兄と少年
「おーい! ブランシェー?」
「……いないな」
「おっかしいな、あの子が一人でどこか行く可能性ってあんまりないんだけど」
噴水に飛び込んだ兄と少年は、不可思議な空間をゆるゆると下降して、地面に無事降り立った。
そこは先ほどブランシェが倒れていた地点から少し離れた苔むした森の中で、二人を足元から優しくふわりと受け止めるような柔らかな土の上だった。
着地をしてすぐに、兄はブランシェを呼んだけれど、もちろん返事はない。
「あの子、まだ何も分からないんだよ」
少し困ったように、兄は白い髪をふわふわとかき回した。緑の瞳に森の緑を写して、きょろきょろと頭を巡らせる。
木漏れ日がちらちら、瞳の中で踊った。
「あの子というのは、さっき噴水に放り込んだあの娘か?」
共に飛び込んだ少年は、兄とはまったくもって正反対の、まるで闇のように黒い髪を乱れるままに風に任せ、不審そうに兄の顔を覗き込む。表情は少し固いのだが、彼の瞳は闇より暗い、けれど冷たくはない不思議な黒だ。
「そうそう」
「何も分からないってどういうことだ」
「魔法使いのことを何も知らないんだ。ちょっと前まで、お話の登場人物だと思ってた」
「何だって?」
「ここのことも、勿論知らない」
「道を外れれば妖精の眠りの魔法に落ちて、誰にも気づかれなければそのまま死ぬ、という事もか?」
「妖精の呪いはおろか、妖精の存在もよく知らないよ、たぶんね」
可愛らしいことだろう?
兄はにこにこと微笑みながらそう告げたが、少年は絶句した上に瞠目した。
「そんな娘が何故『園』に来た」
「ちょっとした理由があってさ」
「ここが魔法使い育成の最高機関だと知っているのか、その娘は」
「まさか。何も知らないよ。単純にすごい先生のいる魔法使いの学校だと思ってる」
「……それじゃあ、選抜はどうやって通ったんだ」
「受けてない」
「有り得ない!」
「でも事実なんだ」
少年二人を取り巻くように、重い沈黙があった。
静かな森の中で、鳥が楽しげにさえずる音が聞こえ、それだけだった。後方から来ているはずの他生徒の声さえ聞こえない。森の中、別の地点に落ちたのかもしれない。
「本当なんだよ。信じられないかもしれないけれど」
「当たり前だ。あってはならない事だからな」
「まあ、至極稀に見るケースだからね、あの子の場合は。その上あの子、わけあって特別生なんだ」
「……特別生だと?! 選抜を受けずにか?! そんなケースなど聞いた事もない! あったとしたら、それは何かの間違いだ!!」
「過去にもあったよ。僕は知ってる」
少年は黙って、兄を見た。
兄は笑う。
「28年ほど前に、一人ね。『園』にたどり着いたら、バント殿にでもお聞きしてみるといい」
少年は神妙な顔をした。納得しかねるようだったが、『バント』の名には否定もできないのだろう。
不満そうに、しかし彼は頷いた。兄の緑色をした深い眼に、何か空恐ろしいものを感じたのだ。
この男は、誰も知らないはずの何かを知っている。
「……時に、妹はいいのか?」
「妹? ああ、僕のか」
「薄情なやつだな。道を踏み外して眠りの魔法に落ちているかもしれないだろう!」
「ああ、それはないよ」
「……何?」
「あの子にそれはない」
妙に自信たっぷりに兄は微笑み、妹にするように少年の頭をぽんぽんと叩いた。
「何をする!」
「ああごめん。つい癖でね。さて、『園』の方に向かおうか。多分あの子はもう着いているんじゃないかな」
「……そうか」
「今、『なんて兄妹だ』って思ったろう?」
「いや……」
少年はしばし逡巡し、それから短い溜息を付いて、前言を取り消した。
「……思ったな」
「正直で結構だねえ、君も」
兄はくすくすと笑って方向をかえて歩き出す。
「さて、行こうじゃないか、シュヴァルツ・ライン君」
「……待て」
「何だい?」
「何故、名を知っている?」
「君の?」
「そうだ、俺の名だ」
「なんだ、そのこと」
兄は笑ったまま少年を振り返る。そして呟くように言った。
「知っているとも、三ッ星くらいね。ライン、フー・フレイム、ビリジアン。そこの御子が3人揃って同学年なんて奇跡、そうそう起こるもんじゃない」
魔法使いを生む家柄の中でも最も伝統と由緒ある、魔法貴族の三名家は『三ッ星』と呼ばれている。黒のライン家、赤のフー・フレイム家、緑のビリジアン家といい、それぞれに、特性を持った魔術師の一族の長である。貴族としても国内で上位に位置し、発言力も小さくない、魔力と権力を兼ね備えた家だ。
国の創建にさえ関わりのある三つの家は、魔術の相性が良くなかったのか、昔から互いに競い合い、ときに争い合ってきた。しかしある時、3つの名家の同じ年に子供が生まれるという、事態が発生した。勿論、それが何子目であるかという違いはあったがそれでも、三名家は各々、同じ年に生まれた子供達に競いあうように高度な教育を受けさせ、熱を入れて育て上げてきた。
その子供達が生まれたのは今から丁度14年前。
彼らは同時に、『園』に入ることを、ほとんど宿命のように決められていた。
「……確かに私は、ライン家のものだが」
「君の顔を知っていたのは偶然なんだ。噴水の前で話を聞いていたときに、『三星』って単語に反応しただろう。その事実と、ライン家の外見的特長が一致したから、君はライン家のシュヴァルツ君なんだろう、と僕は判断していたわけだよ」
ラインの一族の者の多くが、黒い髪に黒い目をしていることは、魔術師ならたいてい知っている事実である。おとぎ話の伝説、ヌワール・エリウスという魔術師の祖と呼ばれる男がライン家の傍流で、彼が黒髪黒目であることは、とても広く知られていたからだ。魔術を志すものならば、ほんのちいさな子供でも知っているのでだる。
種は明らかになってしまえばどうということはない。けれどもシュヴァルツは釈然としない気持ちで、目の前の白髪の少年を眺めやった。
妹を噴水に突っ込み、妹をあまり心配しないばかりかあり得ない事を平気で話す、自分の名前を知っていた、得体の知れない少年。
気味の悪いような、腹立たしいような不可解な気持ちで、彼は少年をじろりと睨んだ。
「まあ、そんな顔するものでもないよ、ライン君」
再び歩き出した兄を追うように、シュヴァルツは足を速めた。何がだ、と思いながら、無言で背中を追って行く。
「君は君が思うより有名人だった、ってそれだけじゃないか。深く考えすぎると体によくないよ。きっと、僕以外にもたくさん居るよ、君の事を知っている生徒はね。三星ってそう言うものさ」
「そうなのか」
「そう思うね」
気さくに話していた兄はくるり、と振り返り、にこりとしながらついでに言った。
「ああ、そうそう。話していなかったな。僕はヴァイス・ホワイトという。妹はブランシェ・ホワイトだ」
シュヴァルツははっとする。
疑ってさえも居なかったが、彼は彼ら兄妹の名さえ聞いていなかったのだ。
魔法的な何かで丸め込まれて、安心させられてしまったのかもしれない、とシュヴァルツは今更ながら身構えた。
「きっと、これから君たちは知り合うだろう。その時はブランシェをよろしく頼むよ、ライン君」
微笑んだ兄はまた背を向けて歩き出し、シュヴァルツは困惑する。
この、ヴァイス・ホワイトというのはなんなのだろう。なんて男なのだろう。
シュヴァルツは軽く首を傾げ、不満そうに早歩きで、見えてきた『園』の方へと足を急がせた。
怪しいふんわり系イケメン(白いの)と顔は凛々しくて綺麗なのにじゃっかんもさっとしてる少年(黒いの)を想像していただけるとなんとなく近いんじゃねえかと存じます。