イワトプログラム
あたしはカグヤの人々全員に待機の指示を出し、幾人かのリーダーを選んでその場を任せると、カノの診るミコトとヨミの元へ向かった。
入ってすぐのドームより一階分下に降りたところにある研究室で、ミコトとヨミ寝台に寝かされていた。二人とも瞼が固く閉じられており、さらに、放射能を浴びた証の痣が頬に浮かび始めている。
まだカグヤに来て幾許も経っていないというのに。
忙しく動き回るカノに声をかける。
「ツヌミは?」
「ここよりもう一つ下にある制御室に向かいました。今はもう『タカミ』へのアクセスを開始しているはずです」
ツヌミも既に戦いを始めている。
「テラス、貴方もそちらの台に上がってください。コードを取り出す準備をします」
「はい」
あたしは言われた通り、ミコトの隣の寝台に上がった。
「ミコトもヨミも大丈夫なの?」
「……実はあまり芳しくありません。開放系第3段階からくる身体へのダメージが大きく、そのせいで破壊コードの活性が高まっています。このままでは一日と持たず、生命維持に必要な細胞まで破壊してしまう」
「……!」
「事態は一刻を争います」
あたしは唇を噛みしめた。
カノは周囲に設置された器具を見ながらしきりにメモを取り、部屋を駆け回っている。
自分の無力さを噛み締めていた。
「ねえ、カノ。あたしには何も出来ないのかしら?」
カノやツヌミのように、多くの人を救うための力になりたい。
どうして自分にはなんの力もないのだろう。命がけで戦う彼らに何かしてあげられる事はないのだろうか。
「そう思ってくださるだけで十分ですよ、テラス」
「本当に……?」
「ええ。貴方は太陽であり、私達の導き手。その存在そのものが人類にとっての希望」
カノはあたしの髪をゆっくりと撫でた。
「生きたいと、強く願ってください。それが私達の力になる」
優しい言葉でも、カノは真剣だった。
寝台に横たわり、黒く滑らかな材質の天井を見上げる。
少し顔を傾ければ、右に黒髪のミコトが、左には橙の髪を頬にかけたヨミが目を閉じたまま横たえられていた。
「気分はどうですか? 苦しかったり、痛かったりする事があったらすぐに言ってください」
「大丈夫よ」
放射能の影響が顕在する二人と違い、あたしは驚くほど元気だった。
むしろ、高揚して体が熱いくらい。
「今はまだコードが抑制されていますが、その抑制も100パーセントではありません。影響が現れる前に、必ず言ってくださいね」
あたしが持つのは活性化コード――ミコト、ヨミの破壊コードと対極をなし、破壊された分の細胞を補う力を持つもの。
そう、あたしは忘れていた。
あたしに埋め込まれたコードはまだ抑制されていて働かないという事。「岩戸プログラム」と呼ばれるそれは「感情」を契機にして解除されるという事。
あたしはその感情をまだ持っていなかったのだという事も――
長い、永久とも思える時間が驚くほどゆっくりと回転する。
寝台の上であたしははやる気持ちを抑えていた。
まるでその感情に同調するかのように体はどんどんと内側から熱を持っていく。弾け飛びそうに熱い塊があたしのなかに生まれ始めているようだ。
その熱さに耐えかねて、寝台の上で膝を抱えた。
「テラス? どうしました? 大丈夫ですか?」
心配そうなカノの声。
「大丈夫。少し、熱いなって」
「抑制しきれないコードが放射能に反応して活性化しているのでしょう――もう時間がない」
時間がない。
もし間に合わなければ、みんな死んでしまう。
「大丈夫よ、もし本当に危なくなったらあたしはナミのところに行くから」
それは、ずっと決心していた事だった。
カノもツヌミも全力を尽くしてくれているけれど、それでも無理だった時は――
「それはいけませんよ、テラス。ミコトもそう言ったでしょう?」
似合わぬ強い口調で、街医者はあたしを諭した。
あたしは返答せず口を噤む。
隣を見れば、浅黒い肌の大部分を黒い痣に覆われたミコトの姿がある。いつも纏っていた黒いコートはカノが脱がせたようで、大きく開いた首元から痣に覆われた肌が露出していた。
ところが、ミコトの鎖骨の下辺り、ふいにあたしは違和感を覚えた。
その疑惑のまま、あたしは手を伸ばす。
「テラスっ?」
驚いたカノの声を無視して、あたしはミコトの服を引っ張った。
肌蹴て現れたミコトの肩から胸にかけて――あたしは、息を呑んだ。
「大胆ですねえ。眠っている男性を襲うなんて、年頃の女性がするにはあまり喜ばしい行為ではないですよ、テラス」
後ろからカノがあたしの手を引きはがす。
けれど、その光景はあたしの目にくっきりと焼き付いていた。
「ねえ、カノ。ミコト、一回死にかけたって言ってた。死んだと思ったって――」
こちらに背を向けた街医者は、返答しない。
「ミコトの怪我は何? これは、放射能でついた傷じゃないわよね」
あたしの目に飛び込んだのは、すでに治ったとはいえ、当時は致命傷に近い深傷だったと思われる傷痕だった。
それは肩口から胸にかけて、でも、この感じからするとおそらくもっと先まで続く大きな傷だ。
振り向いたカノは困惑していた。躊躇しつつも返答しようと試みる。
「それは――」
「ナミに……殺されかけた時の傷だ」
ところが、それを分断する声があった。
はっと見ると、金色の瞳がうっすらとこちらを見ている。
「ミコト」
「ナミの実験体になった時に受けた傷だ。あいつは俺達の事、生き物だなんて思ってねえ。異形と同じくらいにしか思ってねえよ」
思いのほかしっかりとした言葉を紡ぐミコト。
でも、その金の瞳の焦点は合っていない。どうやら視神経に影響が出始めているらしい。
「……ミコトは実験の後、治療される事もなく放置されていました。だから私は彼に治療を施し、次の被験者に決定していたヨミを連れてタカマハラを出ました」
「ミコトを、タカマハラに置き去りにしたの?」
「ええ、そうです」
カノは悲痛な声で答えた。
「二人を連れてタカマハラを出るは出来ませんでした。だから、私は実験前のヨミだけを連れて、ナギの待つ外へ」
「だから、俺が今生きているのは偶然だ、って言っただろう?」
胸が――痛い。
俺がどれだけ、と言葉を詰まらせたのは。
やっと会えたのに、と声を荒げたのは。
行かせない、と強く訴えたのは。
「だから俺は、お前がナミの元へ行くのは絶対に反対だ」
断言する口調。もう視界は薄れ、痣に覆われた体の感覚だってほとんどないはずなのに。
ナミの実験で死ぬような傷を負って、治療もなく放置されて、一人タカマハラに置き去りにされて、それでも生きたいと願って――それなのに、いや、だからこそ彼の魂はこんなにも強い。
「生きてくれ、テラス。俺、は――」
それでも彼の気力がそこまでで限界だったんだろう。
ぷつり、と声が途切れた。
ざっと全身の血の気が引く。
「テラス、分かったでしょう。ナミの元へ行くという考えは捨てることです。私からもお願いします」
ミコトの強い思いに触れて、カノの説得を聞いても主張するほど、あたしは馬鹿じゃなかった。
どうしようもなく熱い気持ちを抱え、寝台の上でただ俯いていた。
熱い。
体中の細胞が叫び出しているようにすべてが熱い。
内側から焼かれる感覚と戦いながら、あたしは寝台に蹲っていた。
「大丈夫ですか? テラス」
カノが何度目か知れない言葉をあたしに向ける。
声の方向に目を向けて初めてあたしは、自分の視力が低下している事に気付いた。
ぼんやりとした視界で、街医者があたしの方に向かってくるのを認識するが、どれだけ眼を凝らしても彼の顔がうまく見えない。
起き上ろうとして、それも適わない事に愕然とした。
「視神経に異常が出ていますね。テラス、他に変調は?」
焦る医者の声に、あたしは思わず呻くように呟いていた。
「……熱い」
その言葉で医者は何かを察したようだ。
額にさっと手が触れ、すぐに離れていく。そしてぱたぱた、と歩き回る音が響いた。
「もう少しです。もう少し我慢してください。ミコトとヨミのコード処理はすぐに終了します。だから――」
ああ、音も少しずつ遠ざかっていく。
目の前にかざしたはずの手もぼんやりとしか見えない。起き上がろうとしても、体中に力が入らない。
まるで眠りに着く直前みたい。
もうあたし、ダメなのかな。
――生きなさい
ナギ、お願い。もう少しだけあたしたちに時間をちょうだい。
全員が、生き残るための時間を。
薄れていく意識の中に、カノの声が木霊する。もう何を言っているのかも分からないその声は、一枚フィルターを通したように遠い。
「――テラスちゃん」
それなのに、はっきりとあたしに届く声があった。
最後の力で瞼を押し上げると、目の前にいたのは、カグヤに送られた異形狩りのボスだった。
「ウズメ」
かすれた視界に、紫黒の瞳が映る。
今にも泣きそうな顔をしたウズメは、熱さに耐えて固く握りしめていたあたしの両手を優しく包み込んだ。
思わずあたしは微笑んでいた。
「よかった……無事で」
カグヤに送られてしまったウズメを案じていたのだが、こうして無事に会う事が出来た。
もうそれだけでも十分だった――彼女の存在があたしをここまで連れてきたと言っても過言ではないのだから。
燃えるように全身が熱いのに、ウズメに握られた手だけがひんやりと現実味を帯びている。
それなのに、いくら瞬きをしてもウズメの顔が見えない。
「ありがとう、ありがとうね、テラスちゃん」
「違うの、ウズメ……違うの」
あたしは一度、何もかもを捨てようとした。
世界のすべてが疑わしくて、何も信じられなくて、味方なんていないって思いそうになった。
ウズメはずっと、あたしの事をタカマハラから匿ってくれていたというのに。
ナギが死んでしまった後も、ずっとあたしの事を気にかけてくれていたというのに。
毎朝毎朝、あの小さな事務所であたしを迎えてくれていたというのに。
「ごめんなさい……」
情けなかった。
カノもヨミもミコトもツヌミも、ウズメだってずっとあたしを思ってくれていたというのに、こんなにも気づくのが遅かった。
「泣かないで、テラスちゃん」
ああ、いつの間にかあたしは泣いてたみたい。
何だか体の感覚が薄い。
「ごめんなさい、ウズメ。あたし、ダメなの。あたし一人じゃ、何の役にも立てないし、人を信じる事も未来を思う事も出来ないの」
思わず、弱音が口をついた。
それはきっとあたしの中の一番弱い部分。
「ナギは生きろって言ったのに、もう死んじゃうかもしれない」
ああ、体が弱ると心も弱ってしまうんだね。
「怖いよ、ウズメ……あたしはこのまま消えるのかな……?」
こんなにも弱い言葉を並べたのは初めてかもしれない。
全身は熱くて弾け飛びそうだし、視界はかすんで、自分の声さえ耳に届かない。
今度こそもうダメかもしれない。
そう思った時、あたしはようやく恐怖を知った。
「何を言うのよ、テラスちゃん」
すべてが曖昧な世界で、なぜだろう、ウズメの声だけははっきりと耳に届く。
「そんな事を言っては駄目よ。ねえ、こんなにもたくさんの人が貴方を望んでいるの。貴方の事が好きで、失くしたくないと思っている」
「それはあたしにコードがあるから」
「違うわ」
ウズメは優しい声で諭した。
その声はどこか、梓弓のヒルメに似ていた。
「みんな、あなただから好きなのよ? いつも一生懸命で、たまに傷ついて立ち止まって、それでもちゃんと立ち直ってまた自分の足で歩いていく強さを持ってるの」
「そんな事……ない。あたしは……弱くて、何にも出来ない」
弱音が止まらない。
それなのに、ウズメはゆっくりと、でもきっぱりと言い切った。
「テラスちゃんは強いわ」
その言葉はあたしの胸の奥深くまで入り込んできた。
「だって、私の大事な娘なのよ? 私と、ナギが一生懸命育てたの」
柔らかくて温かいウズメの胸に顔をうずめ、あたしは一雫、涙を流した。
熱い体が何かを訴えている。
「お願いよ、テラスちゃん――生きて」
――生きなさい
ああ、そうか。
ナギのあの言葉は、命令なんかじゃなかった。
あれはナギの願い。
あたしに、生きて欲しいとずっと訴えかけていたんだ。
「あたしは――」
放射能の影響と涙でほとんど見えなくなった視界。
聴力もほとんどない。
でも、ウズメの手だけは、暖かかった。
「まだ、生きたい。生きていたい――」
心の底から願った。
ずっと、ただ生きることに必死だった。それを当たり前だと思っていた。
でも、人の優しさに触れて、あたしは――生きたい、と、願う心を手に入れた。
それこそが抑制を解く唯一の感情。
自ら「生きたい」と願う事こそ、太陽を取り戻す為に必要な感情。
育て親のナギが、ずっとあたしに教えて入れていた事。
目の前が真っ白になる。
ずっとあたしのコードと記憶を抑制していたプログラムが解けていく。
抑制されていたすべての細胞が歓喜を叫び、全身を覆っていく。不思議なほどに満たされた感情があたしの中を支配している。
その高揚感に飲み込まれるようにあたしはそのままウズメの腕の中で気を失った。