カノ
「テラスっ!」
鋭い声ではっと目が覚めた。
「君だったの、ミコト!」
はっとして振り返ると、あたしが出てきた階段からヨミが飛び出して来るところだった。
「テラスから離れろ、ミコト!」
ヨミが右手を天高くつきあげると、その手に黒塗り細鞘の長槍が現れた。
その槍を振り回しながら、ヨミがこちらへ突っ込んでくる。
「トツカっ!」
「はいよーっと」
ミコトは『トツカ』で間一髪、槍を受け止めた。
「相変わらずだな、ヨミ」
「君もね、ミコト。テラスに何を吹き込んだか知らないけど、彼女にこんな顔させるなんて……赦さないよ」
ヨミは、これまで見た事のないくらい怒っていた。
いや、見た目は笑顔なのだが、纏った空気が刺すほどに痛い。殺気に近い敵意をむき出しに、ミコトに向かって槍を突き付けている。
それは普段の優しい彼とは似ても似つかない。
きれいに整った顔に物騒な笑みを張り付けて、一部の隙もなく槍を構える姿は紛れもなく『戦う者』。戦場に身を置く最上級の異形狩りの姿だ。
槍を突き付けたヨミとそれを迎え撃つミコト。
凄まじい戦いが勃発しようとしていた。
が、そこに鋭い声が響いた。
「やめなさい、二人とも!」
声と言うより衝撃波かと思うような音響に、びりり、と全身が震えた。
「ヨミ、ここがどこか、今どういう状況か分かっていますか? トツカとハクマユミを交戦させれば何が起こるかくらい、予想がつくでしょう?!」
「……カノ」
「武器を引きなさい、ヨミ」
カノの説得に、ヨミはしぶしぶ槍を引いた。
しかし、放たれた闘気はまだ収束していない。皮膚がピリピリするほどの圧力がこの場を支配していた。
「ミコト。貴方がテラスに何を言ったか……想像はつきます。焦る気持ちはわかりますが、もう少し待ってください。岩戸プログラムを解除するには時間がかかるのです。理屈でわかっても感情はついてこない。神経の伝達を司る『感情』を繋げない事には、意味がありません。それは貴方が一番分かっていることでしょう?」
ピリピリとした空気。いつもにこにこと笑っているカノにあるまじき迫力だった。
「私に任せてくれますね」
カノは静かに、でも強くミコトを諭す。すると、ミコトも素直に剣を引いた。
「なーにぃ? 終わりぃ?」
「戻れ、トツカ……音声認識、オフ」
光と共に剣が消失する。おそらく、あたしのクロスボウと同じように分子分解で収納しているのだろう。ヨミの槍もきっと同じなのだろう。
双方武器は収めたが、まだ睨み合いは続いている。
そんな中、カノはあたしを軽々と抱えあげ、その睨み合いの渦中から引き剥がした。
「さあ戻りましょう、テラス。貴方は怪我が完全に治ったわけではないんですよ……と、言っても、もう遅かったようですが。反省しなさい、ヨミ、ミコト。これが結果です」
「……カノ?」
首を傾げると、カノはこれまでにないくらいに真剣な顔でじっと闇の一点を見つめていた。
「今のでナミに気付かれたか……!」
ヨミも苦しげな声を出す。
いったい、何が起ころうとしているの?
「おやおや、随分と警戒されたものだ」
全員の視線が集中した方向から、笑いを含んだ台詞が響いてきた。
そして、その声と共に闇の奥から現れたのは非常に美しい男性だった。
腰まであるストレートの金髪が風に靡く。憎らしいまでに整った顔立ちに、どこか人を小馬鹿にしたような笑みを張り付けている。年の頃は30にも満たないだろう。
いや、それよりも、あたしが驚いたのは。
嘘でしょう?
金色の髪はあんなにも長くなかったけれど、あれはあたしがすごくよく知っている姿だった。
「ナギ――?」
物心ついた時から傍にいた、育て親と同じ容姿だったのだ。
ただ違うのは、目の前の男性が温かく優しかった育て親のナギと違って、見る者に恐怖を植え付けるような雰囲気を纏っているという事だった。
「ナギっ!」
「違いますよ、テラス」
飛び出そうとしたあたしを、カノがきつく留めた。
「あれは、貴方の育て親であるナギではありません。彼はタカマハラに住む者――気をつけなさい、彼の狙いはテラス、貴方です」
「ナギじゃ……ない?」
「ええ。ここはヨミに任せます。いいですね、ヨミ」
「はい」
ヨミが珍しく真摯な返事をした。
「やめてくれないか、カノ。それでは私が悪者のようではないか」
「それ以外の言い方がありますか? 申し訳ありませんが、テラスは渡せません。ヨミとミコトを相打ちさせたくなかったら、ここから退く事です」
あたしはカノに抱えられたまま、地下の部屋へと連れ戻された。
最後に、育て親と同じ容姿をしたタカマハラの人の姿を瞼に焼きつけて。
その後、彼らがどうなるかは分からないが、あたしはツヌミの待つ部屋に戻ってきた。
カノはあたしをベッドに横たえ、足に付けていた歩行補助器具を外した。
彼に先ほどまでの鋭い空気はない。いつもと同じ、医者のカノの姿がそこにはあった。慣れた手つきで右足の包帯を取り替え、左半身の皮膚に刻まれた痕が化膿していないかを簡単に確認した。
「ねえ、カノ……あの人は、誰? ナギにそっくりだったけれど」
「彼は、タカマハラの中でも高位に在る、私たちが抗う相手です。名はナミと言います」
「抗う? なぜ?」
首を傾げると、カノは困ったように笑った。
「ええと、分かりやすく言えば彼は貴方の中にあるプログラムを狙っているのですよ」
「そしたらどうして敵なの? そんなプログラム、あげてしまえばいいのに」
「そうもいかないんです。ここから先は難しくなりますからまたこんど話しますが……とにかく、あの人に近づいてはいけません。いかにあの人が貴方の育て親に似ていたとしても、です」
「カノはナギを知っているの?」
「同じ異形狩りですから。他に個人的なつながりもありましたしね」
どうしてカノはいつもこんな含みのある言い方ばかりするんだろう。
質問してほしいのか、これ以上の詮索をするなという警告なのか、今のあたしには分からない。
あいつらはお前に何も与えやしない――ミコトの台詞がもう一度胸を貫いた。
ずきり、と胸のどこかが痛み、そこからカノに対する疑惑が流れ出して来る。
「じゃあ、ミコトって、何者? ヨミと仲悪そうだったけど……」
「ミコトですか。彼は、彼も貴方とヨミの兄弟にあたります」
「……えっ?!」
「以前お話ししたように、貴方とヨミの遺伝子には共通するプログラムが刻まれています。それと同じものがミコトにも組み込まれているのです」
彼があたしと、そしてヨミと同じ――?!
「しかし、彼は私たちと違ってタカマハラに属するのです」
「タカマハラに?」
「ええ。貴方たち3人がコードを刻まれたのは、タカマハラの中です。ですが、その後、テラス、貴方はナギと共に街へ行き、ヨミとミコトはタカマハラに残りました。ですが、ヨミだけは貴方を追ってタカマハラを抜け出したのです」
ナギにそっくりなあの人もタカマハラの人間。そして、あたしもヨミも元々はタカマハラの人間――いつも頭の中に響く声は、いつだってタカマハラを警戒しているというのに?
いったい、タカマハラって何なの?
タカマハラの事、もう一人の兄弟の事、どうして教えてくれなかったの?
「すみません、黙っているつもりはなかったのですが、話しそびれてしまって……なにしろヨミが貴方の傍を離れないものですから、いろいろな事を説明する機会が……」
そう言って笑うカノは、やっぱり嘘をついているようには見えなかった。眼鏡の奥の温和な瞳を困ったように歪めて、寝癖のついたぼさぼさ頭をかいている。
それなのに。
「今日は疲れたでしょう? 話は今度にして眠りなさい、テラス」
この人があたしにいろいろな事を隠していたなんて、考えられない――考えたくない。
きっと、話す機会を逸していただけ。
そうに違いない――そうであって欲しい。
「うん、わかった」
こうしてあたしは自分の不安に蓋をしようと努力した。何も知らない事がどんなに不安か自分が一番分かっているのに。
だって、この人の声も言葉もこんなに優しい。
「おやすみ、カノ」
「おやすみさい」
それなのに、あたしの心はもう動かない。
何もかもが疑わしくて、何を信じていいのか分からない。
ねえ、カノ。あたしはあなたとヨミを信じてもいいの?
「……すみません」
夢に入る間際、微かに聞こえたカノの懺悔だって、聞こえないフリをしたかった。
ヨミもカノもミコトもあたしにとって敵なのか味方なのか、そして岩戸プログラムとは何なのか。異形の正体は。あたしたち3人に共通に刻まれたプログラムは。
あたしはいったい、これからどうしたらいいのか。
でも、今は何もかもを忘れて眠りたかった。
灯りを落とした薄暗い部屋で浅い睡眠と覚醒を行き来しているうち、ふとベッドの脇に気配を感じた。
うっすらと目を開ける。
「……ヨミ?」
そこに立っていたのは、灰白色の瞳を持つ美少年だった。この闇の中でも燐光を放つかのようにぼんやりと光る淡い茶髪は、柔らかく温かい色をしていた。そう、茶色というよりは橙に近い色だ。
いったいあの後何があったのか分からないが、ヨミの頬には殴られてできたのであろう大きな痣がくっきりと浮かび上がっていた。カノがヨミを殴るとは考えられない。相手はミコト、もしくは、あのナギにそっくりなナミという男性だろう。
「大丈夫? ヨミ。痛そう……ミコトがやったの?」
起き上って手を伸ばそうとすると、途端に彼はあたしの腕をつかみ、逆にベッドに縫い付けた。
「……え?」
吸い込まれそうな灰白色の瞳があたしを射抜いている。いや、これは灰色でなく銀。煌めく白銀の瞳は、暗闇の中でも光にあふれていた。
「……さない」
ヨミの口から途切れた言葉の切れ端が零れおちる。
「絶対に、ミコトに……タカマハラなんかに渡さないよ」
四つん這いの体勢であたしの上に覆いかぶさったヨミは、完全にあたしの身動きを封じていた。しかも、銀色の瞳から目が離せない。
ゆっくりと綺麗な顔が近づいて来る。ここまで整った顔だと、殴られた痕すらも艶っぽい。
すぐ傍で、銀の瞳が微笑う。
「テラス……」
ヨミがあたしの首筋に顔を埋める。
その首筋に生暖かいものが這ってようやく、あたしは身の危険を察知した。
ヨミだって、男なのに。
あたしは、自分の愚かさに愕然とした。
何しろすっかり忘れていたのだ。あたしがこの街で生きていくうえで、一番重要な事。
――生きなさい
自分の身は、自分で守る。それが大原則。
「……テラス、アマテラス。僕の太陽……」
耳元で囁かれる甘い響きに、体の芯までぞくりと震える。
いつもの優しい少年ではない、そこにいるのはまぎれもなく『男』だった。これこそが、これまで仮面の下に隠していた本性なのだろう。
あたしは甘かった。
『我慢してたんだ』と言った時の彼の表情を思い出す。
ああ、そうだったのか。あれは、そういう意味だったのか。
「愛してるよ、テラス」
やめて。そんな言葉、聞きたくなかった。
「誰にも……渡さない」
先ほどと同じ台詞が、全く別のモノに聞こえた。
突発的な恐怖があたしを襲う。世界が崩れるような不安に突き落されていく。
「泣いているの? テラス」
言葉もなくただ涙を流すあたしに、ヨミはようやく気付いた。
まるで動物がするように、流れ落ちた雫を舌でなめとり、目元に軽く唇で触れた。
「どうして? どうして泣くの?」
これは報いだ。
安寧に身を委ねて『生きる事』を怠ったあたしに課せられた罰則だ。
その証拠に、きっともうヨミと以前のような関係には戻れない。心から信じられる『仲間』になるかも、という淡い期待を抱いていたのに。
でも、だからといって、あたしは彼を男として受け入れる事だって出来ない。それには感情がついてこない。
彼が本当に大切な存在になっていたからこそ、自分の心を偽る事が出来なかった。
「……ごめんね、ヨミ」
あたしは辛うじてそれだけ口にした。
「テラス……?」
ヨミは、ひどく傷ついた顔をしていた。
「ごめんなさい」
涙が止まらなかった。
あたしは最悪だ。
気づいていたくせに気づかないふりをして、挙句にヨミを傷つけた。
「ごめんなさい……」
薄暗い部屋に、あたしの懺悔だけが響いていた。