歩くような速さで
「いつまで寝とん。もう八時やでー」
タオルケットをむしり取られ、いやいや目をこじ開ける。
久しぶりにアルバイトのない日曜日。昼までたっぷり寝てやろうと思って昨晩は横になったのだが、相変わらず母は甘くなかった。
「さっさと起きて、朝ご飯作るの手伝い」
「そんな約束してへん」
「取材やないんやから、そんなことにアポ要らんねん」
起きた起きた、と笑いながらわたしの顔に丸めたタオルケットを投げつけると、足音高く母は階段を下りて行った。
八月も終盤にさしかかり、午前中でもすでに気温は汗ばむほどで、日中の暑さなどとにかく嫌になるほどだ。毎年通っている道とはいえ、やはり夏の暑さには慣れるのが難しい。冬の寒さも堪えがたいものがあるものの、個人的に暑さよりは我慢しやすい気がする。詰まるところ、春や秋のすごしやすい気候が一番なのだった。
顔を洗って居間に入ると、食卓では父が新聞を広げ、和室のほうでは卓袱台で秀が宿題をし、隆一が寝そべってテレビを見ていた。見慣れた光景だった。
「恵、火消して」
飛んできた母の声におとなしく従い、台所に小走りで行ってコンロのつまみを捻る。火にかけられていた鍋のなかでは、卵がごろごろと茹でられていた。脇に置かれていた食パンも垣間見て、サンドイッチか、とひとり納得する。
「私は白米のほうが好きやねんけどなあ」
冷蔵庫の中身を険しい表情で吟味している母は、あれやこれやと手に取っては戻し、手に取っては戻しを繰り返していた。
「ええやん。ご飯にみそ汁でも。わたしはそっちがええな」
「恵はわかっとうな。偉いで、うん。でも男どもがパンやパンやうるさいねん。食パンあったからしゃあなしで作ってやっとうけど、卵のほかに具になるもんがなあ」
つと背後を振り返ると、父が素知らぬ顔で新聞を持ち上げて表情を隠した。おそらく主犯は隆一だろうが、父も言うときはもっとぴしゃりと言ってやってほしいものだ。
「野菜は?」
「レタスはあんで。……あ、トマトもあるわ。若干怪しいけど」
「たぶん先週買うたやつやわ。まあまだいけるんちゃう」
「せやな。私らが食べるんちゃうし」
母とふたりでせせら笑いながら、なかの具材の下ごしらえをすませていく。レタスとトマトに、ゆで卵があれば具としてはじゅうぶんだろう。レタスをちぎり、トマトとゆで卵を切り分け、ケチャップを塗った食パンで挟めばもう完成だ。正直わたしが手伝うこともなかった。手間らしい手間もかからないのだから、これくらいむしろ自分たちで作れと言いたい。
三人ぶん用意したあと、みそ汁を温めなおし、ご飯をよそう。ご飯もみそ汁も、おかずのコロッケも残り物だが、日本人なら朝は米やんなと、母とふたり真顔でうなずきあう。
和と洋で二分された食卓は、いつものようにくだらない会話を中心に進んでいく。母が勉強してるんと隆一に声をかければそこから小さな口論に発展し、ちょうどいいタイミングでまあまあと父が仲裁に入る。秀が勉強ばかりしていることに飛び火すれば、そこから秀を入れた口論が始まり、再び父が頃合を見て仲裁に入る。母がいるときの食卓は、大抵こんなやりとりが行われた。
飽きもせずようやるわ、といつも馬鹿馬鹿しく思うのだが、この日常の続くことがなにより幸せなことなのだろう。今回からそう思うことにした。
「そうやそうや、水穂ちゃん元気なん。最近会ってないねんけど」
「もちろん。鬱陶しいくらい。元気の塊やで、ほんま」
「たまには顔出し、って言っといてな」
うなずきつつ、こっそりと隆一の顔をのぞき見る。顔色ひとつ変えずに食事を続けているが、内心はどう思っていることやら。
水穂に告白したという隆一だが、それから間もなく振られたそうだ。というのも、ことの顛末を水穂本人から聞いた。好意は嬉しかったが、やはりいまは身の丈にあった相手と恋愛したほうがいい、高校入ればもっといいひとが見つかる云々、諭した言葉の一字一句、懇切丁寧に再現までしてくれた。話を聞きながら、実の姉にそれは公開処刑もいいところやなあと思いつつ、これでまた黒星が増えたなあとも思い、まあいい経験になったやろと締めくくった。
隆一本人もショックだったらしく、それからしばらくはいつになくふてぶてしかったり塞ぎこみがちだったりしたのだが、最近ようやく立ち直って、いつもの勢いを取り戻してきたようだ。張り合いがなかったときはわたしも調子が狂い、いっとき接しかたまでわからなかった。なので、こうして復帰したことは姉として素直に喜べた。
「大丈夫。きょう来てくれるから」
飲んでいた牛乳を吹いてこぼした隆一を、秀は嬉しそうに笑い、父は頭を抱えて呆れ、母は慌てて台所へと駆けて行った。
なにか言いたげな隆一の視線を笑いながら受け流し、わたしは家族よりも一足先に席を立った。
昼まで寝る予定がかなり前倒しになってしまったが、きょうはすることがたくさんあるのだ。余裕を持ってやれると思えば、むしろ都合がいい。
「ほら、食べ終わったお皿かして。わたし忙しいんやから」
午前中に余裕ができたので、本来はいつも行く近所のスーパーあたりですませようと思っていたところを、もうすこし羽を伸ばして遠出してみようと考えを改めた。これといった行き先は決めていなかったが、そういうのもたまにはいいかと思った。
神戸の市街地までバスで下り、しばらく目的を忘れて街を歩き回っていたものの、刺すような陽射しと熱風のような外気が溢れる炎天下では、ろくに散策もできないままへばってしまった。元町や三宮あたりまで歩いてみるつもりだったのだが、体力の衰えは予想以上に進んでいるようだった。恥ずかしい話だ。
たばこ、減らしたほうがええんやろか。そんなことを思いながらも、身体のほうは素直にニコチンを求めていて、とりあえず一本だけ、と自分を甘やかして建物の影に入った。
人通りは多く、ひっきりなしに行き交うひとたちの姿を眺めていると、日曜やなあとつくづく実感する。世代も様々で、中学生らしき若い女の子のグループや、幼い子どもをつれた新婚らしき夫婦、休日を存分に満喫していそうな壮年の男性に、幸せそうに微笑みながら寄り添いあう老夫婦まで。老若男女、探せば〇歳から一〇〇歳まで見つかるのではないかというほどだ。
彼らから見れば、わたしもこの大勢のなかのひとりなのだろう。そんなことを思い始めると、途端に自分がなんなのかよくわからなくなってくる。
当然ながらみなそれぞれに自分の場所があり、見ている世界があり、生きるいまがある。都会に乱立するビルのようにさえ見えてくるそれらは、夏の熱気で輪郭が歪み、ぼやけて揺らめく。
陽射しにやられたのか、それともひとに酔ったのか、頭がくらくらとしてきた。
たばこを吸った直後に動くと一層ひどくなるのはわかっていたが、この場に居続けることはできそうになく、吸いかけのたばこを携帯灰皿に放りこんでわたしはどこへ向かうでもなしに足を動かした。ひとのまばらなところに行こう。それだけを頭に、人波のなかをずんずんと歩いていく。
汗でずり落ちる眼鏡を何度も持ち上げては、気づけば海のそばまでやってきていた。
みな屋内に避難しているのか、外を歩いているひとの姿はすくなく、日傘を差して歩いている婦人を見て、わたしも持ってくればよかった、と後悔した。あとで邪魔になるかと思って家に置いてきたのは、まるでお門違いだったということだ。
途中で屋内を通るなどして小休止を挟んでいるとはいえ、炎天下をもう三十分は歩いただろうか。いちおう入念に日焼け止めは塗ってきたものの、これだけ日に晒していてはおそらく効果は薄いだろう。もともと日に焼けやすい肌質なので、すぐ痛みを伴って赤くなる。なるべく露出は控えたつもりだが、明日にもなれば顔は真っ赤やろうな、と思う。
「やっぱり恵もちょっとは焼けな。年中まっ白は不健康やって」
家族、特に両親には感心されるだろう。
「しみちゃん顔真っ赤やで! どないしたん」
水穂には笑われるだろう。
「友達と海でも行ってきたの? 私も泳ぎたいなあ」
多香子さんには驚かれるだろう。
身近なひとたちの反応を想像しつつ、いまさらながら日陰を選んで歩いていると、ふと懐かしい光景が見えてきた。
海の日の夜、松本くんと花火をした場所だ。もう一ヶ月近く前のことになるか。一日や二日ではなんとも思わないが、年末になるたび一年の短さを憂うように、ある程度時間が経ってから思いだすと、なんとまあ月日が経つことの早いことかと。
あの日以来、松本くんとは会っていなかった。
松本くんは、その気がまったくなくなってしまったわけではなさそうだったが、わたしのほうが駄目だった。
間が持ちそうにないというか、会って話をする自信がないというか。結局タクシーで帰ったあの晩、あとから送られてきたメールの文面を目で追うことさえ辛かった。
嫌いなら嫌い、もともとつきあう気なんてない遊びだった、そう言ってくれたほうがいっそすがすがしかった。
中途半端に現状を維持しようとする態度に冷めてしまったと、ひとつの理由として頭で思ったり口で言ったりするのは簡単だ。しかし、どうしても、それをわたしの意思だと認めることができない。
正直なところ、まだ彼のことを諦めきれない自分がいた。
ときおりかかってくる電話も、送られてくるメールも、すべて無視しておきながらよくそんな大層なことが言えたものだと、自分でも思う。
不完全燃焼だったから。
真っ向からはねのけられたわけではないから。
くだらない言い訳をしたところで、誰かがそれを聴いてくれるわけでもなく、言葉はただ虚しく消えていく。
ひたすら夢中になって駆けているうちは考えもしなかったが、ここに来て、わたしは松本くんの家もアルバイト先も、行けば会えるという場所を知らないことに気づいた。大学の話は一度聞いたものの、キャンパス内を捜し回ってまで会いたいという気にはなれなかった。
その一方で、松本くんはわたしが働いている店を知っているのだから、ひょっとしたらふらっと顔を出しに来るのではないかとばかり気がはやった時期もあった。しかし待てど暮らせど、一向に松本くんは姿を見せずにきょうまで至る。
来てほしいと願う心のどこかで、来るなと願う心もあった。そんなわたしの心境を察したのかと邪推してみても、いまとなっては真偽をたしかめる術もない。
松本くんは松本くんで、また新しい女性と出会ってそちらに気が向いているのかもしれない。最近はそう思うようにしている。それが一番気が楽だったからだ。
波にさらわれた砂の城が戻らないように、それまでわたしたちが培ってきた関係は、きっと二度と戻ることはないのだろう。
庭、と呼べるほど立派なものではないが、それらしいちょっとした空間がわたしの家にはある。西向きで、晴れた日の夕方など西日がよく当たって冬でもほんのり暖かい。
いまではとっぷり日も暮れて、あたりは薄闇に覆われだしていた。
「しみちゃんと花火したのっていつ以来やったっけ」
「去年の夏くらいちゃう?」
「そうやったっけ。なんか最近は昨日の晩御飯もよう覚えてへんわ」
快活に笑う水穂と肩を並べ、わたしたちは縁側に腰を下ろしていた。手にはそれぞれ線香花火を持ち、どちらが長持ちさせられるかと競争中だ。水色Tシャツの袖から伸びる、水穂の白くてしなやかな腕に何度もちょっかいを出そうと試みるが、毎回うまいこと避けられてしまう。
目の前では、先ほどから隆一と秀がなにを思ったか手持ち花火で黙々と地面の石を焼いていた。普段は協力などという言葉とは無縁のふたりだが、こういうくだらないことに関しては異様な結託を見せる。
背後の居間では、父と母がお茶を片手にわたしたちを包みこむように見守っていた。
「ふたりも、せっかく買うて来たんやから、ちょっとくらいやりいよ」
手元をなるべく動かさないようにしながら肩越しに背後を振り返ると、父は卓袱台の上の湯飲みに手を伸ばし、母はそんな父を呆れたように一度見てから、ふっと表情を崩した。
「私らはほら、もういい年やし。ここから見とうだけでじゅうぶん楽しいから。恵らの好きなようにしい」
「いい年いうても、おばさんもまだまだ若いやないですか。しみちゃんから聞いてますよ。毎日遅くまでばりばり働いとうって」
手元はそのままに、水穂は上半身を大きく捻り、言った。
茶化すような水穂の言葉に、あははと声を上げて笑ったあと、そうやねえ、と母はどこか感慨深げに頬杖を突いた。
「でもおかげさまで、こうした時間が一番の休養やねん。働いてばっかやと、子どもとその友達が仲良くしとうとこなんか、滅多に見られへんやんか。私にとったら、この場におれるだけで幸せやで。お父さんは、どうか知らんけどな?」
わたしと水穂が揃って視線を向けると、父のコップを持つ手がぴくりと震えた。余計なことを言うな、という目で母を見る父だったが、母はそんなこと露知らずといった表情で、小さく体を揺らしながら隆一たちを眺めている。
「あれはたぶん、一緒にやりたいんやで」
水穂が小声で耳打ちしてきたので、わたしは力強くうなずいた。花火を始めてから、母はちょくちょく会話に参加していたが、なにか我慢比べでもしているかのように父はずっとだんまりを決めこんでいた。花火なんてする気分じゃなかったのかと気がかりだったが、それなら近くにいる必要もないよなあとも思い、始終疑問だった。
なるほどそういうことだったのか、と一気に雲は晴れたものの、男心ってわからん、という謎だけがぽつんと残った。
「――あ」
「あたしの勝ちやな」
あと一歩というところで競り負けてしまった。ぽてっと落ちた火種は、一瞬で地面の色に溶けこんでいった。
「もー」数秒遅れで燃え尽きた水穂の線香花火を、にへへと自慢げに笑う水穂を、交互に憎らしく眺める。「お父さんのせいや」
「勝手にひとのせいにすんな」
不意にのっそりと腰を上げた父は、なにやらわたしの隣まで歩いてきた。縁側の床板はところどころ痛んで柔らかくなっているのだが、丁寧にその箇所を避ける父になぜか大黒柱の風格を見た。
並んで座ると改めて父の偉大さが実感できるようだった。体つきもそこまで屈強ではないし、背丈もわりと平均的な父だが、それでも間近で見れば全身の骨格はがっちりとしているし、どっしりとした居住まいはこの上なく頼もしく感じる。
黙って線香花火に火をつける粛々とした動作をはたで見ながら、このひとの娘でよかったなあ、と突拍子もなくわたしはそんなことを思うのだった。
一時間と経たないうちに、わたしたちのささやかな花火大会は幕を下ろした。さすがに庭で打ち上げ系をするわけにもいかず、手持ち花火だけにしようということになったのだが、いざやり終えてみるとわたし自身も物足りない気がしていた。
だからといっていまから再び買出しに行くわけにもいかず、結局母が言った「また今度やればええやん」のひとことで場は収まった。
一緒にご飯食べてったらええやん、と駄々をこねる秀を優しく諭していた水穂に、そろそろ行こか、とわたしは目で合図を送る。水穂が同じく目でうなずきかえしてきたのを見計らい、畳から腰を上げた。
「水穂送ってくるわ」
「あ、恵」台所で夕飯の支度をしていた母は、濡れた手を慌しく拭きながら玄関まで小走りでやってきた。「お父さん、もう風呂上がるやろうし、車で送ってもらったほうがええんちゃう。最近物騒やし。水穂ちゃんも、お供が恵やと正直不安やろ」
「……そうですね。すこし」
「そこ変なところで話合わせんでええから!」
こりゃ失敬と言わんばかりに頭に手を載せる水穂を半目でにらむと、冗談冗談、と母に割って入られた。
花火を始めたころはまだ薄明るかったが、しかしすでに外は完全に夜だ。往路はまだふたりなのでいいとしても、水穂を送ったあとの帰り道が不安といえば不安だった。口に出すと、そこなん? と水穂に笑われる気がしたので黙っていたが、毎日のように殺人や失踪といった類のニュースを見ていると、もはやいつ自分の身に起っても不思議ではないように思えてくる。
「なんだかんだ言うても家すぐそこですから。そんな気い遣うことないですよ」
水穂は朗らかに言うが、渋る母はなかなか引こうとしなかった。そんな母の神妙な表情を見ていると、吸い寄せられるようにわたしも母の側に回ろうとしてしまう。
「お父さんも久しぶりに恵たちと遊んだんやから、機嫌はええで。絶対」
「うん。そうしよう? 水穂」
「でも悪いやんか。疲れてんのに無理に働かせたら」
「これくらいで根ぇ上げる男やないで、あのひとは」浴室から聞こえてくる水音を背景に、気前よく母は笑う。「私が何回振っても諦めんかった男やからな」
「あ、押しに負けたいうやつですか」
「……そんなところ」
かすかに頬を染めてはにかむ母を執拗にからかう水穂にブレーキをかけさせつつも、帰ったら詳しく問い詰めようとわたしは計画を練っていた。いままで何度尋ねてもはぐらかされてきた夫婦の馴れ初めだが、きょうこそきっちり吐かせてみせよう、と。
「私もいちおう免許は持ってんねんけどなあ」
ぽつりと母が漏らした言葉に、水穂はかすかに表情を動かした。が、すぐにその先の言葉が予測できたのか、ふにゃりと力なく口角が下がった。
「もう十年近くハンドル握ってへんから、夜道の運転なんか怖くてようできひんわ。このへん道狭いやんか。下手に傷でもつけたらお父さんに殺されるし」
同情するように眉根を下げる水穂だったが、わたしには逆に母が父を返り討ちにしている画しか思い浮かばなかった。むしろ父に同情した。
「……遅いなあ。はよ上がれって言うてこよか?」
「結構ですって」
母の世話焼きは生まれつきのものらしく、特に他所様が相手となるとその程度は身内のわたしが慌てて止めに入りたくなるほどだ。
苦笑いする水穂を隣で微笑ましく観察していると、奥の階段から隆一が相変わらず気だるそうに下りてきた。
「なにしとん」
「お父さんの風呂待ち。水穂帰るから」
わたしが答えると、ふうんと浴室のほうを見やり、しばし目を泳がせてからどこか言い訳じみた言いかたで隆一は言った。
「俺も行く」
直後、そこにいたわたしを含む女三人の反応は見事に三者三様だった。
あらあら、と目を丸くする母。
は? と言葉に詰まるわたし。
そして、口元だけ意味深に笑う水穂。
「――お母さん、ご飯まだ?」
居間で秀が空腹を訴える声が、狭い玄関に場違いなまでに響き渡った。
隆一が一緒ならということで、父を待つのはやめて徒歩で送ることになった。
点々と並んでいる街灯がぼんやりとした明かりを放つなか、日曜夜の住宅街は極めて静かだった。車通りはちらほらとあったが、わたしたちのように歩いているひとはいまのところひとりも見ていない。はるか遠くを走る神戸電鉄の喧騒が、ときどき、耳元でささやきかけるように聞こえてくる。
「楽しかったなー、花火」
「そう言ってもらえたら主催者冥利に尽きるわ」
「せやろせやろ」
にっと口角を上げた水穂は、ちらりと一瞬背後を気にして、しかしすぐに何事もなかったかのごとく前を向いて歩き続ける。それももう何度繰り返したことか。
並んで歩いているわたしたちの数歩後ろで、隆一は終始無言を保ったままついてきていた。ほんまに一緒に行くだけなんやな、と驚きと呆れを半々に感じながらわたしは思う。なにか用があってついてきたのではなかったのか。
「でもまた急やったよな。ちょうど予定開いとったからよかったけど、バイト入っとったらどうする気やったん」
「水穂がいつ休みとっとうか店長に聞いたらな、あっさり教えてくれてん。どうせプライバシーがどうこう言うて、無理やろなあって思っとったんやけど」
わたしがなんともなしに言ったところ、小さな舌打ちをひとつ挟んだあと、あんのくそオヤジめ、と歯を食いしばりながらいまにも火を吹きそうな口調で水穂は言った。相変わらずの口の悪さは、もはや正す気も起きない。
「あたしらにはあんだけしつこくプライバシープライバシー言っとうくせに、なんなん。あ、なんもしみちゃんを責めとうわけちゃうで? 奴の言動が一致してへんことに怒ってんねん、あたしは」
「奴て……。いちおう店長やで、店長」
放っておくといまからでも店に飛んでいきそうな勢いの水穂に注意しつつ、ただ怒りが収まることをわたしは祈った。
「ごめん。勝手なことしたわたしが悪かった。最初から直接聞けばよかったよな」
「しみちゃんはなんも謝ることないで。よかれと思ってそうしたんやろうし」
完全に地雷を踏んでしまったらしく、怒れる水穂の声は幾度となく住宅街の狭い道路中に響き渡った。歩調もいくらか激しさを増したように思える。これはもう自然鎮火を待つしかないやろうか。そう思いかけたとき、ふと後ろにいる存在を思い出した。
なんとかしい、と身振り手振りで必死に訴えかけたが、意味がわからないとでもいうように隆一は顔を逸らした。わかっているだろうに、そのわざとらしさに苛立つわたしがいた。
まだ諦めきれんから、そうやってついてきてるんちゃうん。
隆一は隆一なりの考えがあってこうしてついてきているのだろうが、そんなことはどうでもよかった。ただその態度が気に入らない。
前に歩み続ける爪先に力が篭り、体が踏み止まろうとした矢先、なにか電流のようなものがわたしの頭のなかを走った。
前にも衝動に任せて犯した、愚行とも言える行動があった。結局は未遂だったが、手には感触として、目には映像として、頭には記憶として、いまでもたしかに残っている。
何度も反省したはずの過ちを、またこんなところで繰り返すのか。それこそ馬鹿げているのではないか。
我を忘れて獣のように飛びかからんとしていたわたしを辛うじて繋ぎ止めたのは、ほかの誰でもない、同じ過ちを犯したかつてのわたしだった。
半歩引いていた足を再び前に進めながら、かっかと火照った体を冷やそうとわたしは深呼吸を繰り返した。
「決めた」
「……なにを?」
「明日のバイトでひとこと言ったんねん。そんなんやから、三十五にもなって彼女のひとりもできひんねやって」鼻息荒く握りこぶしを軽く掲げてみせる水穂には、いつの間にか普段の落ち着きが戻ってきていた。
「それ言うたらほんまにへこむで、店長。あれでも気にしとんやから」
「せやから言ったんねん。ちょっとくらいへこましたらんと気がすまんわ」
ここまでくると、もうはいはいとうなずくしかなかった。明日はふたりの痴話喧嘩がまた客席にまで轟くことだろう。そしてどういうことか、そんな日に限って水穂とシフトが被っていたりするのだ。まったくもって世のなかはうまくできていると思う。
「――あ、ここまででええよ。もう家見えとうし」
水穂に一歩遅れて足を止め、うん、とわたしは答えた。二十メートルほど先には小西家のマンションが建っている。街灯のぼやけた明かりに浮かぶ卵色の外壁は、いつ見ても可愛らしい。
「きょうはつきあってくれてありがとう。いきなりやったのに」
「ええってええって。しみちゃんなりのサプライズやろ?」
「まあ、ね」
照れ隠しに顔を背けると頬をつつかれた。ぷに、という擬音が聞こえてきそうだった。このところよく間食を摂っていたせいか、増量気味かもしれない。
水穂はそのまま一歩二歩と先へ行くと、おもむろにくるりと振り返った。
「またやるときは言うてな」
「もちろん。今度は水穂のお父さんお母さんも来れるとええな」
「誘えそうな雰囲気やったらな」苦笑いする水穂は一度マンションに目を遣ると、やや言葉に詰まりながらも、努めて笑顔で言った。「まだまだ働き盛りやから。うちの親」
水穂が暇さえあればわたしたちの家に遊びに来る理由。本人にもいままであえて触れたことはなかったが、その表情を見て、なんとなくだがわかったような気がした。
「隆一」
水穂が放った声の先、わたしの後ろで銅像のように突っ立っていた隆一は、無愛想に視線をあさっての方向に逸らしたまま、なんだよ、とつぶやいた。
「いつまでもふて腐れとったらあかんで。あたしよりいい女なんてごろごろおるんやから。クラスの女子にも、未練がましい男は嫌われるで。せっかくの男前なんやから」
「誰が――」
隆一の顔がみるみるうちに赤くなっていくのを楽しむように、水穂はにたにた笑いを浮かべている。
「一緒に行く言うてくれたとき、嬉しかったで」
お、とわたしが気持ち前のめりになったとき、隆一は隆一で、林檎のように真っ赤にした顔を隠すようにうつむき、そして見事にどもった。
「オレはその、親父の風呂待つくらいなら、ちょっとは役立つんちゃうかって」
水穂の顔と隆一の顔をこっそり見比べていると、わたしはいま邪魔なのではないだろうかと不安になってきた。気まずいわけではない。かといって、この場にいるのもためらわれる。言うなれば、こそばゆいのだった。
この場面、ドラマや映画の一場面として観るぶんには構わないのだが、一方が実の兄弟というのは、どうにも感情が先走ってしまう。変に自分を重ねて見てしまう。
「早く行けよ」
「わかったわかった」
やれやれとでも言いたげな水穂の視線を受け、わたしはぎこちなく笑い返した。
水穂が手を振り去っていったあと、ぽつんと道端に残ったわたしたちはしばし無言になった。話題の中心がいなくなったことで、あたかも台風一過のようだった。
「帰ろか」
わたしが言っても隆一は無言のまま、それでも歩き出すとついてきたので気にせず行くことにした。
無言の了解ってええよな、と思う。家族やごく一部の親しいひとにしか通じないことだが、そうやって限定されているがゆえにわたしは安らげるのであって、誰にでも通じるのであればこの気持ちは感じられまい。
「まだ水穂のこと好き?」
時間にして数秒、歩数にして十歩ほどだろうか。ゆったりと間を置いてから、後ろから鼻をすする音が聞こえた。
「わたしはべつに、悪いことやないと思うけど」
車が脇を走り抜け、ふわりと髪が頬を撫でた。肌で感じる空気の温度よりも、たまに感じる風はいくらか冷たい。今年の夏ももう終わりが近いか。
「恵さ」
「なに」
「最近なんかあった?」
「さあ。わざわざあんたに言うほどのことがないのはたしかやけど」
あっそ、とつっけんどんな態度でつぶやいたかと思うと、隆一は言った。
「いっとき家のことほったらかしで遊び回っとったから、また男でもできたんかと思ったんやけどな。もう振られたんか。そうかそうか」
その横柄な口調にはすくなからずむっとしたが、やっぱり見るとこ見とうやん、と姉なりに弟を見直す気持ちのほうが最終的には勝っていた。
「恵、昔から男できるとすぐそっちばっか優先するから。わかりやすいで、ほんま」
「……で? なにが言いたいん」
「親父チャーハンしか作れへんから、毎日毎日夜遊びされるとオレらが困んねんって話」
真顔でそんなことを言われるとは思いもせず、わざわざ振り返ったことを後悔さえした。鋭いところに突っこんでくるかと思いきや、あんたが注目してんのは飯のことか。飯のことなんか。わたしの判断は一部間違っていたらしい。
「心配せんでも、まだ当分はわたしがあんたらのご飯作ったるから」
「いつもらい手出てくるかわからんもんな」
「そんなこと言うやつにはご飯作らん」
「ええよ、自分で作るし」
「じゃあもうきょうから自分のぶんは自分で作りよ。わたしは作らんで」
「馬っ鹿、嘘に決まっとうやろ。だいたい急すぎ――」
「あ、流れ星」
見事につられた隆一を置いて、静かな住宅街に場違いなまでの笑い声を響かせながら、わたしは地面を強く蹴った。隆一は大声を上げて追いかけてくるが、この距離なら足の遅いわたしでも先に帰り着くだろう。
結果は望ましいものではなかったかもしれない。反省や後悔の数も計り知れない。だがこの夏の出来事はそれだけではなく、いい意味でも悪い意味でも、わたしにとって忘れることのない大切な夏になるのは間違いない。
すぎゆく季節は駆け足でも、歩くような速さでいいのだ。
どんなに辛くても、どんなに幸せでも、その一瞬をかみしめて生きよう。
「ただいま!」