図書館と先輩たち
付いて行こうか、と言うエカルラットとヴィオレットを丁寧に断って、ブランシェは一人、放課後の図書館へと赴いた。
長い廊下を歩いてたどり着いた図書館は、中庭を持つコロッセウム型の校舎――中央棟から渡り廊下を渡った先、研究棟と女子寮との間の辺りにあって、他の建築物同様に古めかしく重厚な石造りの建物だった。なお、園の全ての建物は中央棟から伸びる渡り廊下によって、全て繋げられている。
広々とした建物は真ん中が吹き抜けになっており、どの棚も天井まで本がぎっしり詰まっていて、古びた本の匂いと多くの生徒で満たされていた。
ブランシェはぽかん、と口を開ける。こんなに沢山の本を見るのは初めてだった。なにしろ、白の町には図書館そのものがなく、新しい本を読もうと思ったら、ジェフリー・トマソンという老人の運営する小さな書店に行くしかなかったのだ。しかもその書店ときたら、三人部屋の寮の部屋の半分の広さもないのだ。学者をやっていたブランシェの父親の方が、よほど本を持っていたかもしれなかった。
「わあ……」
ブランシェは好奇心いっぱいに、あたりをぐるぐると見渡した。
明らかに大人びた、角の閲覧机を占拠している一団は恐らく4年生だろう。今年はまだ始まったばかりだけれど、もう卒業試験の勉強を始めているに違いない。誰もが深刻そうな顔をして、書物を書き写したり斜め読みをしたり、論文を書いたりしている。
そこから少し離れたあたり、古い書籍を抱え込んで数人でなにやら論議をしているのは3年生だろうか。4年生のような緊迫感はなく、学ぶ喜びに満たされている。
しかし、態度の違いを別にしても、彼らと1年生を見分けるのは容易だった。2年生以上は自分の所属学科の色――錬金術科なら濃紺、魔法言語科なら葡萄酒色、召喚科ならば深緑である――にクラローブを染めているのだ。1年生はまだ染められていない真っ白なクラローブを着ているので、すぐに分かってしまう。
「……ええと、授業のわからないところって、何から調べれば良いんだろう」
さらに、こんな風にきょときょとしていたら、『わたしは1年生です』と言いながら歩いているようなものだ。彼女の存在に気がついた在校生たちが、興味深げに視線を投げたが、ブランシェはまだ気づかない。
「えーと……まず、わかんない言葉を調べるところからよね。それって辞書? 辞典? ……辞書ってどこにあるの?」
ブランシェはきょろきょろしながら、書架の間を行ったり来たりし始めた。
「……こっちの棚は違った。……あっちの棚は……違うや、『文学』って書いてある……じゃあこっちは……『魔法社会学』? 『魔法経済学』『魔法服飾史』……どれも違うよね。どこかに本の配置図置いてないかなあ」
「あら」
不意に声を掛けられ、ブランシェはきょとんとして声の方を振り返る。そこには葡萄酒のような深い赤のクラローブに身を包んでいる女子生徒がにっこりしながら立っていた。
「ねえねえ、見てよほら、今年の『一番乗り』ちゃんがいるよ」
「ん? どこに?」
「ほらほら、そこそこ」
女子生徒は近くで本を眺めていた濃紺のクラローブを着た生徒を手招きする。彼女は先輩の存在におろおろし始めたブランシェの前に立ちはだかって、にっと笑った。
「ああ、そんなに警戒しなくても大丈夫よ。……かっわいい! 小動物みたい」
「え、ええと……」
「わたしね、魔法言語科2年の、メグっていうの。こっちのにょきにょきしてるのは錬金術科のウィル。あなたが今年の一番乗りみたいだったから、声を掛けたの」
「え、あの、どうして分かるんですか?」
「ええ、だって、書いてあるもの」
「書いてある?」
「ああ、1年生じゃまだ見えないわよね。三ツ星なら見えるのかしら? どう思う、ウィル?」
「……ねえ、にょき、って表現やめないかい?」
紹介されたウィル、と言う男子生徒は力なく息を付き、呆れたように肩を竦めた。
「その『一番乗り』を驚かしてどうするのさ」
「あら、驚かしてなんかないわ」
「君にその気はなくてもこの『一番乗り』は明らかに驚いてるよ」
「これは驚いてるんじゃなくて怯えてるのよ。まったく、ウィルが無駄にでっかいから!」
「……いや、ぼくの所為じゃないと思うけど」
「……あの! 一番乗りってなんですか?」
おどおどしながら、言葉の切れ目を見計らって口を挟んだブランシェに、二人は顔を見合わせて目を見開いた。
「知らないの?!」
「え、先生から何も言われてない?」
「……はい」
「ええ、だって『一番乗り』って必然が生み出す大変な地位なのよ? 何やってるのよ先生たちは!」
「まあまあ。例年『一番乗り』になるような子は、『一番乗り』がなんなのかくらいみんな知ってるから、あえての説明はしないんじゃないかな」
「でも、この子は知らないみたい」
「……そうだね」
自分の知らないところで勝手に展開していく話に、ブランシェは戸惑って二人の先輩の顔を交互に眺めた。
「一番乗りって言うのはつまり、その年『園』に最初にたどり着いた生徒のことだよ」
ブランシェの視線に答えるように、ウィルという名の先輩が答える。メグも頷いて、更に続けた。
「どうして『一番乗り』、が重視されるのかっていうとね、この『一番乗り』は毎年、ちょっと特殊な子が多いからなの。たとえば、4年生の『一番乗り』はもう院への進学間違いなしって言われてる優秀な生徒だし、3年の『一番乗り』は召還魔法の技が天才的で。私たちの学年の『一番乗り』は『七賢者』の腕が神がかっているのよほら、ちょっと特殊でしょう?」
因みに『七賢者』とは、歴史上有名な古の魔法使い集団のことである。だが今では普通に『七賢者』といえば、七賢者を模った魔法使いが良くやる、駒とカードを組み合わせたテーブルゲームだった。ブランシェはあまり得意でないが、ヴァイスは良く父親と『七賢者』を楽しんでいた。
要するに、田舎町でも良く知られた、国中で人気のある知的遊戯だ。
「あなたも何か、ちょっと変わった特技がある?」
「……ないと、思ってます」
「ふうん?」
意外そうに目を見開かれ、ブランシェはどきどきしてうつむいた。
けれど、本当に何の心当たりもないのだ。ブランシェはずっと、『みんなよりちょっと頭がいい、みんなよりずっと小さい女の子』でしかなかった。そもそも、本当に魔法が使えるのかさえ、まだ分からない。
「……まあ、そういうものなのかもね。フェアハウスだって、七賢者を本格的に始めたのは園に来てからだって聞いたし。入った時はしばらく、『なんでこいつが一番乗りだったんだ?』ってみんなに言われてた気がするわ」
「リッチが本格的に始めたのはブラス先生を打ち負かしてからだよ」
「ああ、あの時……。野外活動の自由時間をかけての戦いだったわね。あれは盛り上がったわよね」
ブランシェは彼らと思い出を共有出来ないので、良く分からない顔で立っていた。しかし、どうも、初めから特別でなければならないわけではない、ということだけは悟って、ほっとしたような息を付いた。
「でも、どうしてここに? 1年生は今日から授業が始まったばかりじゃなかった?」
「もしかして、探している本がどこにあるか分からなくてうろうろしてたとか?」
先輩たちの問いかけに、ブランシェは黙ったまま、こくりと頷いた。
「そうよねそうよね、ここ、こんなに本だらけですものね、分からないわよね!」
「……2年目になってまだ全然分かってないのはメグだけだと思うよ。むしろメグ、覚える気無いよね?」
「あら、ウィルがついて来てくれるから覚える必要が無いんだもの」
「いつも引っ張り出すのはメグの方だろ」
呆れたように息を吐き、ウィルは軽く頭を振って、ブランシェの方に向き直った。
「探すのを手伝おうか? 何を探しているの?」
「……ええと、あの、その、分からない言葉を調べようと思っていて」
メグがぱちぱちと瞬きをする。
「『魔法語小辞典』て、教科書と一緒に買わなかった?」
「買ったんですけれども、あの、いい機会だから、図書館に行ってみようかな、って思って……その」
「いい心がけだなあ! メグとは大違いだ」
「ちょっと! 失礼じゃない?!」
ウィルはメグを無視して、ブランシェと共に歩き出す。
「辞書も便利だけど、言葉の意味しか載っていないから。やっぱり1年生にオススメなのは、百科事典だね。どんな事象なのかの説明が大体載っているから」
「百科事典」
「そうそう、ここの棚の裏。『ヌワール=エリウス・エンサイクロペディア』が最高峰。毎年、魔法文化出版から刊行されて、どんどん新しくなって巻数が増えていくんだ。すごい量だよ」
そう言ってウィルは手を広げた。ブランシェは目を見張る。
金でタイトルと巻数の書かれた、黒い皮の美しい装丁の本が、棚一面をずらっと埋め尽くしていたのだ。
ブランシェはうわあと歓声を上げて、棚に駆け寄る。革とインクの良い香りと金文字がほのかな明かりにきらめいて、それは幻想的ですらあった。
「これ、これ全部が、百科事典なんですか?!」
「これ全部が『ヌワール=エリウス・エンサイクロペディア』。レポートとか書くときに、かなりお世話になるよね」
「ウィルはね」
「メグはいつも小辞典で済ませてるもんね」
「い、いいじゃない、それでレポート終われば」
「だからいつも評価が3とか2なんだよ」
メグは咎められたようにしゅんとなったが、すぐに立ち直って、必死に高い棚から本を下ろそうとしていたブランシェの代わりに本を取ってやり、それから微笑んでこう聞いた。
「そうだわ、あなたのお名前はなあに? 『一番乗り』さん?」
ブランシェは本を受け取り、そのずっしりとした重みにふらふらしながら慌てて答えた。
「ブランシェ・ホワイトです」
「……ホワイト?」
「はい」
「ホワイトってあのホワイトかしら」
「……あのう……何か?」
「ねえ、ウィル! ホワイトって確か」
『ホワイト』にやや過剰に反応したメグは、しげしげとブランシェを眺め、それからウィルを呼んだ。
「……関係あるのかしら」
「でも、あんまり似てないね」
「……そうね」
「あ、あの?」
「ねえ、ブランシェちゃんは『ヴァイス・ホワイト』君とは何か関係あるの?」
今度はブランシェがきょとんとする番だった。
「……兄です、が」
ブランシェの答えに、メグは一瞬息を飲んだ。
「兄……お兄さん?」
「はい……ヴァイス・ホワイトですよ、ね? あの、他に同じ名前の人が園に居ないんだったら……それ、私の兄です」
答えながらブランシェは、短い溜息を吐いた。
ブランシェとヴァイスは似ていない。
ブランシェはガリガリに痩せていて背が低く、ふわふわとゆるく波打つ、黒くて長い髪をしている。顔の真ん中では、真っ青でちょっとびっくりするほどのぎょろっとした大きな目が二つ、じいっと無言で周囲を見渡しているのだ。手も足も顔も、とにかく目以外のパーツがとても小さく、色は白くて、まるで幼い子供のような外見の持ち主である。
対するヴァイスはブランシェに全くにていないのだった。このウィルや、ヴェルトほどではないにしても背が高く、痩せてはいるが痩せ過ぎではい。雪の様な白髪だったという伝説の残る『園』の創始者の妻、マシロや古の種族エルフ、それから妖精族に匹敵するようなプラチナブロンドよりも白い髪をしていて、目は森のような緑だった。とても温厚で、堂々として物怖じせず、ブランシェにとっては保護者代わりで、彼女は兄を『大地みたいな人』だと思っている。因みにこの兄、頭の方も大変に宜しく、街に居た頃は『天才ヴァイス・努力家ブランシェ』と、頻繁に並び称されたものだった。
「似てないから、いつも信じてもらえないのですけど、でも、兄です。兄はパパ似で、わたしはママ似なの。ホントに兄妹なんです」
必死に言い募るブランシェに、ウィルは目元を和ませた。
「信じるよ。そういえば彼、妹がいるって言っていたし」
「ええ? 言ってたっけ」
「言ってたよ。やっぱり聞いてなかったんだ。『妹がいます、僕よりそっちをよろしく』って、変な自己紹介してたじゃないか」
兄らしい自己紹介に、ブランシェは困ったように笑った。
「……でも、すごいお兄さんを持ったのね、ブランシェちゃん。苦労しそう」
「よく言われます。でも、一体どこで兄に?」
「あれ、聞いてないの? 特例スキップしたのよ、彼。昨日かな?」
「は……? ええ?」
「スキップって知らない? 飛び級のことだよ」
「知ってます、けど……えええ?」
ブランシェは目を白黒させた。
聞いていない。飛び級制度があったことさえ知らなかった。
「10年振り、久々のスキップで、しかも入学直後の特例だってことで話題になってたんだ。何でも、スキップ試験満点だったとかで」
「……はあ」
確かに、街の学校を卒業したあと、ヴァイスは町の学校を手伝いながら、何かブランシェの知らない勉強をしていた事はしていた。それがまさか魔法の勉強だったとは。確かに彼は、ブランシェを待たずに進学していれば今頃上級生だったはずなのだから、順当といえば順当だ。
「でも、『園』の勉強一度も受けないで、よくスキップなんか出来るわよね。よっぽどとんでもない頭の持ち主なんだわ」
「……はあ」
「彼、私と同じ学科になったのね。魔法言語科。それで、ちょっと知ったの。なんか、見た目共々とんでも無さそうだったわ」
あの兄ならば、その程度はやりかねない。
ブランシェは心中で呟いた。ヴァイス・ホワイトという人間は、にっこりおっとりしているように見えて実は、何を考えているのか妹のブランシェでさえ良く分からない、突飛な人なのだ。
「……ああ、だから同じクラスにいなかったんだ、お兄ちゃん」
ブランシェは納得したように溜息を付いた。
寮の違いにクラスの違い、それどころか学年の違い。ますます遠いところに兄が行ってしまったようで、ちょっと寂しい。けれど、いつまでも兄にべったりくっついているわけにもいかないということは、園にくる前に覚悟したはずだった。
ブランシェは無意識に、軽く下唇を噛んで拳を握った。
早くも『すごい人』『とんでもない人』の異称を取り始めた兄の妹である自分が、何にも知らない子でいていいはずがない。同じ血を持つというだけで比べられてしまうのだ。『ヴァイス君の妹って……』と、ひそひそ指を差して言われるのは、幼い頃だけでもう充分だ。
ブランシェは小さく握った拳に力を込めて、そう決意した。




