ここから見える、いまを
最後の荷物を車に載せ終えた途端、本当にこの家を出るのだという実感が現実味を帯びてきた。お粗末程度の門柱にも、どことなく寂しがられている気がする。
せっかくの門出だというのに天候は怪しく、鈍色の雲がみっしりとつまった空からはいつ雨が落ちてきてもおかしくはなさそうだ。
気温はもちろん風もまとわりついてくるようなぬるさで、積みこみ作業をしているときから全身は汗でびしょ濡れだった。基礎体温が上がっているのに加え、そもそもそういう季節だと割り切ることは容易でも、納得するにはいささか抵抗があるこの我がままぶり。
トランクの縁に浅く腰をかけていると、玄関からばたばたと足音を鳴らして出てきた男性は、ひどく狼狽した様子でわたわたと両手をばたつかせた。
「恵、あとは俺がやっとく言うたやろ」
「盛り上がっとうとこ邪魔すんの悪かってん」
話し相手が自分の母親だとは無論承知の上ではあるが、やはり夫がほかの女性と親しくしているところを見るのは気が進まなかった。
「だからってそんな体で無理したらあかんやん。な?」
溜息混じりに言われ、ついと見下ろしたお腹のふくらみは、ここのところ急に目立ってきた。グレープフルーツがころんとお腹のなかに転がっているような感覚は、頭で理解はできても未だにどこか不思議で、非現実的な感覚だった。
「ごめん……。でも、軽い運動は体にええって聞くし」
「つわりも落ち着いたし動きたくなるのはわかるけど、力むようなことは避けたほうがええんちゃうの。俺には細かいことまではわからへんけどさ」
穏やかな口調で言いながら隣に腰を下ろすと、彼はそっとわたしのお腹に触れた。その優しい手つきに、どこからともなく現れたこの上ない幸福感にわたしは包まれる。
「名前、考えてくれた?」
わたしの問いかけに、ごめん、とはにかみながら彼は言った。
「なかなか決まらへんねん。画数とか気にしだすともうあかん」
「はよ決めてよ? 自分が言い出したことやろ?」
「そんなに急かすなって」
彼が自信ありげに俺に任せろと言ってから、はやくも一ヶ月が経とうとしている。そうすぐに決まるとは毛頭思っていなかったが、予想通りすぎて逆におかしい。しかし毎日ネットや本などと格闘している姿を見ていると、その一所懸命さは実に頼もしく、海中のわかめのように揺らめくわたしの心を強く支えてくれる。
「もうすぐ昼ご飯できるって、お義母さんが」
「うん」
「だいぶ気合入っとうみたいやでー」
さり気なく差し出された手に、さり気なく応じる。
なんでもない行動がようやく板についてきたなあと思っていると、ふと縁側で新聞を読んでいる父の姿が目に留まり、わたしは足を止めた。きょう、父とは朝からまだひとことも口を利いていなかった。
急に立ち止まったわたしを訝るような目で振り返った彼は、わたしの視線の先にいる父を見て言った。
「寂しそうやな、お義父さん」
「今朝からな、なんて声かけたらええんかわからへんねん。明日からしばらく会われへんのに。……あかんなあ、もう」
ほんのりと微笑を浮かべる彼はわたしの頭を撫でると、意味ありげにうなずいて父のもとへと歩み寄っていった。しばらくしてから、慌ててその背中を追う。
「お義父さん」
独り言のようにぽつりと言った彼の言葉に、父は新聞を畳み、膝の上に置いた。
「……まさか恵がなあ」
聞こえた父の声はいまにも消え入りそうで、うつむき気味の顔は昨日までとは比べものにならないほど血色が悪かった。そんな父を、わたしは直視できなかった。
きょう家を出ると伝えたのは半月ほど前だったか。いつもとなんら変わらないのほほんとした態度で応じてくれた父だが、日に日に精力が衰えていく様は目に見えて明らかで、ここ数日はまともに言葉も交わせていない。
いつだってわたしの味方でいてくれた強い父がこうも弱ってしまうとは、半月ほど前のわたしには微塵も想像できなかった。こんなことになるのなら、まだ当分は家にいたほうがいいのかもしれない。思いこそすれど、引越しはもちろん、今後一緒に暮らすことになる彼の両親にあいさつもすませたいま、わたしの都合でやっぱりちょっと待ってくださいというのは非常識すぎるだろう。
おもむろに伏せていた顔を上げた父は、無機質な視線をわたしに向け、口元にぎこちなく笑みを浮かべた。
「――恵。いま、幸せか?」
それは下世話な言葉だったかもしれない。
なんの捻りも含みもない、陳腐な言葉だったかもしれない。
しかしどうしてか、久しぶりに面と向かって言われたその言葉は、わたしという人間の奥深く、わたしを形作る細胞のひとつひとつに訴えかけてくるような重みがあった。
耳慣れた父の声がこのときばかりはなにか神聖なもののように思え、いまさら迷うこともないのにわたしは返事につまった。ここで即答してしまうと、きょうまで足元に積み上げてきた多くのことを蔑ろにしてしまう。そんな気がして。
無論それはわたしがひとりで感じているだけのことであって、本当にそうなるわけではないということは百も承知だ。ただ、いまわたしが感じたこの気持ちだけは、けっしてむげに扱ってはいけない。きっと、きょうという日まですごしてきた、二十年あまりの長い年月のすべてが凝縮されているといっても過言ではないのだから。
静かに返事を待ってくれている父に向かって、心の底からわたしは笑う。
(了)