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9 中三の秋⑥

 大楠の声に、野崎翁は足早に彼の方へ寄ってゆく。

 尊は首を戻し、青ざめた泰夫の顔へ再び目をやった。

 大人たちが後ろでかわしている、ぼそぼそとした話し声の中に『井関の……』という言葉を聞き取り、尊は弾かれたように振り向いた。

「井関、今、井関って言いましたよね!」

 大人たちはポカンとした顔で尊を見返した。尊はかまわず言葉を連ねる。

「やっぱり、やっぱり井関やったんやな!あいつ俺に嫌がらせする為に、こんなとんでもないこと……ヤッちゃんに大怪我させよったんや!畜生ぶっ殺す、絶対、井関はぶっ殺したる!あのクソガ……」

「尊くん!」

 大楠の強い声に、尊は思わず口をつぐむ。

「落ち着きなさい」

 不思議な圧を感じる大楠の静かな声に、不本意ながら尊はひるみ、唇をかんだ。

「君、井関のせがれと知り合いなんか?」

 野崎翁のどこか飄々とした問いへ、尊は小さくうなずいた。ふむ、と翁は一瞬目を落とし、考えるようなそぶりをした。

「そう言うたら、あそこのせがれは君くらいの年頃やったな。その口ぶりやと、君ら個人的に因縁があるみたいやけど……?」

 尊は目だけで軽く諾った。翁はうなずき、話を続ける。

「なるほど、な。せやけど今回のことは多分、違うで。井関は昔から野崎と、まあライバルっちゅうか競合しとるんやけどな。この間、アチラさんと仕事上のトラブルっちゅうか揉め事がちょっとあってなァ。あそこのせがれが親からどう聞かされてたんかまでは知らんけど、どうやら、たまたま野崎のジジイ(ワシ)を見かけたあの子が、発作的にこないな事件を起こしたみたいやねん。ドラッグやってた痕跡もあったそうやから、要するに正気やなかったんやろうけど……」

 ふと、翁は痛ましそうに瞳を曇らせた。

「井関のせがれは私を狙ったんや、君や君の叔父さんをあの子がどうこう、はまず考えんでもエエ。まあ、あの子としたら面白(おもろ)ない話やろうけど、君の叔父さんが咄嗟にかばってくれたおかげで、私はあちこち擦りむいたくらいで済んだんや。代わりに、君の叔父さんがどえらい大怪我してしもて、私としては君らにどんだけ詫びても足りんくらいやと(おも)てる。当然、アチラさんにも相応の詫びをしてもらうつもりやけど、加害者のあの子ォも今、重体らしいからな。すべてはもっと落ち着いてからや」

 どことなく他人事めいた飄々とした口調で野崎翁は言うが、目が異常なまでに据わっているので、尊は少し怖かった。

 翁はちらりと左腕の高級そうな腕時計を確認し、大楠とうなずき合う。

「尊くん」

 野崎翁は再び、大息をひとつついた。

「ホンマ()うたら君の叔父さんが目ェ覚ますまで、私も付き添うてたいんやけどな。仕事やらなんやら、どうしても外せん用事が残っててな。大楠さんが代わりに付き添うてくれることになったから、二人で君の叔父さんに付き添うてておくれ。また明日、連絡入れるから……」

 叔父さんのことは野崎で責任持つから心配せんでエエで、と翁は言って、すまなさそうに少し笑った。



 帰って行く野崎翁の背中を、尊は大楠と一緒に見送る。

 その後ろ姿が妙に小さくて弱々しかったのが、尊には意外だった。

「とにかく」

 大楠が軽く笑み、尊の肩を叩く。

「もう夜の七時まわってるし、君もおなか空いたやろう。早川さん……君の叔父さんの麻酔が切れて目ェ覚めるまで、もうちょっと時間もかかるやろうし」

 言いながら彼は、コンビニの白いレジ袋を持ち上げた。

「君の晩飯代わりにと、おにぎりとお茶、()うてきといたんや。急いでたし目に付いたんを適当に買うてきたから、好みに合うかどうかワカランけどやな。こういう時やから食欲もわかんやろうけど、ちょっとでエエからお腹にモノ入れときィ」

 例の人懐っこい笑顔でそう勧められると、尊も否とは言いにくい。頭を下げ、もごもごと礼を言ってコンビニの袋をもらう。

 鮭と梅のおにぎりと、あたたかい緑茶が入っていた。

 特に何も考えず梅のおにぎりを取り出し、パッケージをむいて、海苔に包まれた三角のてっぺんにかぶりついた。


 その瞬間、すさまじい寒気が尊を襲った。

 冷たい飯粒と、乾いた海苔の食感。

 食道を通る時の、喉が詰まるような感触。

 胃の中へ落ちてゆく、ころころした異物感。

 短いなりに波乱万丈な尊の人生で一番屈辱的、かつ一番心細くて孤独だった日の記憶が、息が止まりそうな鮮やかさを伴って押し寄せた。

 思わずおにぎりを取り落とす。

 笑ってしまうほど身体ががくがく震え、どうしても止められなかった。

「尊くん!」

 焦ったような大楠の声を、尊は、遠くから聞こえてくる警笛のように聞いた。

 ふっ、と視界が暗くなった。

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― 新着の感想 ―
[一言] おお~後半の描写が凄いです! お見事☆彡
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