなんでエエ。スケッチしてくれんか。別に芸術作品やないねんから、上手い下手も陰影がなんちゃらも関係あらへん。ただ、見たまんまそのまんまを、紙に写し取る感じで丁寧に描いてくれ。君かって学校やらなんやら忙しいやろうから、週に一回、月に四枚ほどでエエ。これを夏休みまで……そうやな、三、四、五、六、七月の五ヶ月、二十枚ほど描いといておくれ」
夏休みになった頃、もう一回会おう。いつも野崎さんの所へはその頃に来るんでな、その時に見せてくれや。そう言う酒井へ、
「わかりました。やらせていただきます」
真面目にはっきりと尊は答えた。本当に久しぶりの、目的があるという高揚感。身体が熱い。
その後すぐ泰夫に、車で大きなスーパーマーケットへ連れて行ってもらった。
いつもなら素通りする文房具のコーナーへ直行する。
今までスケッチなどしたことはないが、スケッチブックというものがあることくらいは知っている。探すまでもなく、棚の下の方にいろいろな大きさのスケッチブックがあった。そのうちから横長のA4サイズのものを選ぶ。
鉛筆も、よくわからないが柔らかめの芯がいいだろう。ちょっと考えて、B4とB6の鉛筆を一本ずつ買うことにする。
「ナンやねん、ケチくさいの」
ややあきれたように泰夫はいうと、尊が選んだスケッチブックを後二冊、鉛筆をそれぞれ一ダース、無造作に取り上げて尊に持たせる。尊が何か言おうとする前に
「一冊とか一本とか、チマチマすな。しょーもないトコでケチって、練習ひとつ満足に出来へんかったらナンにもならへんやないか。スケッチブックや鉛筆やなんか、安いもんや。なんぼでも買うたる、多めに買うとけ」
と、泰夫はすたすたとレジへ向かった。
「う、うん……」
曖昧な返事をして、尊は泰夫についてゆく。レジで支払いを済ませ、包みを受け取った後、尊はようやく泰夫に
「ありがとう、ヤッちゃん」
と礼を言った。泰夫はにやっと笑い、どういたしまして、と応えて尊の頭を軽くはつった。
家へ帰ってさっそく鉛筆を削り、コップやマグカップを描いてみた。
もちろん初めてだから、これでいいのか悪いのかもわからない。
わからないなりに酒井が言った、『見たまんまそのまんまを紙に写す』ことを心がけて鉛筆を走らせる。
何枚か描いてみて尊は、どれほど自分がいい加減に物を見ているか気付いた。正直、かなり驚いた。自分としてはきちんと物を見ていたつもりだったが、実にいい加減に『こんな感じ』と、バクっと捉えていたようだ。
例えば、マグカップの持ち手は本体に真っ直ぐついていると思っていたが、よく見るとわずかに傾いでいた。
プラスティックのコップの縁をよく見ると、ごくごく少しだか厚みが違っていた。
一枚、二枚、三枚と同じ物を描いてみるとわかる。最初の一枚目に描いたスケッチが、まったくと言っていいほど対象を見て描いていなかったと気付く。これには大袈裟でなく驚愕した。
(なるほど)
物をきちんと見ていない者に、良い物など作れはしない。
だから酒井は、物をきちんと見る練習として『見たまんまそのまんまを紙に写す』という宿題を出したのだろう。
(さすがやな)
あの、毒にも薬にもならないような雰囲気の大人しい爺さんはやはり、ただ者ではないのだ。改めて尊は尊敬した。
そんな感じで日を過ごし、春休みになった。
ある晴れた日、宮大工になるのならお宮さんも描いた方がいいのではないかと思い付き、スケッチブックを持って外へ出た。
肌寒さは残るけど陽射しは明るい。ぶらぶらと道を歩く。
こんな感じに歩いたのは久しぶり……というより、初めてかもしれない。歩くことそのものが楽しいなんて。
近所の神社に着いた。
小波神社。この町の名前の神社だ。いわゆる鎮守の神様なのだろう。
小さくてショボい神社だが秋祭りは結構盛大で、だんじりが出たりして賑やかにやっている。尊も小学一、二年生くらいまでは、喜んでだんじりを曳いた覚えがある。
小さな鳥居をくぐる。入口から見て向かって右に手水舎、その奥の敷地にだんじり小屋。中央に拝殿、左に太いしめ縄を巻いた巨木。
ここの神社にこんな大きい木、あったんか?と尊は驚いた。もちろんあったろう、十年やそこらで成長した程度の大きさではない。拝殿より立派な、樹齢百年二百年は優に超えていそうな木だ。
おそらく、あまりに巨大だったので子供の目の高さではかえってわからなかったのだろう。大体ここへ来るのは祭りの時だけ、だんじりや祭囃子、境内に並ぶたこ焼きやヨーヨー釣りの屋台にばかり、当時の尊は気を取られていた。
(ま、それはエエ)
手水舎で一応手を洗い、そこから拝殿を見上げる。
半端な知識なので怪しいが、流造、の拝殿だろう。古くて小さいなりに、丁寧に作られている印象だ。といっても、宮大工になろうと思っていなかったなら全く気付かなかっただろうが。思いながら苦笑いまじりの息をひとつつき、スケッチブックを開いた。
しばらくは無心で手を動かす。
不意に
「タケル君?」
と呼びかけられ、彼はぎょっとして手を止めた。
声の方向にはいつの間にか、白い着物に浅葱色の袴、黒い烏帽子と沓の神職が立っていた。こういう職業にしては体格がいい、野生の熊を連想するような厳めしい雰囲気の中年の男だった。
目が合うと、神職の男はにこっとした。
一転しての人懐こい笑顔、古い記憶が尊の中で一気によみがえる。
「え?もしかして、ヨシアキ先生?」
男は更に相好を崩す。
「おう。いやあ嬉しいなあ、覚えててくれたんや。そう、ヨシアキ先生や。まあ、その名ァはタケル君限定やけど」
男は言い、沓をカポカポ鳴らして近付いてくる。尊の表情に気付き、ヨシアキ先生はちょっと笑い、袖を広げて見せる。
「ああ。けったいな格好やろ?今日は月次祭でね、月に一度のお務めやねん。これでも私は小波神社の神主でねえ。どうせ形だけやねんけど、神さんの前で榊振って、ごじゃごじゃ言わなあかんねん」
「そ、そう、なんですか……」
(お……おいおいおい。自分の仕事のこと、そんな邪魔くさそうに。神さんの目の前でエエのんか?)
神主のくせにずいぶんと罰当たりなことを言うではないか。別に信心深くも何ともない一不良の尊でさえ、ヨシアキ先生の暴言にはあきれた。
ヨシアキ先生はふと真顔に返る。
「野崎のご隠居さんに聞いたんやけど。タケル君、中学卒業したら酒井さんの工房で勤めて、宮大工を目指すそうやね。私は六歳の君しか知らんけど、君にぴったりの仕事やないかと思う。まだ早いけどおめでとう。エエ道、選んだね」
彼の視線が尊の手元へ流れる。
「それ、酒井さんからの宿題か?」
うなずく尊へ、
「あの人、弟子入り希望の若い子ォには必ずスケッチさせるからな」
とヨシアキ先生は言い、楽しそうな笑顔になる。
「いや、ホンマ言うたらパッと見た時は君のこと、誰かわからんかってん。せやけど一生懸命スケッチしてる横顔見た時、あ、タケル君やと思ったんや。野崎の屋敷で一生懸命、おもちゃで遊んでる君の顔とおんなじやったからな」
指摘にやや赤くなる。スケッチをしている時の気分は確かに、野崎の屋敷で遊ばせてもらっていた時の気分に近い。しかし、他人の目から見てもそうなのかと思うと、かなり照れくさい。
そこでヨシアキ先生は、はっと我に返ったような表情をした。自分の仕事を思い出したのかもしれない。
「ああ、ごめん。邪魔してしもたな。お宮さんでも何でも、ゆっくりスケッチしてゆきや。木の枝折ったりは勘弁やけど、後はそんなに気ィ遣わんと好きに描いてくれたらエエし。ほんならな」
言い終わると片手を上げ、ヨシアキ先生は沓を鳴らしながら大股で社殿へ向かう。しゃんと伸びた背筋が美しい。罰当たりな暴言はともかく、彼は神職なのだ、本当に。着物も袴もぴったり身についている。
かつて野崎の屋敷で寛いでいた、いかにも学校の先生の休日ファッション的な垢抜けない服よりも、今の装いの方がずっといい。男前にすら見える。
スケッチブックを持ち直し、尊はゆっくりきびすを返す。
ヨシアキ先生はああ言ってくれたが、彼が神主の仕事をしている今日は、境内でチョロチョロしない方がいいだろう。スケッチなら、また明日にでも来ればいい。
歩きながら尊は、彼が真面目くさった顔で祝詞をあげて榊を振る様を想像し、なんだか可笑しくなってきた。尊にとっての彼は『ヨシアキ先生』であり、『小波神社の神主さん』ではないのだ。神主の彼を格好いいとは思ったが、同時に冗談のような気もするのが本音だ。一緒におもちゃで遊んだ、おやつの時間に幸せそうな顔でシュークリームをほおばっていたおじさんが、尊にとっての『ヨシアキ先生』なのだ。
(あいつらにとっての俺も……そうなんやろうな)
ふと思う。
あいつら、つまりツレの誰彼や林のことだ。
奴らにとっての尊は『小波中のハヤカワ』、近年稀に見るバリバリのヤンキーだ。望んだ訳では無いが喧嘩で無敗を誇っているので、近隣の中学でも無駄に名を売っている。
そいつが、中学の卒業後は宮大工の工房に弟子入りして、古臭くも辛気臭い『修業』に明け暮れるつもりだなどと言っても、誰も信じないだろう。
自宅近くの細い道で尊は立ち止まり、何気なく空を見上げた。白っぽい霞が全体を薄く覆っている、いかにも春先らしい空だった。
思い出したくもないあの日の空を、尊は、苦く思い出す。