やすい命を響かせて
煙草に火をつけるやり方を知ったのはいつだったろう。
口に咥えて吸いながらじゃないと、火はつかない。肺に入れないとちゃんと吸ったことにはならない、ということはそのずっとあとに知った。
土曜日の昼時なのに、いつもこの喫茶店は空いている。
誰もいない向かいの窓を眺めても、人通りはまばらだ。天気は良いのに、どうやらこの町の人のほとんどは引きこもっているらしい。それとも、家の中でもう死んでしまっているのかもしれないし、どこかへ行ったきり帰ってきていないのかもしれない。
東京から特急に乗って二時間ほどの、海沿いの町にわたしは住んでいる。両親と妹と、最近痩せてきたミニチュアダックスフントと。ちょうど十年前に改築した家はだいぶ傷んでいて、住人であるわたしも家族も、少しずつ傷んでいる。夜中になるとリビングのケージの中の犬が、すすり泣くような声を上げる。最初は可哀想だと思って、二階の自室から様子を見に行っていたけれど、今では無視して眠るようになった。
大丈夫、わたしも少しずつ、死に近づいているから。
布団を口元までかぶってそう呟いたあの夜が、何年前のことだったか。最後に泣いたのはいつだったのかも、誰かと手を繋いだのがいつだったのかも、覚えていない。
喫茶店の古時計が、鈍い音で午後一時を告げた。
煙を吐き出しながら、わたしは思い出せないことを、そんなふうにぼんやり想う。
そうしているうちに、いつの間にかコーヒーは冷めてしまって、ただの苦い水になってしまったそれを味わうことなく流し込む。
ため息をひとつ吐き出して、煙草を鞄にしまおうと手を伸ばした瞬間、ひとつ、思い出した。わたしがこの銘柄を吸っている理由を。
「命の値段なんだよ」と、男の人に言われたんだ。名前も顔も思い出せないけれど、大好きな人だった。煙草を挟む指のかたちだけは、今でも覚えている。
「だったら、わたしは安いのでいい」
そんなことを言って、わたしはこの煙草を吸うことにしたのだ。あれからも何回か恋はしたけれど、銘柄はずっと変えていない。
からだに悪いからやめたら?と言われたことはなかった。一度も、誰からも。でもきっと、あの会話のあとだったら、誰に言われてもやめなかったと思う。顔も名前も誕生日も思い出せないその人も、今もきっとどこかで煙草を吸っている。
会計を済ませて、店を出る。
外はよく晴れていて、少しだけ楽しい気持ちになった。
二百五十円のわたしの命は、今日もオレンジ色に輝いている。いつか灰色に燃え尽きる日まで。