ヨミ
先ほどの白い視界は、閃光だったらしい。
辺りの轟音が消えても、あたしの視界は回復しなかった。暗視スコープで閃光を見た報いだ、見えるようになるまではもう少しかかるだろう。
そして、どうやら異形は倒されてしまったようだ。
あたしは警戒を強めた。
先ほど聞こえた声からすると、異形を倒したのはきっと同業者の男だ。
そしてあたしは女で、今、全く動けない状態にある――これがこの街においてどういう事を意味するか、考えるまでもない。相手が同業者だろうと関係ない。それは時に同じウズメの下で働くタツやカラにだって当てはまることなのだ――あたしがヤツらに遭いたくない理由は、そこにもあるのだが。
しかもこの類の身の危険に遭ったのは、それこそ一度や二度じゃない。
触れられる前に威嚇射撃……?
「近寄らないで。それ以上近付けば、同業者だろうと撃つわよ」
が、構えようとした時、ふいに声がした。
「ちょっと落ち着けよ、テラス。お前怪我が……」
知らない声が、あたしの名を呼ぶ。
「誰? あたしを知ってるの?」
真っ白になってしまった視界が回復する気配はない。でも、すぐ近くに人の動く気配があるのは分かっている。危険だ。この上ないくらいに。
ツヌミ、どこ?
耳をそばだてるけれど、ツヌミの羽音は聞こえなかった。もしかして、さっきの異形にやられてしまったの? それとも……
「どうしてこんな場所にいる? 本当ならナギの処に」
「あなたは誰? あたしを知ってるようだけど、異形狩りじゃないの?」
「誰って、俺は」
声の主は一瞬驚いたようだったが、すぐに冷静な声に戻った。
「……もしかして、岩戸プログラムが発動しているのか。それじゃ、ナギは」
「イワトプロ……?」
「やっと見つけたっていうのに……」
だめだ、話が通じない。
でも、体が動かない今、身を守る手段は言葉しかない。目の前にいるこの人から情報を引き出さないと。
「とりあえず、あなたは異形狩りよね。どこの区域担当? ここはウズメの担当区域って知ってるわよね」
声を出す度、全身に痛みが走る。虚勢を張って強気な声を出すが、視界を奪われ痛覚が鋭敏になっているせいで、どうしようもなく痛い。
「領域の侵略として裁かれる前に去りなさい」
ところが、返事の代わりに、鋭敏になった頬に何かが触れた。二度、三度と何かを拭うように撫でていく。
体温を感じる……これは、手?
相手に触れられる事は絶対に避けるべきだったのに、何故だろう、あたしはこの手を知っている気がした。
「テラス」
どこか優しい声。温かい手。
ああ、駄目だ。意識が落ちていく。
――生きなさい
頭の片隅で、またあの声がする……
――生きなさい。人間の未来のため、お前たちは生きなくてはいけない
誰? いつもあたしに呼びかける声の主は誰?
――アマテラス、お前が最後の希望だ
心の隅々まで澄み渡るような優しい声。
――タカマハラにだけは気をつけるんだよ。決して近づいてはいけない。彼らは、お前達を
何? タカマハラがどうしたの? あたしたちを使う?
分からない……
――16歳になるまでは隠れて暮らすんだ。絶対に、捕まってはいけないよ。そして、その日まで……生きなさい。そうすれば、お前の兄弟が迎えに来るから……
はっと目が覚めた。
同時に痛みが全身を襲う。
思わず顔を顰めたあたしの視界を、見慣れた漆黒の羽根が横切った。
「ツヌミ」
特に乱暴された様子はなく、むしろ自分が万全の治療を受けていることに驚いた。こんな設備がこの街にあったとは、知らなかった。
右腕は完全に固められているようで動かなかったが、左腕は何とか動く。包帯に包まれた左腕をゆっくりとあげてツヌミに手を差し伸べると、ふいにベッドの脇で声が上がった。
「あっ、起きた!」
誰?
あの時、異形にやられて動けなくて、それから知らない人がいて、閃光で目が見えなくなって、それからどうしたんだっけ。
「よかった、もう起きないかと思ったよ」
ところが、ツヌミの代わりにひょい、とあたしを覗き込んできたのは、見た事のない少年だった。
あたしと同じか、それより幼いかくらい。大きな灰白色の瞳が好奇心で輝いている。淡い茶髪が頬にかかり、さらさらと揺れた……問答無用の美少年だが、残念ながら見覚えがない。
警戒を解かず、あたしは眉を寄せる。
「……誰?」
「あっ、そうだった。僕、ヨミだよ! 久しぶり、テラス」
ヨミ? 久しぶり?
目の前の少年に見覚えはないのだが。
「テラスもすっごく美人になったね。想像してた通りだ!」
そう言うと、ヨミと名乗った少年はにこりと笑った。
「嬉しいな。きっとカノも喜ぶよ!」
「カノ……?」
どうしよう。この少年の言う事が全然分からない――もしかするとあたしは呪われているんだろうか?
でも、さっきからとりあえず顔が近い。ほとんど額が触れそうな距離に、本当に綺麗な少年の顔。
「やっと会えたんだもんね」
こつり、と額を合わせて眼を閉じた少年の長い睫を呆然と見つめていると、またも別の声がした。
「やめなさい、ヨミ。岩戸プログラムが作動しているんですよ……テラスが困っているでしょう?」
「カノ」
少年の声が少し遠ざかり、ぱっと視界が開けた。
一面コンクリートの天井。でも、あたしの部屋とは比べ物にならないくらいに明るい。見渡せる限り灯りや家具は他に見当たらなかったが、扉から年若い男性が覗いていた。
「すみません、テラス。突然……」
寝癖をそのままにしたのか元々なのか、あちこちに跳ねた茶髪。眼鏡の奥に細まった目は温和な性格を示している。白衣を纏った、柔らかな雰囲気を持つ20歳過ぎの青年だった。
「申し遅れました。私、カノと言います。この子はヨミ。貴方が異形に襲われて動けなくなっていたので、僭越ながら手当てさせていただきました」
「カノ、さん」
「大丈夫ですか?」
「あ……ありがとう」
落ち着いて。この状況を分析するの。
どうやらこの人たちはあたしの事を知っているらしい。同業者ならそれほどおかしくはない事だ。が、まるで以前会っているかのような物言いは、いったいどういう事だろう?
第一、この街で見ず知らずの人間を、それもあたしみたいにちっぽけな女の子を助け、手当てをしてくれるなんて不自然すぎる。
だめだ。何も分からない。
自分の身は自分で守らなくてはいけないのに――一瞬あたしは迷った。
この人たちを完全に信頼できる?
「ああ、そんな目をしないでください、怪しいものじゃありませんから」
いや、どう考えても怪しいけれど。
警戒しても体が動かない以上どうしようもないのだが、気を許すわけにはいかない。
「あの、カノ……さん」
「何でしょうか?」
「カノさんも、ヨミ……くんも、あたしの事を知ってるみたいなんだけど、あたしは全然知らない。さっき言ってたイワトプロ……なんとかっていうのも。それから、異形にやられた時助けてくれたのは別の人だった気もするし」
自分の頭の中も整理するように、一つずつ疑問を口に出していく。
「あなたたちは、何者なの? 異形狩りである事は確かなようだけど……」
あたしにとっての至上命題は一つだけ。
――生きなさい
そう、全身が叫んでいるという事実だけ。
「教えて。あたしは、あなた方に会ったことがあるの?」
「ええ、そうです。そうですね……どこから話しましょうか。ああ、それと、私の事はカノ、でいいですよ」
ヨミを部屋から追い出したカノは、ベッドの端に腰かけ、あたしを見下ろした。
「すみません、最近、足が悪いもので。ここに座らせてください」
「どうぞ」
しかしながら、見下ろされているのに不思議と不快ではなかった。それはきっと、この人が持つ独特の柔らかい空気にあると思う。
「さて、最初に。私たちも、異形狩りの一団です。テラス、貴方はウズメが統率する一団に属するハンターですよね。私たちは、タカマハラを挟んでウズメの担当区域の反対側で活動する者です」
「ウズメの事知ってるの? ……って、反対側?!」
「はい。怪我をした貴方を拾ったのはタカマハラ付近でした。任務でずいぶん遠出されていたようですね」
確かにあたしが異形にやられたのはタカマハラ付近だった。
「でも、どうしてあたしを助けたの? こんな街では他人を気にかけている余裕なんて誰にもないはずなのに」
するとカノは微笑んだ。
「それはですね、テラスがヨミと兄弟関係にあるからですよ」
「あたしとヨミが……兄弟?」
「ええ」
えーと、さっきの美少年のあたしが兄弟?
ソンナバカナ
そんな話、記憶にある限りで聞いたことない。
「えっ? でもあたし、ヨミなんて知りませんよ?」
「……それを本人に言ったら、ヨミは寝込むほど落ち込みますよ」
カノは困ったように笑った。
「兄弟と言っても同じ親から生まれた、という意味ではありません。同じ遺伝情報を共有しているという意味です」
「イデン情報……?」
「遺伝情報というのは、生命体各個人が持つ、自己を創造し調節するための情報の事です。核酸の塩基配列によってコードされ、相補的な塩基が補う事で増殖を行う、自己複製型の有機的高機能プログラム。それによって、私たちはここに存在し、生命体としての活動を行っているのです」
突然、カノの口から訳の分からない言葉が飛び出した。
「……ごめん、カノ、難しくて分かんない」
「ああ、すみません。専門分野なもので、少々先走ってしまいました……要するに、テラス、貴方の髪の色、瞳の色、性別に至るまで、身体的な要素を決定しているプログラムが、貴方の中に存在するという事です」
「あたしの中に、プログラム? それじゃ、あたしは人間じゃないっていうの?」
「いいえ、そのプログラムは生き物ならば誰しもが持っているものです。この細胞一つ一つがその情報に従って分裂、増殖、分化を繰り返して生命体を構成しています」
あたしは生きている。食料を摂取しなくちゃ死んでしまうし、逆に食べたら食べた分だけ成長する。呼吸をして、その分運動する。怪我をすれば治るし、悩んだり喜んだりだってする。
そんな生命活動すべてがあたしの中に刻まれた『イデンジョウホウ』とやらで制御されているらしい。
でも、もしもそれが本当だとすると、なんだか気持ち悪い。あたしの体が急に自分のものじゃなくなってしまったみたい。
「でも、それがあたしを作るプログラムだとしたら、あたしとヨミが同じってどういう事? ヨミとあたしは一緒じゃないよね?」
「すべての情報が一致する人間はいませんよ。例えば、私と貴方では性別が違う。髪の色も顔も、身長だって違います。それらは、すべて遺伝情報の違いによるものです。しかし、同じである情報もあります――それは、『人間である事』」
カノの言葉をゆっくりと噛み砕きながら、ツヌミの黒い翼に目をやる。
「貴方とその鴉では見た目が違うでしょう? 姿かたち、違う分だけその情報が違うのです。貴方と鴉の違いは私と貴方の違いよりも段違いに大きい。そして、その違いは血縁関係が近いほどに小さくなる傾向にあるのです」
「じゃあ、あたしとヨミはその『同じ部分』が大きいの?」
「ええ、そうです。貴方は賢い子ですね」
カノはにこりと笑った。
「本来、遺伝情報というは、実の両親から半分ずつ受け継ぐものです。だから血のつながりのある者同士は先天的に似通った遺伝情報を持つ場合が多い。しかし、貴方とヨミは後天的に埋め込まれた同じプログラムを持ちます。だから、私は貴方たちを兄弟、と呼びました」
「うん、とりあえず、何となくわかった」
「ありがとうございます。分かっていただけて嬉しいです」
「でも聞きたい事はまだまだたくさんあるよ。何であたしがヨミと同じプログラムを持ってるのか、どうしてカノはそれを知ってるのか、それから、そんなプログラム、誰が作ってあたしとヨミに与えたのか」
全部当たり前の質問だと思ったのだが、カノは目を丸くして肩をすくめた。
そんなに変な質問だったかな?
「テラスは本当に賢い子ですね。自分に何が分かっていて、何が分からないかをきちんと把握できている」
カノはにこりと笑ってあたしの頭を撫でた。
男性に触れられるなんて恐ろしく危険なことなのに、まるで育て親に撫でられた時のような安堵を感じてしまい、自分に驚く。
「それは少しずつ話していきましょう。物事には順序があります」
「それじゃ、別の質問していい?」
「ええ、どうぞ」
「あたしもカノもツヌミも、みんなプログラムに沿って形作られるって言ったよね。じゃあ、その最初のプログラムって、いったい誰が作ったの?」
そう聞くと、カノは目を丸くした。
「……誰でしょうね。今のところ、自然に発生したというのが定説ですが、本当のところは誰にもわからないのです」
カノは寝癖のぼさぼさ頭をかきながら笑った。
あたしの勘を信じていいのなら、このヒトは大丈夫だ。手当てしてあるのは本当だし、言葉遣いもこの壊れた街には珍しいくらいに丁寧だ。
何より、この眼鏡の奥に優しい光をともす藍色の瞳はウソをついていない――と、思う。
とてつもなく突飛な話だったけれど、とにかく一度、信じてみてもいいかもしれない。
「ねぇ、遅いよ? まだ?」
その時、痺れを切らした少年の声が入ってきた。
「ヨミ、大事な話があるから出ていなさいと言ったでしょう?」
「えー。でも僕だってテラスと話したいんだよ!」
「もう……仕方ありませんね」
カノはふぅ、とため息をつくと、もう一度あたしに向かって微笑んだ。
「詳しい話の続きはまた今度にしましょう。今は、とりあえずこれだけを覚えておいてください――私たちは、テラス、貴方の味方です。安心してください」
そう言ってベッドの端から立ち上がったカノは、駆け寄ってきたヨミの頭にポン、と手を置いて優しく諭した。
「テラスは怪我をしているのだから、あんまり邪魔をしてはいけませんよ、ヨミ」
「はぁい!」
味方。そんな一言に、あたしの心が震えた。ツヌミ以外は味方なんて呼べる人、いなかったから。
あたしはこの二人を信頼していいのかな。
カノが部屋を出ていくと、テラスはベッドの脇にしゃがみ込んであたしの右手をとった。
「ね、テラス。いろいろ教えて! テラスはこれまで何処にいたの? どんな風に暮らしてたの? どんな人と一緒だったの?」
「あ、あたしは」
温かい。久しく忘れていた人の温もりが、ヨミの触れたところから流れ込んでくる。
ヨミの鼓動まで伝わってくる気がする。あたしが、ヨミが生きている証だ――同じプログラムを持って生まれてきた兄弟っていうのはウソじゃないのかもしれない。
「あたしは、異形と闘っていた。ツヌミと一緒に」
「ツヌミって、このカラス?」
「うん、そう」
養い親が死んでから、安堵する事などなかった。
異形と対峙する時はもちろん、ウズメを前にしても、タツやカラと共闘していても、もちろん、自分の家と呼べる場所で体を休めている時でさえ。
でも、あたしは今、確かに安堵を感じている。
まるで、ここがあたしの帰る場所であったように。