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2 中二の晩秋(承前)   3 中三の春、六歳の初夏

 押しかけ女房のように?林は、尊の『舎弟』に収まってしまった。

 俺はヤンキーです、と、翌日に髪を金髪に近い色に脱色して現れ、尊の度肝を抜いた。制服のカッターシャツの裾をズボンから出してみたり、制服のズボンの代わりに体操服のジャージをはいてみたりなどなど、ヤンキーらしい着崩しも彼なりに研究しているようだった。

 尊としては微妙だった。

 尊は、別に林がヤンキーでなくとも親しみを持っていた。ヤンキー仲間ではないが親しい後輩、それでいい。しかし林はそんな立場ではイヤなようだった。

 関係ないが。

 テレビで何度か見た、古い有名なアニメ映画のラストシーンを、尊はこのところよく思い出す。

 天下の大泥棒に救われたお姫様が、ラストにその泥棒へ抱きつき、こんな台詞を言う。泥棒は出来ないけど、きっと覚えます。

 林の努力はなんとなく、あのお姫様が台詞を実行したとしたらこんな感じなのでは?と思わせる雰囲気があった。

(ほしたら何か?俺はアイツにこう言うべきなんか?せっかく闇から抜け出したのにまた闇へ戻るんかとかなんとか……うろ覚えやけど)

 しかし林はお姫様ではないし、尊は天下の大泥棒ではない。それに、お姫様には帰る家があろうが、尊の家ほど荒んでいないだろうが、林の家も帰りたいほどの家ではなかろう。それはなんとなく察せられる。でなければ毎日のように閉店までゲームコーナーにいたりしない。ここで突き放すのも、尊にすればちょっとためらわれた。

 努力の甲斐?あって、それから二、三ヶ月経って学年が変わる頃には、林も徐々にヤンキーらしくなった。しゃがんでタバコをふかす仕草もそれなりにサマになってきたし、ハッタリをかますメンチくらい、ビビらずキレるようにもなってきた(主にパンピーに対してなのが情けないものの)。

 尊の林に対する意識も、『庇うべきパンピーの後輩』から『やや頼りないヘタレの舎弟』へと移り変わっていった。パンピーではないのだから、尊も林に遠慮しない。時にはきつく叱りつけることもあるが、林は嫌がらない。むしろ喜んでいる。遠慮して庇われる存在ではなく、時にはアホかと叱られるくらいの存在でありたい、それが林の願いだったのだ。

 林がチョロチョロし始めてから、尊の周りは微妙に変わり始めた。林ほどはっきりと『舎弟にして下さい』と押しかけてくる者はさすがにいなかったが、それとなく近付いてくる下級生のヤンキー少年がちらほら現れ始めた。今まで独り歩きしていた噂にビビって遠巻きにしていた連中だ。林のようなにわかヤンキーがウロチョロしていても許されているのを見て、尊に興味を持ったようだ。

 同学年のヤンキー仲間は小学生からのツレを中心にいたが、今まで尊たちには基本『兄貴』『舎弟』のような縦の関係はなかった。そういうのはウザいと思っていたのもあるし、小波の上級生に『兄貴』と仰ぎたくなるほどの出来ブツはいなかったという事情もある。

 実際、先輩ヤンキーに尊より喧嘩が強い奴も根性が据わっている奴もいなかった。ヘタレさ加減では林と大して変わらん、という程度の小物ばかりだったのだ。

 しかしいつの間にか、尊の周りには『取り巻き』とでもいう後輩たちがゆるく集まり始め、中三になった頃にはちょっとした勢力になっていた。マズいなと思わなくもなかったが、どうせ尊たちが卒業すれば自然消滅するだろうとも思っていた。

 卒業後まで小波にいる予定は、そもそも尊にはなかったのだから。


   3 中三の春、六歳の初夏


 始まりは林が舎弟宣言した、しばらく後だった。

 叔父の泰夫がふらっと訪ねてきた。

「姉貴は?」

「知らん」

 素っ気ない尊の返事に泰夫は、まあいつものことかと苦笑する。泰夫の言う『姉貴』は尊の母・陽子(はるこ)のことだ。この頃、母は新しい恋人と付き合い始めていて、ちょうど入れあげているというかのめり込んでいるというか、そんな状態だった。どうせ二、三ヶ月もすれば捨てられ、しおしおと戻ってくるだろうが。

「別にお前のかーちゃんに用はないねん。そりゃアレでも一応は親やねんから、話くらいは通したかってんけど」

 言いつつ、泰夫はこたつの前にどかっと座ってタバコを取り出す。

「お前な。ぶっちゃけチューガク出た後、どないするつもりやねん」

 尊は一瞬詰まったが

「知らん」

 と、再び素っ気なく答えた。

「知らん、て。進学するんか?就職するんか?はっきり()うけどお前、仕事も勉強もせんとふらふらしてるプータローにメシ食わす余裕、ここのウチにも俺にもないぞ」

 わかってるワ、と尊は凶暴な気分で内心ひとりごちた。しかし泰夫に当たることでもない。ため息を押し殺し、尊は淡々と答えた。

「進学する気はない。どうせ一銭にもならんしょーもないオベンキョウ、これ以上俺、する気ないしィ」

 半分本音、半分強がりだ。

 尊の成績は、そもそも勉強自体する気になれなかったから下から数えた方が早いし、素行方面は言われるまでもなくドン底だ。進学など出来るはずもないし、進学する為の金だって、無いに等しい。

「ほんなら就職、やな」

 泰夫の台詞に、尊は皮肉に笑む。

「素行の悪いバリバリのヤンキー(やと)てもエエ、ちゅう、物好きな社長がおったらな」

 ヤンキーとかどうとかはこの際、大してモンダイやないねん。泰夫は言い、タバコの煙を吐き出した後、真面目な顔になった。

「要は適性や。お前は子供の時から手先が器用な方やったし、モノを組み立てたり作ったりするのんも、キライやなさそうやったよな?昔、野崎(のさき)のお屋敷で遊ばせてもろてた時、汗づくになって一日中、積み木みたいなんを組み立てとったやん。アレ、今でも時々、語り草になってんやど」

「あ……あれは。あんな沢山(ようさん)のエエおもちゃ、全部ひとりで使(つこ)て遊んでもエエっちゅうのに舞い上がってしもて……」

 尊は目をそらし、もぞもぞと答える。


 『野崎のお屋敷』は、泰夫の勤め先である津田興発の会長兼社長である野崎輝之介(きのすけ)翁の自宅だ。

 とにかく馬鹿みたいに広い敷地にある、馬鹿みたいに古くてでっかい家だ。

 尊が六歳の頃だった。

 今のように母が蒸発同然にいなくなり、仕方なく叔父の泰夫が幼い尊の面倒をみてくれていたことがあった。保育所への送り迎えとか、食事や風呂など最低限の身の回りの世話なんかをだ。

 しかし日曜日にはその保育所も休みである。泰夫は職業柄、日曜でも仕事だった。困った泰夫はボスである野崎翁に相談し、翁が、では君が仕事をしている間はウチの方で預かろうと言ってくれたらしい。子供の相手に慣れているとは言い難いが、女手もあるし、学校の先生のような仕事を長くやってきている下宿人もいる、昼間幼児の面倒をみるくらいなら何とかなるだろうということらしかった。

 念のためにと着替えをリュックに詰め、尊はその日、泰夫に手を引かれて初めて『野崎のお屋敷』へ連れてゆかれた。

 新緑の眩しい季節だった。

 古めかしいくぐり戸を抜け、敷地に一歩入った途端、尊は息を呑んだ。

 まず目に飛び込んできたのが、びっくりするほどドでかいケージ。そしてその中を、しずしずと何かが歩いている。黒っぽい長い尾羽、鈍い虹色の光沢がにじむ緑の羽は……。

「クジャク?」

 図鑑や絵本、遠足で行った動物園でちらっと見たことがあるだけの生き物が、当たり前のようにそこにいた。

「おう。どや、すごいやろ。会長さんのぺットや」

 泰夫が、何故か得意そうにそう言った。

(ペット?)

 子供心にも強烈な違和感を持ったのを、尊は今でもよく覚えている。

 文鳥や十姉妹、セキセイインコやカナリヤなどではないのだ、クジャクは。普通の家で普通に飼うような生き物ではない。こんなものを平然と飼っている『会長さん』ってホントに普通の人間なのか?とでもいう、強烈な違和感だ。

(クジャク()うてるって……そのヒト、どっかの偉い王様とか魔法使いとか……魔王、とか。もしかしてそんなんとちゃうのん?)

 あれやこれやのお話の断片が、脈絡なく尊の幼い頭に浮かんだ。なんだか急に怖くなってきた。こんな所へ泰夫の仕事が済むまで置き去りにされるなんて、心細くてたまらない。

「なあ、ヤッちゃん」

 母がそう呼ぶので、尊も叔父の泰夫を物心ついた頃からそう呼んでいた。

「オレ、マジでここにおらなアカンの?」

 ナンや寂しいんか?と泰夫は笑う。

「おらしてもらえや。昼飯もオヤツも心配せんでエエ、()われてる。会長さんの息子さんのヨメはんが、そーゆーのん用意してくれるらしいし、オモチャも色々、あるらしいど。下宿人の、神社の神主もやってる先生が仕事で集めた子供向けのオモチャとかもしこたまあるらしいし。実際に子供に遊んでもろたらモニターになってエエっちゅう話や」

 おいしい話やないか、と泰夫はのんきに言う。寂しいかもしれんけどオモチャで遊んでるうちに夕方になる、夕方になったら迎えに来る、泰夫はそんなことも言う。

「どうせお前、オモチャが気に入って帰るんイヤやってゴネるのんとちゃうか?」

 笑う泰夫を横目で見上げ、尊は内心、ため息をつく。

(寂しい、とか……そういうことと(ちゃ)うねん)

 上手くは言えないが、この薄ら寒いような感じは寂しいというのとはちょっと違う。

 それに尊は寂しいのに慣れている。

 『独りで留守番』は物心ついた頃からしていた、否応なく慣れている。ヤッちゃんが帰ってくるまでウチで留守番しててもエエねんけど……と思う。寂しいのは確かに嫌だが、こんな得体のしれないところに置き去りにされるのよりは、よっぽどマシというものだ。

 しかし六歳児にどうこう言う資格も権利も、ない。半ば引きずられるようにして尊は、ドでかいがどことなく薄暗い、昔風の家の玄関へと連れて行かれた。

 お邪魔しますと声をかけ、泰夫はカラカラと引き戸を開けた。途端にひんやりとした感じの、どこかしら湿ったようなにおいがした。不快ではないが、嗅ぎ慣れないにおいに尊は軽く硬直する。

 奥から軽い足音が響いてきて、白い割烹着姿のおばさんが現れた。どちらかと言えばふくよかな、優しそうな雰囲気のおばさんで、尊はちょっと安心した。

 が、やはりここが現実ではないような、そんな感じはした。

 昔のドラマに出てきそうな古めかしい屋敷の中にいる、これまた昔のドラマに出てきそうな割烹着のおばさん。『独りで留守番』をさせられている時、闇雲にテレビをつけている尊は古いドラマをよく知っていた。二十年も三十年も前に作られたドラマの、暗くて垢抜けない映像のイメージが玄関先に現れたおばさんに重なった。

 泰夫は言う。

「おはようございます、奥さん。今日はウチの甥っ子がえらいお世話になります。もし悪さしよったら、かまいませんから遠慮なくどついたって下さい。よろしくお願いします」

「いいえ、とんでもない。タケルくん、やったね、はじめまして。今日はゆっくり遊んでいってな。オオクス先生がオモチャ、色々と貸してくれはるらしいで」

 泰夫に頭を押さえられたので、尊は慌てて挨拶をする。

「お、おはようございますっ。ハヤカワ、タケル、ですっ」

 いやあ、お利口さんやねえ、と笑うおばさんに促され、尊は、ドラマのセットみたいなお屋敷の中へ足を踏み入れた。


 屋敷内は外観や玄関先ほど古めかしくも薄暗くもなかった。

 風や光が上手く入るようになっているらしく、ヘンな言い方かもしれないがちゃんと『人間のウチ』という感じがした。ちらっと見えるエアコンや照明器具も、ごく新しそうな、家電量販店なんかで普通に売ってそうなものばかりなので安心した。

 通された部屋にはすでに誰かがいた。渋い緑のポロシャツに薄手のベージュのカーディガンの、筋肉質な感じの体格のいいおじさんだった。尊と目が合うと、その人はにこっと、思いがけないくらい人懐っこく笑った。

「はじめまして。タケルくん、やね?よろしく。おじさんは、オオクス、ヨシアキといいます。今日は一緒に仲良く遊ぼ、な?」

 さっき泰夫が言っていた『神社のカンヌシもやっている先生』がこのおじさんなのだろう。細かいことはよくわからないが『先生』なんだから保育所の先生みたいな人なのだろうと尊は思った。

「ヨシアキ……先生?」

 保育所では先生のことを、下の名前に『先生』を付けて呼ぶことになっている。だからその慣習に従って尊は、初対面の『先生』をそう呼んでみた。

 オオクス、と名乗ったおじさんは一瞬、目を見張った。次に、あっはっは、といかにも可笑しそうに大笑いした。

「そう、ヨシアキ先生です。いや、でも、そんな呼ばれ方をしたんは初めてやな。ナンか新鮮な気分や。これからはウチの生徒にもそう呼んでもらおかな」

 泰夫が苦笑まじりに言う。

「それは……ちょっと具合悪いんとちゃいますか、センセ。下の名前で先生のこと呼ぶんは今日びの保育所とかのトレンドみたいですけど、それ以上の学校とかはやっぱり、名字に先生がフツーですよ」

 オオクスは、ふむふむ、とうなずく。

「ほんなら、幼年部の方ではヨシアキ先生ってことにしよかな?」


 泰夫は仕事に行った。

 『ヨシアキ先生』に手を引かれ、尊は、尊の感覚から言えばあきれるほど長くて入り組んだ屋敷の廊下を進んだ。

「タケルくんは普段、お友達とどんなことして遊んでるのん?」

 さっきまでの心細さが戻ってきて固くなっている尊の気持ちをほぐすように、ヨシアキ先生はのんびりと問う。尊はもぞもぞと答える。

「遊具、とか、砂遊びとか……オニゴとか」

「オニゴ?」

 ヨシアキ先生が不思議そうに繰り返すので、尊は説明する。

「オニになった子が他のみんな追いかけて、オニにつかまった子ォが次のオニになるねん」

「ああ、鬼ごっこ?」

「オニゴッコ(ちゃ)う、オニゴやで!」

 勝手に言い換えられる理不尽に憤然としてそう言う尊に、ヨシアキ先生は軽く苦笑いする。

「そうか。ごめん。他は?」

「えっと、積み木、とか……」

 ふんふん、とヨシアキ先生はうなずく。

「積み木やないねんけど、積み木に近いオモチャがあるねん。それ、ウチの生徒らが使う前に試してみたいなって思っててな。試してみたいオモチャは他にも何種類かあるんやけど……タケルくん。今日のところはそれのお試し、手伝(てつど)うてくれへんかな?」

「うん、エエよ」

 にま、と尊は、この屋敷に来て初めて笑った。

 積み木は好きだ。

 でも、家にあるのはかなり前に買ってもらった十個くらいしか部品のないショボいものだし、保育所にあるのは『みんなで譲り合って』使わなくてはならない。自分だけで思い切り、積み木で遊んでみたいと思っていた。

 それにヨシアキ先生が上から指導する感じではないのも嬉しい。仲間、みたいに扱ってくれるのが嬉しい。

 ヨシアキ先生の部屋らしいところに着く。素っ気ない、あまり生活感のない部屋だったが、なんとなくあったかくて居心地がいい。畳の部屋の真ん中に敷かれた、毛足の長いクリーム色のラグマットのせいかもしれない。

 押入れのふすまを開け、大きな箱が取り出される。箱にプリントされた写真やロゴの感じが、どことなくエキゾチックだ。外国のオモチャなのかもしれない。

 箱の蓋が開けられる。

 クレヨンの箱を開けたような印象の、色とりどりの四角い木のパーツがまず目に飛び込んできた。長さの違うレールのような木のパーツと、小さめのフライパンみたいな形の、ぐるぐる渦巻きのパーツ。

「これ組み合わせて、ビー玉転がすコースを色々、組み立てるらしいんやけど」

 言いつつ、ヨシアキ先生はパーツを組み合わせる。あっという間に短めの鉄橋、みたいなコースが組み上がる。布の袋からビー玉を取り出し、先生はそっと、コースに乗せた。

 透き通った中に緑色が揺らめいているビー玉は、光をはじいて自然にコロコロと転がり……もう一方の端にある穴へ、ころんと落ちた。と、すぐさま鉄橋の脚に穿たれた穴から転がり出てくる。

「やってみる?」

 ふわっと笑って差し出されたビー玉を、尊はうなずいて受け取った。


 午前中、いやその日いっぱい、尊はそのオモチャでビー玉を転がすコースを作るのにのめり込んだ。

 まずはヨシアキ先生が添付されている冊子を参考に、いくつかのコースを組み立ててくれた。その途中から尊は、先生に勧められて一緒に組み始めた。

 最初は助手のようだったが、後の方では自分で図を見、自分で考えて組み立て始めた。ヨシアキ先生はゆっくり、そして絶妙のタイミングで作業のイニシアチブを尊に譲ってくれたのだ。

 お昼ご飯とオヤツに呼ばれたのは覚えている。

 朝に会った割烹着のおばさんが、子供用にと気遣って作ってくれたらしい。

 コーンスープと上品な味付けのオムライス、一口大に切ったキウイなんかが自分と先生の二人分、部屋へ運ばれてきた。

 スープもオムライスもすごく美味しかったが、作りかけのコースがどうしても気になった。ろくに噛みもしないで昼食を詰め込むと、尊は、戻ってコースの続きを組み立てた。

 出来上がったコースを自分なりに工夫し、三つある渦巻き型のパーツをコース上に立体的に配置するのにはどうすればいいかをヨシアキ先生と研究し始めた辺りで、オヤツですよと再び呼ばれた。

 上等のカップに満たされたミルクティーと、飴状に溶けたカリカリする砂糖が上にまぶさった、小さなシュークリームが出された。

「お、ブルクのひとくちシュークリームですか、奥さん。いいですねえ」

 ヨシアキ先生は嬉しそうにそう言うと、大きな手でそっとシュークリームをつまんで口に入れ、幸せそうに紅茶を飲んだ。なんだかすごく美味しそうで、尊もつられたように手を伸ばす。シュー皮もカスタードクリームも今まで食べたこともないようないい香りがした。シュー皮にまぶさったカリカリした砂糖も香ばしくて美味しい。いつも食べているスーパーやコンビニで買ったシュークリームとは全然違った。

 でも……やっぱり作りかけのコースの方が気になってしまう。シュークリームを次々と口に入れては飲み込み、ミルクティーをフウフウと吹いては急いで飲み干す。そして作りかけのコースへと飛んで行く。


 不意に頭をはたかれ、尊は我に返った。

 見上げると、あきれ返った泰夫の顔があった。

「エエ加減にせえ。もう帰るど」

 言われ、外が暗くなっていることを初めて尊は気付いた。何回も声かけたのに、泰夫に言われ、尊はきょとんとする。そういえば……何か聞こえていた気はしていたが。

「早川さん」

 少し離れたところに腕組みをして座っていたヨシアキ先生が、唸るような声で言った。

「この子……タケルくん。すごいですね。信じられない集中力です。正に寝食惜しんでのめり込んでるって感じでしたよ」

 泰夫と尊は振り向き、彼の顔を見た。不思議そうな、あるいは不可解そうな顔をしている二人へ、彼はふわりとほほ笑む。

「いや、楽しみな甥御さんですね。将来すごいクリエーターになりそうや」


 以来、尊はしばらく、日曜日ごとに野崎の屋敷で遊ばせてもらうようになった。

 本音を言うと毎日でも野崎の屋敷で遊ばせてもらいたいくらいだったが、さすがにそれはワガママというものだと幼心に感じていた。

 尊は普段から聞き分けが良かった。よんどころなく……であったが。

 ごく幼い頃から尊には、大人の顔色を読む癖があった。自然と覚えていた、という方が正しい。赤子が寝返りやはいはいを覚えるように、尊は、それと気付く前に大人の顔色を読むようになっていた。

 そもそも、母の陽子(はるこ)は基本、尊に関心が薄かった。

 彼女は尊の父親である青年と結婚する予定だったが、彼は仕事中に起きた事故に巻き込まれ、亡くなってしまった。

 それ以来、彼女の中で何かが壊れたらしい。身重の自分を残して死んだ男へ、恨みに近い気持ちが湧いたのかもしれない。元から少々浮ついた性格だったらしいが、婚約者に死なれて以来、陽子は一層たがが外れた。愛した男との子供を守り育てるという方向には、彼女の気持ちは向かない様子だった。

 赤ん坊の頃は主に、祖父母が尊の面倒をみてくれていた。

 が……正直な話、祖父母も心からそうしたくて尊の面倒をみていたとは言い難かった。

 彼らは、決して悪い人間ではないし孫の尊が可愛くなかったのでもない。ただ、彼らもどちらかというと面倒をみるより面倒をみてもらいたい方というか、あまり母性や父性を持ち合わせていないタイプだった。幼い子の前で不機嫌をまき散らすようなこともちょいちょいあり、言葉もろくにしゃべれない幼児の尊に当たることすらあった。当時ハイティーンの少年だった叔父の泰夫が一番、尊を無心に可愛がってくれただろう。

 それでもそれなりに安定していた暮らしは、元々病弱だった祖父が急死したことで激変した。祖母は気の抜けたようになり、やがて軽いながら認知症の症状が出てきた。とても幼児の世話など出来ない。

 結局祖母は施設に行くことになり、母と、家を出て就職していた泰夫を頼って小波に来たのが尊が三歳の時。

 祖母はその後ほどなく亡くなった。

 小波に来た頃は母も心機一転、就職して真面目に勤め、尊の面倒もみていた。が、所詮母は母だった。祖母を亡くして半年もすると、すっかり元に戻ってしまった。すぐに男に惚れ、すぐにのめり込む、ごく若い頃からの彼女の悪癖が首をもたげてきたのだ。

 勤めていた会社にも行かなくなり、やがて解雇された。それでも彼女は惚れた男の後へついて回った。やがて男に疎ましがられ、捨てられるまでそれは続く。どうやらその間、彼女は自分が母親だということを忘れているらしい。

 尊はいつも、母をはじめとした自分の周りにいる大人に見捨てられるのではないかという不安を持っていた。お前はワガママだ、悪い子だと言われるのが怖かった。もし大人たちから見捨てられれば、尊は今後生きてはゆけない。大げさではなく命がけで、尊は大人の顔色を読み、彼らの機嫌を伺った。大人が顔をしかめそうなことは極力しないように努めていた、自覚なく。

 保育所じゃなくて野崎さんの家で毎日遊びたいなどという本音は、だから決して、彼は口にしなかった。

 しかし保育所で遊んでいても、レールを転がるビー玉の幻がちらついて仕方がなかった。あの直線レールと曲線レールをあの位置に組み込んで……などと、気付いたら頭の中で新しいコースを組み立てていた。ぼんやりしていることが増えたので、タケルくんどうしたのと、保育所の友達や先生に訊かれることが、実はその週、ちょいちょいあった。

 長い一週間がようやく終わった。尊は泰夫に連れられ、今度はいそいそと野崎のお屋敷へ向かった。


 美味しいお昼ご飯やオヤツが出てくる、今まで遊んだこともない面白いオモチャに囲まれた時間。

 自分の好きなことをしていても止められない、叱られない、だけど必要な手助けはちゃんとしてくれる、本物の大人がそばで見守ってくれている時間。

 クジャクが庭をしずしずと歩いている、不思議な魔法の国に迷い込んだような……時間。

 日曜日ごとに尊は、魔法の国で魔法の時間を過ごした。


 魔法の国の王様に会ったのは、初めてお屋敷に連れてこられてから一ヶ月ほど経った頃だった。

 その時尊はヨシアキ先生と、乾電池で動くオモチャのドライバーを使って自動車を組み上げていく……というヨーロッパ製のオモチャで遊んでいた。かなりリアルな形状の、モーターで動く本物っぽいドライバーに、尊はすっかり魅了された。ヨシアキ先生が差し出すボルトやナットなどの部品類を、尊は夢中で組み立てていた。

 ふと、ヨシアキ先生が顔を上げた。

「ああ。ご隠居さんでしたか」

「いや、すまんな。邪魔するつもりやなかってんけど」

 聞いたことのない声に、尊も手を止めて顔を上げる。息を呑んだ。

 そこには、おそろしく姿勢のいい、地味ながらも高価そうな着物を着た白髪の老人が、すっ、と立っていた。優し気にほほ笑んでいたが、目付きの鋭い老人だ。泰夫の言う『会長さん』がこの人なのだろうと尊は思った。『会長さん』が具体的にどれくらい偉いのか、もちろん尊にはわからなかったが、この老人の立ち姿と目には、子供心にも響いてくる何かがあった。

(王様や、この人)

 この屋敷……この魔法の国の。言われなくてもわかる。

 魔法の国の王様は、ふっと目許をゆるめた。

「早川君の甥っ子がなかなか面白い子ォや、()うからちょっと気になってな。さっきから見てたんやけど、手先の器用な子ォやな」

 ヨシアキ先生は諾う。

「手先も器用ですけど、空間認識力、って言うんでしょうか?それが生まれつき高いんやないかと思いますね。自分が納得するまで試行錯誤するのを嫌がれへん、粘り強さもありますし。物作りといいますか、クリエイターの素質、十分以上の子ですねえ」

 ははは、と王様……会長さんは軽い声を立てて笑った。

「ベタ褒めやな。オオクスさんには珍しいこっちゃ」

 珍しいですかね、と、ヨシアキ先生は首をひねる。やや心外そうでもあった。

「私は『褒めて伸ばす』をモットーにしてきているつもりですが」

「本人はそのつもりかもしらんけど、案外そうでもなさそうやで。オオクス先生は要求水準が高い、ゆうてボヤく声、ワシみたいな部外者にもチラホラ聞こえてくるくらいやねんから。ま、そのアンタがそこまで言うんや、この子にはそれだけエエもんがあるっちゅうことやろう。……ああ」

 老人は、ポカンと自分を見上げている尊の視線に気付いた。

「悪かったな、ボク。もう邪魔せえへんからゆっくり遊びや」

 言うと、ほとんど足音も立てずに彼は、その場から去った。


 魔法の時間は不意に終わった。

 七月にさしかかった、しとしとと雨が降る蒸し暑い日だった。

 その日も尊は、泰夫が保育所へ迎えに来るのを待っていた。ブロックでお城を組み立てながら、尊はちらちらと出入り口を見ていた。

 思いがけない人影が現れ、尊は固まった。

 先生方へ慌ただしく頭を下げ、その人は、お迎えを待っている尊たちの方へ近付いてきた。尊の姿を認めると、顔をくしゃっと歪めた。

「タケちゃん」

 声と同時にガシッと抱きしめられ、尊は息が詰まった。

「ごめんね、ごめんね。お母ちゃんが悪かった、一緒におウチ、帰ろうな」


 母が帰ってきたのだ。


 ちょっと疲れた感じに薄らいだ、安っぽいコロンのにおいと母の汗のにおい。懐かしい……疎ましいにおいだ。

 何故かその時、尾羽を広げたクジャクがつんと頭をもたげ、きびすを返して遠ざかる幻が見えた。

 鼻の奥が痛くなり、涙がにじんだ。

 これで魔法の時間は終わった。尊は静かにそう思った。


 それきり、野崎のお屋敷へは行っていない。

 泰夫の話では、ヨシアキ先生や『白い割烹着のおばさん』こと野崎翁の息子の嫁、そして当の野崎翁自身が、いつでも遊びにおいでと言ってくれているらしいが、行けるものではない。

 その言葉を真に受け、屈託なく野崎の屋敷に出入り出来るほど、尊は純真な子供ではなかった。あの屋敷に出入り出来たのは、自分が、そばで面倒をみる大人がいない可哀相な幼児だったからだと尊は察していた。大人の顔色を読み続けてきた尊は、そういう部分がひどくませていたし、気も遣う子供だった。

 しかし大人たちは気付かない。

 未就学児がそこまで相手を気遣うなど、想定すらしないだろう。

 お母さんが戻ってきたから嬉しくてそばにいたいのだろう、だから遊びに行くと言わないのだろうと簡単に解釈していた。尊のそばにいる、おそらく一番無心に尊を可愛がっている叔父の泰夫であったとしても。

 翌年、尊は小学生になった。

 小学生になれば泰夫に面倒をかけることも減ってきた。身の回りのことも徐々に出来るようになってくる。仮に独りで留守番させられたとしても、幼児の頃ほど心許なくもない。泰夫自身も自分の仕事が忙しくなってきて、尊にばかりかまけていられなくなってきた……という事情もあった。

 泰夫が連れて行ってくれない限り、尊は野崎へは行けない。

 あの楽しかった二ヶ月ばかりは、もはや夢か幻のようにしか思えなくなっていた。


 泰夫はタバコを消し、座り直した。

「ウチの会長の古い知り合いに、宮大工の棟梁がおるんやけど……」

「ミヤ、ダイク?」

 尊は問い直す。あまり聞いたことのない職業だ。泰夫はうなずく。

「要するに、お宮さんとかお寺とか、そういう木造の建物を作ったり直したりする大工や。釘を使わんと材木組み合わせて建物作ったりするらしい。最近、若いなり手が少ななって困ってるらしい。身体が丈夫で根気の続く、手先の器用な若いモンが今日びなかなかおらんらしい。そいで、お前さえ真面目に働くつもりがあるんやったら、その道に進んでみたらどうかと思うんや。進学しやへんのやったら、手に職付けた方が絶対エエし」

 泰夫は真っ直ぐ、尊を見ている。

「話を聞いて俺は、お前に向いてるんやないかってすぐ(おも)た。どや?話だけでも聞きに行かへんか?」

 新緑のにおいが不意に鼻をくすぐった。泰夫に手を引かれて野崎の屋敷の戸をくぐった日のことが、戸惑うほどあざやかに尊の中でよみがえった。

「うん……頼むワ、やっちゃん」

 少しはにかむように目をそらし、尊は言った。

 遠くで魔法の国の扉がかすかに開く幻が、見えた気がした。


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